薄墨

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明るく色づいた茶碗に、ご飯を入れる。
炊き立てのご飯は、ほわほわと湯気を立てている。

ご飯を口に入れる。
噛み締めると、米の甘さだけが口の中へ広がる。
白飯を噛み締め、噛み締めながら、つくづくヒトの神離れを実感する。

私は、この辺りの地域の豊穣の神として、三百年ほどの間、祀られている。
といっても、私が何かするわけではない。
神とは大抵、いるだけで自然が発生する存在であり、それを見たヒトが、その力を勝手にありがたがって祭り上げるものなのだ。
私たちはもともとは自然なのだから。

私は主にイネ科の植物に好かれていた。
おそらく、もともとイネ科の植物という自然の一部だったのだろう、私は。
だからお米だけには困らない。

しかし、ヒトに祭られて以来、すっぽり飯というのはついぞ食べていなかった。
ヒトが勝手に私に感謝して、私を祀ったのだという社にお供物をしてくれていたからだ。

ヒトは、栄えている時には肉や魚や酒を。
貧しい時は芋や瓜や根菜を。
そしてよく、味噌や醤油や塩を供えてくれた。
それらは米によくあった。
私は彼らの供物をありがたく頂いて、白ご飯のおかずにしたのだ。

あまりに人の貧しい時には、ちょっとお礼めいたこともした。
米を竹や柿の葉に包んで、社に置いてみたりなどした。ヒトと私は、そんな不確かで、和やかな、頂き物で繋がった関係であった。

しかし、最近、ヒトは私の社に訪れなくなった。
村が合併だとかなんとかでどこかへ移動し、ぽつんと私の社だけが残った。
人里離れたくたびれた社には、来るヒトも少なく、手入れに来る者もいない。
お供物はすっかりなくなった。

ある時、久々に訪れた旅行者らしきヒトが、言っていた。
哀愁を誘うお社だ、荒れ放題ではないか、と。
どうやらそのヒトは、私が寂しく思っているのではないかと思ったらしい。
社の写真を何枚も撮り、明後日の方向へ向かって、私に色々と喋りかけてから、帰っていった。

むしろ、そいつの姿が私の哀愁を誘った。

私は別にヒトが来なくともよかった。
すっぽり飯だって、よく噛めば豊かな米の甘さがあり、シンプルなご馳走だ。
荒れ果てた社は、私の原点の自然という感じで、むしろ郷愁と落ち着きが心地良い。

ヒトはすっぽり飯にも、忘られさられた場所にも哀愁を誘われる生きものらしい。
しょうがない。彼らは、協力と関係で生きてきた種族なのだから。

ヒト同士で。
他の動物と。
自然と。
彼らは常に関係を築き、その力を利用して、生きてきたのだから。

忘れられ、関係に弾き出された孤立したものが、ヒトの哀愁を誘うのは、仕方ないことだ。

しかし、孤立した存在として当たり前な私にとっては、よく分からない感情だった。

米をゆっくり噛み締める。
仄かな甘い、柔らかな甘さが口に広がる。

哀愁を誘うという味は、それはそれで劣らず美味かった。

11/4/2024, 12:48:55 PM