顔がびしょびしょだ。
ダラダラダラダラと水がひっきりなしに顔を滴っている。
霧のように細かく軽い雨粒たちは、少しの空気の動きで簡単に煽られて、斜めに吹き付ける。
霧吹きに吹かれたような柔らかな雨たちは、風に乗って雨具を躱し、巧みに、確実に、身体から体温を奪おうとしていた。
空気は冷たい。
降り頻る柔らかな雨の水が、止めどなく熱を吸っているからだろうか。
雨に降り込められたこの町は、ひんやりと死人のように冷たかった。
指先が冷たく悴んでいる。
空には、のっぺりとした濃い灰色の雲が居座っている。
傘をさした誰かが足早に通り過ぎていく。
私はレインコートの前を合わせて、身体をすくめて歩き続けた。
柔らかな雨は相変わらず、私の体温を奪っていた。
それでも私は足を止めなかった。止めたくなかった。
私は、青い影を探していた。
永遠の雨空に包まれた、陰気なこの町に落ちる、青い影を探していた。
王都に近いこの町はしかし、通行人や普通の人間が少なかった。
理由は一つ。
この、柔らかな雨のせいだ。
ある時を境に、この町には四六時中、柔らかな雨が降り続けるようになった。
呪いだ、と大人たちは、まだ子どもだった私たちにそう、語った。
この町はある時、町に殺された霊が呪いとして、降らせ、降り注ぐようになったのだと言う。
青い影は、そんな柔らかな雨のところにふっと現れると、風の噂で聞いた。
だから私は探さないわけにはいかなかった。
びしょ濡れになってでも、青い影を一眼見なくては、と思っている。
私には親がいない。
正確には、親が私たちを逃がしてくれたのだ。
かつてから、この町は迷信深い、排他的な町だった。
町の掟の一つに“ミソっ子”という制度があった。
これは子どもの際限ない虐めや暴力を制限するために、わざと仲間外れの子を決めて、無碍に扱い、幼い人間たちの残虐性の捌け口にするという、性悪説を意地悪く煮詰めて、悪意をたっぷりすり付けたような、そんな碌でもない決まりだった。
二人目の子だった私は、その“ミソっ子”にされるはずの子どもだったそうだ。
母親は、私が“ミソっ子”にされるのを嫌がった。
拒否し続けた。
そしてとうとう、私を、ひっそりと隣町の叔母にやることに決めた。
まだ、物心もついていない幼子を、女で一つで逃すという、無茶な計画だった。
しかし、結果として、私は隣町へ逃げ延びた。
母親を、他の子を犠牲にして、私は隣町の子になった。
町の決まりに背いた母は、見せしめに酷い目にあい、
私の同級生になるはずだった子たちの中から、私の代わりの“ミソっ子”が選ばれた。
そして、ある時、殺されないように管理されていたはずの“ミソっ子”が死んだ。
直ぐに、自ら命を絶ったと分かった。
そして、私の母は、その翌日に、ボロボロの精神と身体をとうとう壊し尽くして、動かなくなった。
柔らかな雨はその日から降り出した。
その雨の町中に、青い影がさすようになったのは、“ミソっ子”と母の形式ばかりの葬式が終わったあとだという。
私は、母を愚かだと思っている。
短絡的な我が身と我が子可愛さに、それまで疑問とすら思わなかった決まりに刹那的に抗って、他所まで巻き込んだ母を。
母のその、短絡的で愚かな選択によって、今、私はこうして、この町に帰ってきて、柔らかな雨の中を彷徨っているのだから。
私は、私の変わり身になった“ミソっ子”を愚かだと思っている。
自分が苦しみから逃れるために自分を殺害し、誰かに復讐を遂げるでもなく、ただ刹那的に逃げた子を。
そのために、この決まりと町に、死後も永遠に囚われ続けているのだから。
私の親族は、もはや誰もいない。
私がここから帰らなくても、悲しむ人はいない。
喜ぶ人はいても。
だから私はここに来た。
青い影に会いたかった。
話を聞いてみたかった。
青い影が、誰のものだったとしても。
私に強い感情を寄せている誰かの感情を向けて欲しかった。
それが、私が生きる意味だと思ったから。
柔らかな雨は、ずっと降り続いている。
体の末端が芯から冷えてくる。
関節も四肢も、すっかり悴んで、まるで死人のような町の空気に取り込まれてしまった気さえする。
それでいいのだ。
顔がむちゃくちゃに濡れている。
雨粒が私を責めたて、体温を奪っていく。
冷たい冷たい空気の中で、私は一歩を踏み出す。
柔らかな雨は、ひたすらに降り続いていた。
黴の青臭い匂いが篭っていた。
ほろほろに崩れた石の壁が、指を呑む。
壁の感覚を右手に、僕たちは歩いていた。
地下道は薄暗かった。
水が微かに流れる音が、ところどころ聞こえる。
足は、軽くぬかるみに沈んだり、捲れた石畳につまづいたりする。
ネズミの目がこちらに光ったかと思うと、素早く去っていく。
もうどのくらい進んだか、よく分かっていなかった。
一筋の光すらない、汚臭すら鳴りを顰めた半ば遺跡のような旧地下道を、僕たちは蝋燭も持たずに突き進んだ。
右手の崩れかけた壁だけが、僕たちの道だった。
僕も、後ろを歩くチビたちも、無言だった。
何を言うべきか、どう騒ぐべきかも分からなかった。
だから、みんな黙って歩いた。
暗闇の中、足下だけを見て。
大人たちの喧嘩が始まってから、僕たちは遊び場を失った。
居場所がいっぺんになくなってしまった。
大人たちは睨み合い、僕らの親は石を投げられて、背中を丸め縮めていた。
僕らの親は、僕らをこれまで育ててきた大人たちは、僕らに言った。
「この地下道を通って、これを持ち出しておくれ。それが上手くいけば、それが届けば、それだけで元の生活に戻れるさ。戻れるはずなんだ…」
大人たちがそう言って差し出した封筒を握って、僕たちは地下へ潜った。
行き先は王都の方角。隣町。
僕たちは、地上の大人たちに見つからないように、地下道を歩き続けていた。
早く元の生活に戻りたかった。
親と一緒に町へ出て、遠巻きに頭を下げる大人たちに手を振りながら、遊び場へ、太陽の下を駆けていきたかった。
母さんと召使いのおばさんが用意してくれる、動きにくいピカピカの靴を履いて、アイロンの折り目が固い、柔らかな服を着て、「汚さないでくださいよ」なんて小言を聞き流しながら、外へ出て…。
そんな生活に戻りたかった。
僕たちは、封筒を胸にしっかりと押し付けて抱いていた。
ここではこれが、僕たちの一筋の光なのだ。
この黴臭い真っ暗影の中のたった一筋の、光。
僕たちは歩き続けた。
この上…隣町の地下道の上の町道は、崩れかかっているらしい。
隣町には、長らく、領主様以外の人がいないのだ、と、大人たちが言っていた。
だから、隣町につけば見えるはずだ。
町の道の穴から漏れ出る一筋の光が。
爪先がかくん、と傾いた。
石畳がすこし浮いていたらしい。
ここ、気をつけて。
掠れた声でそれだけ伝える。
それは後ろへ後ろへと伝わっていく。
僕たちは前を向いて歩き続けた。
胸に押し抱いた一筋の光を消さないために。
見えてくるはずの一筋の光を浴びるために。
青黒い闇が大きく口を開けていた。
果てしなく、果てしなく。
明るく色づいた茶碗に、ご飯を入れる。
炊き立てのご飯は、ほわほわと湯気を立てている。
ご飯を口に入れる。
噛み締めると、米の甘さだけが口の中へ広がる。
白飯を噛み締め、噛み締めながら、つくづくヒトの神離れを実感する。
私は、この辺りの地域の豊穣の神として、三百年ほどの間、祀られている。
といっても、私が何かするわけではない。
神とは大抵、いるだけで自然が発生する存在であり、それを見たヒトが、その力を勝手にありがたがって祭り上げるものなのだ。
私たちはもともとは自然なのだから。
私は主にイネ科の植物に好かれていた。
おそらく、もともとイネ科の植物という自然の一部だったのだろう、私は。
だからお米だけには困らない。
しかし、ヒトに祭られて以来、すっぽり飯というのはついぞ食べていなかった。
ヒトが勝手に私に感謝して、私を祀ったのだという社にお供物をしてくれていたからだ。
ヒトは、栄えている時には肉や魚や酒を。
貧しい時は芋や瓜や根菜を。
そしてよく、味噌や醤油や塩を供えてくれた。
それらは米によくあった。
私は彼らの供物をありがたく頂いて、白ご飯のおかずにしたのだ。
あまりに人の貧しい時には、ちょっとお礼めいたこともした。
米を竹や柿の葉に包んで、社に置いてみたりなどした。ヒトと私は、そんな不確かで、和やかな、頂き物で繋がった関係であった。
しかし、最近、ヒトは私の社に訪れなくなった。
村が合併だとかなんとかでどこかへ移動し、ぽつんと私の社だけが残った。
人里離れたくたびれた社には、来るヒトも少なく、手入れに来る者もいない。
お供物はすっかりなくなった。
ある時、久々に訪れた旅行者らしきヒトが、言っていた。
哀愁を誘うお社だ、荒れ放題ではないか、と。
どうやらそのヒトは、私が寂しく思っているのではないかと思ったらしい。
社の写真を何枚も撮り、明後日の方向へ向かって、私に色々と喋りかけてから、帰っていった。
むしろ、そいつの姿が私の哀愁を誘った。
私は別にヒトが来なくともよかった。
すっぽり飯だって、よく噛めば豊かな米の甘さがあり、シンプルなご馳走だ。
荒れ果てた社は、私の原点の自然という感じで、むしろ郷愁と落ち着きが心地良い。
ヒトはすっぽり飯にも、忘られさられた場所にも哀愁を誘われる生きものらしい。
しょうがない。彼らは、協力と関係で生きてきた種族なのだから。
ヒト同士で。
他の動物と。
自然と。
彼らは常に関係を築き、その力を利用して、生きてきたのだから。
忘れられ、関係に弾き出された孤立したものが、ヒトの哀愁を誘うのは、仕方ないことだ。
しかし、孤立した存在として当たり前な私にとっては、よく分からない感情だった。
米をゆっくり噛み締める。
仄かな甘い、柔らかな甘さが口に広がる。
哀愁を誘うという味は、それはそれで劣らず美味かった。
シャワーヘッドを回して、水を掛けた。
白い曇を、透明な水が払っていく。
銀色のシャワーヘッドを写した透明の粒が、透明な水の筋を描きながら落ちていく。
シャワーを止めて、向き直る。
水滴が、ぽたり、ぽたり、と滴り落ちる。
ほっそりと、骨ばんだ身体が写っていた。
曇が晴れた鏡は、水滴を滴らせながら、真実を写し出していた。
鏡の中の自分は、疲れた顔をして立ち尽くしている。
今日も走りすぎたのだろう、足が重たい。
軋む体を引き摺って、シャワーを手に取る。
熱いお湯が、勢いよく流れ出た。
強いお湯を浴びながら、天井を仰ぐ。
白く明るく無機質なタイルが、こちらを見下ろしている。
吐いた分、身体は軽い。
走った分、四肢は重い。
お湯が止めどなく、髪の端から流れ落ちた。
お湯はタイルの間を流れて、排水溝へと落ちていく。
抜けた髪の毛が一本、すうっと水に流されて、見えなくなった。
シャワーを止めて、シャンプーを手に出した。
手のひらを擦り合わせながら泡立てていると、疲れた気持ちがちょっとだけ治るような気がして、鏡をのぞいた。
相変わらず疲れ切った自分が、鏡の中にはいた。
シミと、毛穴が見える頰が微かに上がっている。
私は昔から、食事が苦手だった。
過食で吐き、拒食で吐き。
食べ過ぎては倒れ、食事のしなさすぎで貧血で倒れる。
食事中も、口に入れる物の大きさを誤って、喉に詰めたり、咳き込んだりはしょっちゅうだった。
食事ができないわけではない。
食事が嫌いなわけではない。
ただ、物を口に詰め込むという行為が上手くできないのだ。
口から食べ物を補給して、消化するということが、私は生まれつき、苦手だ。今も。
だから、鏡の中の自分は、いつも痩せていて、不健康で、見窄らしく見えた。
水やお湯を浴びれば、雨の日の溝川の濡れ鼠のようで、肌が乾いていれば、水一つない砂漠に放られたカラカラの骨のように見えた。
頼りなくて、何をしてもグズで、ガリガリな自分がいつもそこにいた。
…蛇口を捻って、シャワーの勢いを強めた。
お湯の蛇口を目一杯に捻って、お湯をますます熱くする。
白い湯気を上げながら、熱いお湯がタイルに叩きつけられた。
私は、鏡の中の自分が嫌いだった。
見ていられなかった。見たくなかった。
だから、だから…
いつもお風呂の時は、熱々のお湯で、一心に体を洗う。
鏡が曇るように。
白い湯気と透明のお湯の熱気が、鏡の中の自分を消してしまいますように、と願いながら。
今日も私は蛇口を捻る。
風呂場は静かだった。シャワーのお湯がタイルを叩く音だけが響いた。
私は顔を背けて、シャワーを浴びていた。
肌が熱さでヒリヒリした。
シャワーの音だけが、風呂場の中に反響していた。
指がぬらぬらと光っている。
暗闇の中に、鋭く、手についた赤い液体が、てらり、と不気味に網膜に焼き付いた。
鉄のような匂いが辺りに立ち込めていた。
ここはどこか。
どうしても思い出せなかった。
分かったのは、また眠りに落ちてしまったんだということ。
目が覚めたから、この身体はこんな暗闇で、手を血塗らせて立ち尽くしているのだ、ということ。
正面に木の戸が見える。
『おおかみと7ひきのこやぎ』に出て来そうな、小さくて頑丈な木の戸だ。
木の戸には、きちんと前足を覗かせる事が出来そうな、横に細長いのぞき窓がついていた。
酷く喉が渇いていた。
眠った後のはずなのに、眠気がジリジリと脳幹を焦がしていた。
足元に散らばった山羊の毛が、真っ赤にてらてら飛び交っていた。
ため息をひっそりとつく。
こうなってしまったのなら早い事、この町を出なくてはならない。
眠りにつくといつもこうなのだ。
呪いの子、とみんなは呼んだ。
私が初めて“眠りについた”のは、幼稚園に通い出した頃だった。
私はお昼寝中に、睡眠の奥の奥に、眠り込んでしまった。
眠りにつくというのは、とても心地の良いものだ。
記憶の奥深く、自分の脳髄に丸ごと意識の全身を浸す。
ゆっくりと、でもなんの抵抗もなく、輪郭が解けて、深い深い、青黒い闇の中に溶け込んで、広く強く大きくなる。
冷たくて、川に浮いているように万能感に溢れて、とても心地良い。
深い、深い、意識の奥は、何も考えなくていい。
何も感じなくていい。
心に染みる冷たさだけの世界だ。
そこまで潜ることが“眠りにつく”ということだ。
そして、脳髄からゆっくり浮き上がって、輪郭を取り戻した時、周りは大抵、真っ赤な液体に塗りたくられたバイオレンスな風景に変わり果ててしまう。
自分が眠りについた間、何をしているのかは薄々気づいた。
おおかみ、と誰かが呼んでいたことも覚えている。
だから、私は一所にはいられない。
血生臭い眠りに向き合いながら、血生臭い旅を続けている。
素早く辺りを見回す。
外も真っ暗だ。青白い月が高々と空に浮いている。
どうやらまだ、真夜中のようだ。
腕で血を拭って、素早く外に出る。
喉が渇いた。
眠気もすごい。
眠りについた後はいつもそうなのだ。
山の奥に入って、川の水を飲んだ。
血を拭って、洗い流す。
水が美味しい。甘い。
手で救って、何度も飲み干す。
手で口周りの水滴を拭って、立ち上がる。
次に眠りにつく前にできるだけ、ここから離れなくては。
私は眠りにつくあの感覚が好きだ。
何も考えなくて良いし、冷たくて心地良いから。
だから、私は旅を続ける。
次に眠りにつく前に。
拭いそびれた水が、首の皮を伝っていった。
ひんやりと、冷たく、心地よい。
川の淵に足を浸す。
冷たい。心地良い。
眠りにつく時みたいだ。
足を川の方へ進めてみる。
眠りに完全につく前の、あのひんやりと心地良い感覚が足首から、ふくらはぎ、太もも…とだんだん競り上がってくる。
輪郭が解けるように、力が抜ける。
身体が冷たさに溶け込んでいく。
一歩踏み出す。
進んでいけば、進んでいけば、私はきっと眠りにつける。
青い水が気持ち良い。
私はどんどん進んでいった。
深い方へ、深い方へ、深い、深い眠りへ。
水は青く澄んでいた。
空も青く澄んでいた。
秋風が川の水を優しく撫でていた。
木々がふわっとざわめいた。