指がぬらぬらと光っている。
暗闇の中に、鋭く、手についた赤い液体が、てらり、と不気味に網膜に焼き付いた。
鉄のような匂いが辺りに立ち込めていた。
ここはどこか。
どうしても思い出せなかった。
分かったのは、また眠りに落ちてしまったんだということ。
目が覚めたから、この身体はこんな暗闇で、手を血塗らせて立ち尽くしているのだ、ということ。
正面に木の戸が見える。
『おおかみと7ひきのこやぎ』に出て来そうな、小さくて頑丈な木の戸だ。
木の戸には、きちんと前足を覗かせる事が出来そうな、横に細長いのぞき窓がついていた。
酷く喉が渇いていた。
眠った後のはずなのに、眠気がジリジリと脳幹を焦がしていた。
足元に散らばった山羊の毛が、真っ赤にてらてら飛び交っていた。
ため息をひっそりとつく。
こうなってしまったのなら早い事、この町を出なくてはならない。
眠りにつくといつもこうなのだ。
呪いの子、とみんなは呼んだ。
私が初めて“眠りについた”のは、幼稚園に通い出した頃だった。
私はお昼寝中に、睡眠の奥の奥に、眠り込んでしまった。
眠りにつくというのは、とても心地の良いものだ。
記憶の奥深く、自分の脳髄に丸ごと意識の全身を浸す。
ゆっくりと、でもなんの抵抗もなく、輪郭が解けて、深い深い、青黒い闇の中に溶け込んで、広く強く大きくなる。
冷たくて、川に浮いているように万能感に溢れて、とても心地良い。
深い、深い、意識の奥は、何も考えなくていい。
何も感じなくていい。
心に染みる冷たさだけの世界だ。
そこまで潜ることが“眠りにつく”ということだ。
そして、脳髄からゆっくり浮き上がって、輪郭を取り戻した時、周りは大抵、真っ赤な液体に塗りたくられたバイオレンスな風景に変わり果ててしまう。
自分が眠りについた間、何をしているのかは薄々気づいた。
おおかみ、と誰かが呼んでいたことも覚えている。
だから、私は一所にはいられない。
血生臭い眠りに向き合いながら、血生臭い旅を続けている。
素早く辺りを見回す。
外も真っ暗だ。青白い月が高々と空に浮いている。
どうやらまだ、真夜中のようだ。
腕で血を拭って、素早く外に出る。
喉が渇いた。
眠気もすごい。
眠りについた後はいつもそうなのだ。
山の奥に入って、川の水を飲んだ。
血を拭って、洗い流す。
水が美味しい。甘い。
手で救って、何度も飲み干す。
手で口周りの水滴を拭って、立ち上がる。
次に眠りにつく前にできるだけ、ここから離れなくては。
私は眠りにつくあの感覚が好きだ。
何も考えなくて良いし、冷たくて心地良いから。
だから、私は旅を続ける。
次に眠りにつく前に。
拭いそびれた水が、首の皮を伝っていった。
ひんやりと、冷たく、心地よい。
川の淵に足を浸す。
冷たい。心地良い。
眠りにつく時みたいだ。
足を川の方へ進めてみる。
眠りに完全につく前の、あのひんやりと心地良い感覚が足首から、ふくらはぎ、太もも…とだんだん競り上がってくる。
輪郭が解けるように、力が抜ける。
身体が冷たさに溶け込んでいく。
一歩踏み出す。
進んでいけば、進んでいけば、私はきっと眠りにつける。
青い水が気持ち良い。
私はどんどん進んでいった。
深い方へ、深い方へ、深い、深い眠りへ。
水は青く澄んでいた。
空も青く澄んでいた。
秋風が川の水を優しく撫でていた。
木々がふわっとざわめいた。
鱗に覆われた白光りする体が、大きく太く横たわっていた。
足を踏み出すと、蛍光色に光る緑の苔が、靴の爪先に纏わりつく。
澱んだ重たさすら感じる、鈍い湿気が満ちている。
白い鱗の体に向かって歩く。
泥と湿気に覆われて、青臭く生い茂った苔は、黒々とした泥と一緒に、こびりついてくる。
歩きながら、袂に隠し持った短剣に触れた。
ひんやりとした金属の鋭い冷たさが、心地良い。
私は今から、あの白い大蛇を殺す。
永遠を永遠たらしめる、あの蛇を。ウロボロスを。
足を上げる。
苔の奥の泥が、靴の裏にべっとりと纏わりついている。
私は永遠に生かされている。永遠に生きていなくちゃいけないんだ。
人買いに殺されそうになった私を、庇って助けだしたその青年は、寂しそうにそう言った。
笛を吹く不思議な男の音楽につられて、町を出た私たちに待っていたのは、恐ろしい現実だった。
足が不自由だったあの子は帰された。
子どもには厳しすぎる現実に、放り出された。
町一番の美人のあの子は、大人たちに手を引かれて、艶やかな光が怪しく灯る、細い路地に引き摺り込まれて行った。
一番力のあったあの子は、ふっくらとした身なりの綺麗な大人に呼ばれて、その何倍も屈強そうな大人たちに囲まれて、どこかへ消えてった。
一番素直で可愛らしかったあの子は、暗い眼差しをして、ポカリと開けた口から涎を垂らした、危ない大人に手を引かれて、それから二度と会うことはなかった。
あの男が人買いだと気づいたのは、一番賢いあの子だった。
あの子は逃げ出そう、と言い出して、私たちは逃げようとして…
あの男が、魔術師仲間で友人だという青年と話しているうちに。
私たちは逃げ出そうとした。
一番幼かったあの子が物音を立てて、見つかった。
あの笛の曲が響いた。
私は咄嗟に耳を塞いだ。
音楽を聴いてしまって、否応なく引き摺り出された子どもたちは、見せしめのためか、声を荒げた男に殺された。
男が笛を吹き、短剣を振るう。
短剣はみんなを屠っていった。
血と汗と、涙の匂いがした。
シューーーーー
這うような蛇の声のような音が、絶えず聞こえていた。
気づくと、周りには死体が散らばっていた。
みんなの死体と、男の死体。
真っ二つに割れた笛が、男の手のそばに転がっていた。
そして、その真ん中にあの人がいた。
青年の顔をした、あの人が。
シューーーー
蛇の声は、その人からしていた。
助けてもらった礼を言った後、蛇の声の話をすると、青年のようなあの人は、目を見開いて驚いた。
それから話してくれた。
私はある沼地でまだ幼かったウロボロスにつまづいてしまった。
そして、ウロボロスに呪われてしまったんだ。
私は、ウロボロスに永遠と死を与えられたんだ。
私は永遠に死ねないし、永遠に生き続けるんだ。
そして、永遠に誰かの命を終わらせながら、ウロボロスの永遠を特別なものにし続けなくてはいけない。
…もう私の大切な人はみんな死んでしまったよ。
あの人は、青年の顔で、私の、ボケてしまったおばあちゃんみたいな瞳をしてそう言った。
その沼地はこのすぐそこにある。
そこはウロボロスの棲家なんだ。
永遠に生き続けるということは、本当に辛いことだ。あのウロボロスが死ぬまで、…ウロボロスに死なんてないのだろうが…私はずっとこのままだろう。
だから、嬢ちゃん、あの沼地で蛇には関わっちゃいけないよ。
嬢ちゃんが生き残れたのは奇跡だ。命を大切に、生きていくんだよ。
そう言ってあの人は、私の頭をぐしゃり、と優しく掻き撫でると、去っていった。
私はあの人に恩返しがしたかった。
それにあの人のような、あの強大な力を手に入れたかった。
ウロボロスの力が。
だから私は沼地に入った。
白い鱗の巨体が、目の前まで迫ってきた。
私は隠していた短剣…男の死体から密かに盗み取ったあの短剣を抜き払った。
私の父さんは、あの笛吹き男が現れるまでは害獣駆除を請け負っていた。
父さんは、私に仕事を教えてくれた。鼠や鴉や…蛇の殺し方を。
私は鱗を瞬時に観察して辺りをつけると、短剣を振り上げて、思い切り、白い巨体の鱗の間に差し込んだ。
凄まじい蛇の断末魔が轟いた。
白い巨体の、鱗の間の柔らかな肉が深く裂け、赤い液体を吹き出しながら、のたうった。
巨体が震えた。
断末魔が、細く、細くなって消えた。
終わった。
私は足を踏み出した。
鱗に覆われた白光りする体が、大きく太く横たわっていた。
足を踏み出すと、蛍光色に光る緑の苔が、靴の爪先に纏わりつく。
澱んだ重たさすら感じる、鈍い湿気が満ちている。
白い鱗の体に向かって歩く。
泥と湿気に覆われて、青臭く生い茂った苔は、黒々とした泥と一緒に、こびりついてくる……
桃の甘い香りを鼻いっぱいに吸い込む。
クリーム色の霞が、空気の中を泳いでいる。
空気は暖かく和やかで、空は手が触れるほどのところに、青々と高く広がっている。
険しい山々が辺りを取り囲んでいる。
鋭く厳しく生えた山々の中にぽっかりと空いたこの桃源郷は、辺りの厳しさに引き立てられて、返ってその理想的な美しさと和やかさを瑞々と繰り広げている。
甘い花と桃の香りが、霞に乗って立ち込めている。
香を抱きしめたような良い香りが、クリーム色の靄となって、この山の凹んだ頂上に、冴え冴えとこの一面にだけ、広がっている。
ここだけが、別世界のようだ。
呆気に取られて、その景色を眺めた。
傍にいる養い子が、衣の袖を強く掴むのを感じた。
その子の細い肩をそっと抱いてやる。
異世界のような不思議な空間だったが、怖さや不気味さは少しも感じなかった。
むしろとても魅力的だった。
ずっとここにいたくなるような、帰りたくないような、そんな甘い誘惑が、この地には立ち込めていた。
まるで理想郷だ。
私たちは、この険しい山脈を越えるために、商隊と列を組んで山越えに来ていた。
山犬に追われ、商隊と逸れて辿り着いたのが、他でもないこの理想郷だった。
私たちは、根のない旅ガラスだった。
権力争いの一端に巻き込まれ、流された噂によって国を追われた私は、旅の途中に出会った行商人の親を狼と盗賊によって失い、孤児となった養い子を連れて、アテのない旅をしていた。
旅には慣れていたが、時折、落ち着いた家が無性に恋しくなる夜がある。
昨夜はそんな夜だった。
甘い香りが、鼻いっぱいに広がり、胸いっぱいに入ってくる。
温かい空気感は心地よい。
辺りの霞を吸い込むと、空いていたはずの腹はくちく、山犬と商隊の人間関係に擦り減らしていたはずのピリピリとした心が、和やかに丸く満たされている。
いっそ、ここに住めたら。
ここはきっと、私のような者のための理想郷だ。
ここに定住できたら良いのに。いや、ここに住もう。
霞と咲き乱れる花畑の向こうに、川がキラキラと流れていた。
向こうのほうはさらに霞が濃く立ち込めて、なんとも言えない美しくて爽やかな深い香りがしているようだった。
ああ、あの向こうに行かなくては。
ここは私の理想郷なのだから。
フラフラと足を踏み出す。
かくん、と、身体がつんのめった。
振り返ってみると、私の養い子が、必死で私の足にしがみついていた。
普段物分かりのいい、無口で動じないあの子の顔は、はっきりと青ざめ、恐怖に染まっていた。
あの子は必死の形相で、私にしがみつき、髪を頬にひたひたとぶつかるのをそのままに、激しく首を横に振った。
冷や水をかけられたように目が覚めた。
向こうを見返す。
キラキラと流れる川が、やけに冴え冴えと、不気味なくらいに異様に見えた。
「…そうだね。あんたの言う通りだ。戻ろうか」
背を伝う冷や汗に、舌を絡ませながらなんとかそういった。
あの子は少し顔を緩めて、しかし私からは絶対に手を離さなかった。
「大丈夫。戻ろう」
思い切って踵を返す。
甘い香りが誘うように強くなった。
あの子が大きく首を振って、不安そうに私の手を引いた。
「分かってる。大丈夫」
そう繰り返しながら私たちは山を降り始める。
理想郷に見えるナニカに背を向けて。
下山の道を辿るたび、クリーム色の靄がふわりふわりと減っていく。
その度に私の頭はだんだんとはっきりして来た。
稲妻のように考えが閃き、脳裏に決意として焼きついていく。
自分の理想郷は自分で作るのだ。そのために私たちは血生臭く、険しいあの山々に戻らなくてはいけないのだ。
他でもない、あの子がそれを選んだのだから。
あの子に強く手を引かれる。
私たちは転がるように山を降りて行った。
何十年の永い眠りから醒めたような心地がした。
目を開ける。
ぼんやりと霞がかった頭とは裏腹に、体はシャッキリと小気味良く動く。
いつものあの感覚だ。
水晶体が張り切って捉えた光は、草臥れた視神経には鮮やかすぎた。
吐き気が込み上げる。
まだ微睡んでいる脳がぐらり、と揺れた。
現酔いだ。
ゆっくりとしゃがんで、脳の揺れが治るまで、じっとしておく。
疲弊したこの脳を現実に適応させなくてはいけない。
すっかりお馴染みと化している、この現酔いなど知らなかった時の生活を、懐かしく思う。
私の身体は、もうすっかり、日常的に夢を闊歩するこの感覚に慣れきってしまった。
夢追病という病気が発見されてから、もう随分が経つ。
いつ頃からか、将来の夢や睡眠中の夢など、とにかく夢を見た人が、その夢の世界に現を捨ててのめり込み、夢から出て来れない人が出て来た。
それは、ぽつり、ぽつりと増えていき、無視できない数になった時、その現象は“夢追病”と呼ばれるようになった。
夢を追い続けて現実に帰って来れない患者たちは“夢追い人”と呼ばれ、病人とされるようになった。
治療法も少しずつ考案された。
夢に囚われた彼らを呼び戻すためには、誰かが、夢に迎えに行かなくてはならなかった。
彼らの夢に侵入し、彼らの夢を探ったり、夢から現に戻る案内をしたりして治療に携わる人々が、必要になった。
“夢喰い”と呼ばれる、夢のプロたちが生まれたのだった。
夢喰いには、共感性が強いが、決して人に思い入れすぎない、そんな人間が選ばれた。
夢喰いになった人は、年から年中、他人に共感して他人の夢に入り、探索する。
私が、そんな夢喰いになってから、二年経つ。
夢を巡るというのは、現実を生きる生活とは、随分勝手が違った。
夢に入るために睡眠をする。
現実を生きる人間であれば、休むためのはずの睡眠が、夢喰いにとっては脳を使う労働になる。
睡眠で休まる身体とは裏腹に、脳は著しく枯渇する。
夢から覚めた時のそのギャップは、吐き気や眩暈を起こす。
これが現酔いで、夢喰いは症状の軽重はあれど毎日のように、現実に起きている間は、その発作に襲われている。
二年もそんな生活を続ければ、夢喰いはすっかり現に適応して生きてきた感覚を忘れてしまう。
身を持ってそう思う。
何も考えずに、夢を忘れてしまうほどの身軽さで眠りにつき、身体も脳も気を失ったような睡眠を経て、現実に気力満タンで起き出して、現実を見つめ続ける。
二年前までのそんな普通の生活が、今では、遠い昔の出来事のようで、すっかり懐かしく思うことになってしまっている。
正直、もう現実を生きていた時の感覚を思い出せない。
目を開けた時に、脳がシャキッと目覚めているあの感覚も。
身体と脳が一緒に元気で、強い感覚を持ち合わせていた、あの感覚も。
今では、ただただ懐かしく思うことに成り果てた。
…吐き気が治ってきた。
私は立ち上がる。
身体は動きたくてうずうずしていたからだ。
脳は大きく、船を漕ぐ。
脳の方は、そろそろ微睡の大きな波に飲み込まれそうだった。
私は待機室を目指して歩き出す。
何を考えるまでもなく、足が勝手に、素早く踵を返して廊下を歩き始めた。
頭はふわふわと朧げで。
地に足はついているのに、空を足が切って歩いているような、そんな感覚。
いつもの感覚。
私は足に任せるまま、歩き続けた。
真っ暗がりの中は、不安だった。
だから、思わず口について出た歌をずっと歌うことにした。
声を出し続けていなくては、暗がりの中の真っ暗闇な沈黙に押しつぶされてしまいそうだった。
隣に気配を感じた。
人よりかなり大きい、獣みたいな剣呑な気配を。
隣は静まり返っていた。
まだ目覚めていないみたいだった。
昔、戦争があった。
酷い戦争で、私たちのご先祖は、全てをかけて戦い、辛勝を収めた。
手段を選んでいられない戦争で、私たちのご先祖は生き残った。
ところが、この勝利の代償はこの地を蝕んだ。
戦争の時に作り上げた生物兵器と、生物兵器が暮らし始めてからこの地に漂い始めた、移動する真っ暗がり。
それらが戦争に勝利した平和なこの世界に、黒点のようにぽつり、ぽつり、と悲劇を生み出し始めた。
有事は一緒に戦う頼れる相棒であった生物兵器も、平和な地では無用の長物。
次第にお互いがお互いを疑い始め、嫌厭し、軽んじていった。
生物兵器と住民の溝は深まるばかりだった。
そんな対立を嘲笑うように、真っ暗がりが群れをなして、どこの地域にも降りて来た。
この暗がりは人を攫い、人を生物兵器へと変えた。
音も実態もないこの侵略者を、私たちは災害とするしかなかった。
そして、私は今、その災害に巻き込まれてしまった。
もう生物兵器と化してしまった、顔も見えぬ誰かと一緒に。
こうした戦争の後遺症、二次的なこの悲劇たちを、歴史やニュースを物語る語り部や歴史家は、“もう一つの物語”と名付けた。
甚大な被害を出した苦難の戦争の歴史を、“悲劇の大元の物語”として、その後遺症を“もう一つの物語”としたのだ。
私はこのネーミングをクソッタレだと思っている。
今起こっている悲劇がオマケみたいな扱いで、酷いと思ったからだ。
自分や自分の知り合いが、“もう一つの物語”として語られるのなんて、真っ平ごめんだ、そう思っていた。
しかし、私は巻き込まれてしまった。
もう一つの物語の、登場人物として、この暗闇に放り込まれてしまった。
それがどうしようもなく悔しくて、どうにかして抗ってやりたかった。
だから私は歌い続けた。
それが何かをもたらしてくれるとは思わなかったけど、黙ってこの暗がりの沈黙に飲み込まれるのは嫌だった。
だから私は、生前いつも母が歌ってくれた、あの子守唄を口ずさみ続けた。
敵国の生き残りの子孫に殺された、母が私のために歌っていたあの歌を。
隣でふっと気配が動いた。
思わず、私は歌を止めた。
起きたのだろうか。
私と同じ物語に巻き込まれて、私より先に怪物になってしまった誰かが…。
気がついたら、手を伸ばしていた。
幾つあるか分からない、でも手と思しきものをゆっくりと、しかし強く握る。
冷たくて熱い手が、拳の中でやけに速い鼓動を打った。
私は、誰かのその手を握る。
優しく、強く。
勇気づけられるように。
願わくは一緒に抗ってほしいという望みも込めて。
一人じゃないと分かるように。
私たちは暗がりの中で固まって、じいっと向こうを見つめていた。
もう一つの物語の中で、二人っきりで。
二人っきりで励まし合って、二人っきりで途方に暮れていた。
暗がりが、ずうっと向こうまで広がっていた。