桃の甘い香りを鼻いっぱいに吸い込む。
クリーム色の霞が、空気の中を泳いでいる。
空気は暖かく和やかで、空は手が触れるほどのところに、青々と高く広がっている。
険しい山々が辺りを取り囲んでいる。
鋭く厳しく生えた山々の中にぽっかりと空いたこの桃源郷は、辺りの厳しさに引き立てられて、返ってその理想的な美しさと和やかさを瑞々と繰り広げている。
甘い花と桃の香りが、霞に乗って立ち込めている。
香を抱きしめたような良い香りが、クリーム色の靄となって、この山の凹んだ頂上に、冴え冴えとこの一面にだけ、広がっている。
ここだけが、別世界のようだ。
呆気に取られて、その景色を眺めた。
傍にいる養い子が、衣の袖を強く掴むのを感じた。
その子の細い肩をそっと抱いてやる。
異世界のような不思議な空間だったが、怖さや不気味さは少しも感じなかった。
むしろとても魅力的だった。
ずっとここにいたくなるような、帰りたくないような、そんな甘い誘惑が、この地には立ち込めていた。
まるで理想郷だ。
私たちは、この険しい山脈を越えるために、商隊と列を組んで山越えに来ていた。
山犬に追われ、商隊と逸れて辿り着いたのが、他でもないこの理想郷だった。
私たちは、根のない旅ガラスだった。
権力争いの一端に巻き込まれ、流された噂によって国を追われた私は、旅の途中に出会った行商人の親を狼と盗賊によって失い、孤児となった養い子を連れて、アテのない旅をしていた。
旅には慣れていたが、時折、落ち着いた家が無性に恋しくなる夜がある。
昨夜はそんな夜だった。
甘い香りが、鼻いっぱいに広がり、胸いっぱいに入ってくる。
温かい空気感は心地よい。
辺りの霞を吸い込むと、空いていたはずの腹はくちく、山犬と商隊の人間関係に擦り減らしていたはずのピリピリとした心が、和やかに丸く満たされている。
いっそ、ここに住めたら。
ここはきっと、私のような者のための理想郷だ。
ここに定住できたら良いのに。いや、ここに住もう。
霞と咲き乱れる花畑の向こうに、川がキラキラと流れていた。
向こうのほうはさらに霞が濃く立ち込めて、なんとも言えない美しくて爽やかな深い香りがしているようだった。
ああ、あの向こうに行かなくては。
ここは私の理想郷なのだから。
フラフラと足を踏み出す。
かくん、と、身体がつんのめった。
振り返ってみると、私の養い子が、必死で私の足にしがみついていた。
普段物分かりのいい、無口で動じないあの子の顔は、はっきりと青ざめ、恐怖に染まっていた。
あの子は必死の形相で、私にしがみつき、髪を頬にひたひたとぶつかるのをそのままに、激しく首を横に振った。
冷や水をかけられたように目が覚めた。
向こうを見返す。
キラキラと流れる川が、やけに冴え冴えと、不気味なくらいに異様に見えた。
「…そうだね。あんたの言う通りだ。戻ろうか」
背を伝う冷や汗に、舌を絡ませながらなんとかそういった。
あの子は少し顔を緩めて、しかし私からは絶対に手を離さなかった。
「大丈夫。戻ろう」
思い切って踵を返す。
甘い香りが誘うように強くなった。
あの子が大きく首を振って、不安そうに私の手を引いた。
「分かってる。大丈夫」
そう繰り返しながら私たちは山を降り始める。
理想郷に見えるナニカに背を向けて。
下山の道を辿るたび、クリーム色の靄がふわりふわりと減っていく。
その度に私の頭はだんだんとはっきりして来た。
稲妻のように考えが閃き、脳裏に決意として焼きついていく。
自分の理想郷は自分で作るのだ。そのために私たちは血生臭く、険しいあの山々に戻らなくてはいけないのだ。
他でもない、あの子がそれを選んだのだから。
あの子に強く手を引かれる。
私たちは転がるように山を降りて行った。
10/31/2024, 2:48:48 PM