薄墨

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10/29/2024, 1:23:52 PM

真っ暗がりの中は、不安だった。
だから、思わず口について出た歌をずっと歌うことにした。
声を出し続けていなくては、暗がりの中の真っ暗闇な沈黙に押しつぶされてしまいそうだった。

隣に気配を感じた。
人よりかなり大きい、獣みたいな剣呑な気配を。
隣は静まり返っていた。
まだ目覚めていないみたいだった。

昔、戦争があった。
酷い戦争で、私たちのご先祖は、全てをかけて戦い、辛勝を収めた。
手段を選んでいられない戦争で、私たちのご先祖は生き残った。

ところが、この勝利の代償はこの地を蝕んだ。
戦争の時に作り上げた生物兵器と、生物兵器が暮らし始めてからこの地に漂い始めた、移動する真っ暗がり。
それらが戦争に勝利した平和なこの世界に、黒点のようにぽつり、ぽつり、と悲劇を生み出し始めた。

有事は一緒に戦う頼れる相棒であった生物兵器も、平和な地では無用の長物。
次第にお互いがお互いを疑い始め、嫌厭し、軽んじていった。
生物兵器と住民の溝は深まるばかりだった。

そんな対立を嘲笑うように、真っ暗がりが群れをなして、どこの地域にも降りて来た。
この暗がりは人を攫い、人を生物兵器へと変えた。
音も実態もないこの侵略者を、私たちは災害とするしかなかった。

そして、私は今、その災害に巻き込まれてしまった。
もう生物兵器と化してしまった、顔も見えぬ誰かと一緒に。

こうした戦争の後遺症、二次的なこの悲劇たちを、歴史やニュースを物語る語り部や歴史家は、“もう一つの物語”と名付けた。
甚大な被害を出した苦難の戦争の歴史を、“悲劇の大元の物語”として、その後遺症を“もう一つの物語”としたのだ。

私はこのネーミングをクソッタレだと思っている。
今起こっている悲劇がオマケみたいな扱いで、酷いと思ったからだ。
自分や自分の知り合いが、“もう一つの物語”として語られるのなんて、真っ平ごめんだ、そう思っていた。

しかし、私は巻き込まれてしまった。
もう一つの物語の、登場人物として、この暗闇に放り込まれてしまった。

それがどうしようもなく悔しくて、どうにかして抗ってやりたかった。

だから私は歌い続けた。
それが何かをもたらしてくれるとは思わなかったけど、黙ってこの暗がりの沈黙に飲み込まれるのは嫌だった。

だから私は、生前いつも母が歌ってくれた、あの子守唄を口ずさみ続けた。
敵国の生き残りの子孫に殺された、母が私のために歌っていたあの歌を。

隣でふっと気配が動いた。
思わず、私は歌を止めた。

起きたのだろうか。
私と同じ物語に巻き込まれて、私より先に怪物になってしまった誰かが…。

気がついたら、手を伸ばしていた。
幾つあるか分からない、でも手と思しきものをゆっくりと、しかし強く握る。
冷たくて熱い手が、拳の中でやけに速い鼓動を打った。

私は、誰かのその手を握る。
優しく、強く。
勇気づけられるように。
願わくは一緒に抗ってほしいという望みも込めて。
一人じゃないと分かるように。

私たちは暗がりの中で固まって、じいっと向こうを見つめていた。
もう一つの物語の中で、二人っきりで。
二人っきりで励まし合って、二人っきりで途方に暮れていた。

暗がりが、ずうっと向こうまで広がっていた。

10/28/2024, 1:45:31 PM

子守唄が聴こえる。
目を開ける。

目を開けたはずなのに、視覚が捉えたのは、瞼の裏より僅かに明るい一面の、果てしなく広がる暗がりだった。

子守唄が聴こえる。
身じろぎをした。
足首の先の方にずしりと重みがあった。
床で、金属が擦れた音が鳴った。

子守唄が止まった。

暗がりの中で、微かに息を呑む音が聞こえた。
何かが擦れる音がして、手におずおずと温もりが触れた。

温かい何かは、しばらく手をつついて、それから素早くこちらの手を握った。
柔らかくて、温かい。
静かで、滑らかで、優しい、そんな感触だったから、振り解かなかった。

暗がりの中の手が僕の手を包んで、宥めるように強く、握った。

また何かが擦れる音がして、気配が、握った手の向こうからゆっくり近づいてきた。
顔が寄せられた気配がした。
優しい、甘い香りが仄かに香った。

「大丈夫だから」
ひっそりとした静かな声で、気配は言った。
手を強く握りながら。
「大丈夫だから。手を離さないで」
手の温かさが僅かに上気した。

僕は握り返した。温かくて、心地の良い優しい手を。
右の三つ目の手だ。
分かるように軽く、くっきり、手の内側に力を込める。

「良かった」
暗がりの中で、ほとんど息のような声が、耳に届いた。
「ありがとう」
声はそう囁いて、今まで耳の付近を漂っていた柔らかな香りが、少し遠のいた。

何も見えなかった。
僕自身の、変わり果てたはずの体も、人間…少なくとも人型の体をしているのであろう声の主の体も。

暗がりの中の状況も、暗がりの外の様子も。
暗がりの境さえも。

視界は一面の黒しか捉えない。
真っ暗な暗がりの中に、僕の僅かに荒い息遣いを感じる。
暗がりの中に、握られた手の、温かい感覚を感じる。
握られた手の先の、静かで柔らかな生きている感覚も、感じる。
それだけだ。

耳を立てて、鼻を蠢かす。
暗い、暗い、暗がりの中。
右の上から三つ目の手を握っている、確かな感覚だけが、光のように思えた。

暗がりが、ずうっと向こうまで広がっていた。

10/27/2024, 1:04:32 PM

角を曲がったら、広場に出る。
かつて、子どもたちが対向者にお構いなく、はしゃぎながら曲がっていた広場だ。
紅茶の香りが匂い立ち、はしゃいだ明るい声と深みのある大人たちの爽やかな声が行き交っていた通りだ。

硝煙の香りが立ち込めている。
石レンガの瓦礫を蹴飛ばしながら歩く。

人の気配はない。
町は静まり返っている。

町は、すっかりぐちゃぐちゃな芸術作品のように、不気味な雰囲気を纏っていた。

この町は航空中だった。
かつて、戦争に敗れた我が国は、敵帝国の残忍な軍の支配下に置かれることが決まっていた。
敵帝国は、本や思想に制限をかけ、近隣の国を次々と同化している国だ。
我が国の文化は風前の灯だった。

我が国の文化と歴史を守るため、我が国の支配者は考えた。
そして一つの結論を出した。
国は町を…都市に近いが、辺鄙で、昔ながらの小さな集落を…つまりはこの町を、逃がすことにした。
どこに逃がすか。
空だ。
敵帝国に対してはほとんど役に立たなかった気球部隊と飛行船部隊の技術が存分に使われた。

こうして、この町は町ごと、空に逃げ出した。
先回りされないように、風に任せて飛び続ける、空中都市。
この町はそんな特殊な町として、繁栄を続けていた。

いつか陸に降り立つのを夢見て。
この町は風の向くままに飛んでいた。
…あの海域に来るまでは。

最初に見えたのは、ぽっかりと空いた、黒い雲だった。
先に見えてきた海の上空、つまり町の前に、黒い雲が見えた。
縦に細長く、奥深く層になって、紫煙のように深い色をしていた。

町は、早朝を終えたところだった。
家が俄かに活気付き、通りに朝の挨拶が溢れ出て、パンを焼く匂いが立ち込めていた。
やがて、町のどこでも、朝ごはんのふっくらと香ばしい幸せの香りと、温かで上品な紅茶の香りに包まれていた。

長閑しいこの朝の町は、雲の近くを通り抜けるはずだった。
はずだったのだが。

雲の方へ、町が進んで、海へ入ったその時、町が大きく揺れた。
白い眩しい光が閃いて、みんな目を瞑った。
それから意識は薄くなっていった。

気がついた時には、幸せな香りはたち消えていた。
紅茶の香りは、パンの香りは、硝煙と味気ない何かの香りに塗り潰されていた。

そして、人がめり込んでいた。
壁に、地面に、窓ガラスに。

バラバラな人の破片が、彼方此方で無機質と繋がって、前衛的なアートと化していた。
半透明な足が、そこらに転がっていた。

パンも紅茶も香りを失って、怪物みたいな町の風景の一部にのめり、文字通り、溶け込んでいた。

この町が今、何処にいるのか。
この惨状は、何なのか。
それは全く分からない。

空も、町も、人も、プロペラさえも。
沈黙を貫いて、町は声のない静寂に包まれていた。

なぜか私は生き残った。
でも、ただそれだけだった。
誰も、何も、私を相手にしてくれず、ただ沈黙だけがそこにあった。

瓦礫を蹴り上げる。

ふっと悟った。
毎朝香る、あの私が大好きな紅茶の香りは、平和の香りであったということを。

町は何もかもが沈黙を守っていて、何もかもが滅茶苦茶だった。

紅茶の香りは、もうしなかった。

10/26/2024, 2:58:50 PM

「空といえば?」
「雲。あとハロー現象」

そっけなく返ってきたその言葉を聞いて、思わず頬が緩む。
気づかれないように引き締めてから、小会議室の扉を開ける。
いつもの、取り澄ました仏頂面がいる。

「買い出し、ありがとう」
お礼を言って、手元に幾つもぶら下がっているビニール袋の一つを手に取る。

文化祭前日。
私たちは、展示の準備をしていた。

自然科学部。
文系学科に進学しておきながら、気象学への憧れを捨てられなかった私が立ち上げたサークルだ。
理系大学では競争率と年季の高そうなこの名称を、こんな新サークルが冠しているのも、この学校が数学理科アレルギー蔓延る、文系大学だからだった。

当然、活動も変わってくる。
オープンキャンパスからの頻繁な勧誘が功を奏したのか、サークルにはそこそこのメンバーがいたが、専門的に気象学をやろうとする人間は少なく。
もっぱら、空専門の写真部のような活動になっている。

そんなサークルだったから、文化祭の出し物も、天気や空の変化を流す動画の上映会と写真展示会ということになったのも、当然の成り行きだった。

このサークルの居心地は良い。
サークルメンバーたちとの会話は楽しいし。後輩も可愛い。
愛言葉と称して、各々が各々の好きな空や空に関する言葉を持っていて、それをサークルで教室に入る時に、「空といえば?」「〇〇」と答える、副部長考案の慣習も、とても素敵だ。

ところが、不意に寂しさを感じることがある。
理詰めで討議することが出来ない不自由さが、ふっと胸に込み上げて、その度にもう一人の私が問いかける。
「私、本当にここにいていいの?」

それを覆してくれるのが、私の後からビニール袋を下げて入ってくる、あの仏頂面だった。

彼との話は楽しい。
サークルの他の人たちとはまた違った楽しさだ。
愛嬌がないがしかし、勉強もサークル活動もそつなくこなす頼れる彼は、生真面目な性格とその不器用な仏頂面で、嫌厭されがちだったが、私には大きい存在だった。

彼となら、気圧計算の答えを比べることが出来た。
彼となら、明日の天気の予測について討議することが出来た。
彼となら、天気図が書けた。

彼の愛言葉を聞くのが、いつの間にか、空きコマ一番の私の楽しみになっていた。

「これ、明日の天気図?」
黙って運び込んだ荷物を、机に下ろしながら、無愛想に彼が言った。
胸が高鳴る。
そう。いつだって彼はそう聞いてくれるのだ。
展示の写真の話よりも、明日の動画の出来の話よりも前に、そうやって、私に話しかけてくれるのだ。

だから私は…。

浮き上がってきそうな単語を丁寧に折りたたんでしまい込む。
「そうなの。なんか気になるとこある?」
いつも通りそう言って、私は彼の横から、わざと未完成にした天気図を覗き込む。

写真に収められた個性的な雲たちが、私たちを見下ろしていた。

10/25/2024, 1:59:50 PM

コーラガムを口に入れた。
くにゃん、くにゃんとした感触がする。
安っぽいまがいもののコーラの甘さが口内を支配する。
絶対にコーラじゃないけど、コーラとしか言いようがないあの味だ。

電車は混んでいた。
二人組や三人組や五人組やらがわらわらと密集して、各々が各々で、時間を潰していた。

異常な盛り上がりを見せ、顔を見合わせて、笑い転げる三人組。
付かず離れずでぴったり身を寄せ合って、穏やかに話し込む二人組。
はしゃぐ声を弾ませて、慌てて、シーッと目を合わせる五人組。

そわそわと落ち着きがなく、どことなくぎこちなさが漂う五人組。
ツンケンとした奴らの顔色を忙しなく伺いながら、焦ったように会話を繋ぐ、仲介がいる三人組。
やたら一方だけが言葉を捲し立てている二人組。

いろいろな友達が、車内には溢れている。

僕はガムを噛みながら、それをじっと観察していた。

電車は混んでいた。
しかし、この電車の中には、友達しかいないみたいだった。
みんな誰かの友達で、友達として話に興じていた。

この電車は、平日の昼間の電車だからそうなのだ。
平日の昼間なんて、暇を持て余している主婦の一行か、残り時間をのんびりと暮らす権利を手に入れた老人の一行。
あとは、昼までの講義を済ませて遊びにいく大学生。
そんな、彼ら彼女らは、だいたい友達のグループで乗ってくる。

しかし、今日は人数が多かった。
タネは簡単だ。
今は定期テストの時期だった。
この電車の走る線路上に高校の最寄駅がある。

テストを終えた高校生の友達集団。
日中の余暇時間に、出かける主婦の友達集団。
趣味で遊びにいさんで出かける老人の友達集団。

昼過ぎの電車は友達がたくさんいる。
まるでコーラみたいだ。

昼過ぎの電車は友達がたくさんいる。

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