薄墨

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真っ暗がりの中は、不安だった。
だから、思わず口について出た歌をずっと歌うことにした。
声を出し続けていなくては、暗がりの中の真っ暗闇な沈黙に押しつぶされてしまいそうだった。

隣に気配を感じた。
人よりかなり大きい、獣みたいな剣呑な気配を。
隣は静まり返っていた。
まだ目覚めていないみたいだった。

昔、戦争があった。
酷い戦争で、私たちのご先祖は、全てをかけて戦い、辛勝を収めた。
手段を選んでいられない戦争で、私たちのご先祖は生き残った。

ところが、この勝利の代償はこの地を蝕んだ。
戦争の時に作り上げた生物兵器と、生物兵器が暮らし始めてからこの地に漂い始めた、移動する真っ暗がり。
それらが戦争に勝利した平和なこの世界に、黒点のようにぽつり、ぽつり、と悲劇を生み出し始めた。

有事は一緒に戦う頼れる相棒であった生物兵器も、平和な地では無用の長物。
次第にお互いがお互いを疑い始め、嫌厭し、軽んじていった。
生物兵器と住民の溝は深まるばかりだった。

そんな対立を嘲笑うように、真っ暗がりが群れをなして、どこの地域にも降りて来た。
この暗がりは人を攫い、人を生物兵器へと変えた。
音も実態もないこの侵略者を、私たちは災害とするしかなかった。

そして、私は今、その災害に巻き込まれてしまった。
もう生物兵器と化してしまった、顔も見えぬ誰かと一緒に。

こうした戦争の後遺症、二次的なこの悲劇たちを、歴史やニュースを物語る語り部や歴史家は、“もう一つの物語”と名付けた。
甚大な被害を出した苦難の戦争の歴史を、“悲劇の大元の物語”として、その後遺症を“もう一つの物語”としたのだ。

私はこのネーミングをクソッタレだと思っている。
今起こっている悲劇がオマケみたいな扱いで、酷いと思ったからだ。
自分や自分の知り合いが、“もう一つの物語”として語られるのなんて、真っ平ごめんだ、そう思っていた。

しかし、私は巻き込まれてしまった。
もう一つの物語の、登場人物として、この暗闇に放り込まれてしまった。

それがどうしようもなく悔しくて、どうにかして抗ってやりたかった。

だから私は歌い続けた。
それが何かをもたらしてくれるとは思わなかったけど、黙ってこの暗がりの沈黙に飲み込まれるのは嫌だった。

だから私は、生前いつも母が歌ってくれた、あの子守唄を口ずさみ続けた。
敵国の生き残りの子孫に殺された、母が私のために歌っていたあの歌を。

隣でふっと気配が動いた。
思わず、私は歌を止めた。

起きたのだろうか。
私と同じ物語に巻き込まれて、私より先に怪物になってしまった誰かが…。

気がついたら、手を伸ばしていた。
幾つあるか分からない、でも手と思しきものをゆっくりと、しかし強く握る。
冷たくて熱い手が、拳の中でやけに速い鼓動を打った。

私は、誰かのその手を握る。
優しく、強く。
勇気づけられるように。
願わくは一緒に抗ってほしいという望みも込めて。
一人じゃないと分かるように。

私たちは暗がりの中で固まって、じいっと向こうを見つめていた。
もう一つの物語の中で、二人っきりで。
二人っきりで励まし合って、二人っきりで途方に暮れていた。

暗がりが、ずうっと向こうまで広がっていた。

10/29/2024, 1:23:52 PM