何十年の永い眠りから醒めたような心地がした。
目を開ける。
ぼんやりと霞がかった頭とは裏腹に、体はシャッキリと小気味良く動く。
いつものあの感覚だ。
水晶体が張り切って捉えた光は、草臥れた視神経には鮮やかすぎた。
吐き気が込み上げる。
まだ微睡んでいる脳がぐらり、と揺れた。
現酔いだ。
ゆっくりとしゃがんで、脳の揺れが治るまで、じっとしておく。
疲弊したこの脳を現実に適応させなくてはいけない。
すっかりお馴染みと化している、この現酔いなど知らなかった時の生活を、懐かしく思う。
私の身体は、もうすっかり、日常的に夢を闊歩するこの感覚に慣れきってしまった。
夢追病という病気が発見されてから、もう随分が経つ。
いつ頃からか、将来の夢や睡眠中の夢など、とにかく夢を見た人が、その夢の世界に現を捨ててのめり込み、夢から出て来れない人が出て来た。
それは、ぽつり、ぽつりと増えていき、無視できない数になった時、その現象は“夢追病”と呼ばれるようになった。
夢を追い続けて現実に帰って来れない患者たちは“夢追い人”と呼ばれ、病人とされるようになった。
治療法も少しずつ考案された。
夢に囚われた彼らを呼び戻すためには、誰かが、夢に迎えに行かなくてはならなかった。
彼らの夢に侵入し、彼らの夢を探ったり、夢から現に戻る案内をしたりして治療に携わる人々が、必要になった。
“夢喰い”と呼ばれる、夢のプロたちが生まれたのだった。
夢喰いには、共感性が強いが、決して人に思い入れすぎない、そんな人間が選ばれた。
夢喰いになった人は、年から年中、他人に共感して他人の夢に入り、探索する。
私が、そんな夢喰いになってから、二年経つ。
夢を巡るというのは、現実を生きる生活とは、随分勝手が違った。
夢に入るために睡眠をする。
現実を生きる人間であれば、休むためのはずの睡眠が、夢喰いにとっては脳を使う労働になる。
睡眠で休まる身体とは裏腹に、脳は著しく枯渇する。
夢から覚めた時のそのギャップは、吐き気や眩暈を起こす。
これが現酔いで、夢喰いは症状の軽重はあれど毎日のように、現実に起きている間は、その発作に襲われている。
二年もそんな生活を続ければ、夢喰いはすっかり現に適応して生きてきた感覚を忘れてしまう。
身を持ってそう思う。
何も考えずに、夢を忘れてしまうほどの身軽さで眠りにつき、身体も脳も気を失ったような睡眠を経て、現実に気力満タンで起き出して、現実を見つめ続ける。
二年前までのそんな普通の生活が、今では、遠い昔の出来事のようで、すっかり懐かしく思うことになってしまっている。
正直、もう現実を生きていた時の感覚を思い出せない。
目を開けた時に、脳がシャキッと目覚めているあの感覚も。
身体と脳が一緒に元気で、強い感覚を持ち合わせていた、あの感覚も。
今では、ただただ懐かしく思うことに成り果てた。
…吐き気が治ってきた。
私は立ち上がる。
身体は動きたくてうずうずしていたからだ。
脳は大きく、船を漕ぐ。
脳の方は、そろそろ微睡の大きな波に飲み込まれそうだった。
私は待機室を目指して歩き出す。
何を考えるまでもなく、足が勝手に、素早く踵を返して廊下を歩き始めた。
頭はふわふわと朧げで。
地に足はついているのに、空を足が切って歩いているような、そんな感覚。
いつもの感覚。
私は足に任せるまま、歩き続けた。
10/30/2024, 2:45:38 PM