薄墨

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子守唄が聴こえる。
目を開ける。

目を開けたはずなのに、視覚が捉えたのは、瞼の裏より僅かに明るい一面の、果てしなく広がる暗がりだった。

子守唄が聴こえる。
身じろぎをした。
足首の先の方にずしりと重みがあった。
床で、金属が擦れた音が鳴った。

子守唄が止まった。

暗がりの中で、微かに息を呑む音が聞こえた。
何かが擦れる音がして、手におずおずと温もりが触れた。

温かい何かは、しばらく手をつついて、それから素早くこちらの手を握った。
柔らかくて、温かい。
静かで、滑らかで、優しい、そんな感触だったから、振り解かなかった。

暗がりの中の手が僕の手を包んで、宥めるように強く、握った。

また何かが擦れる音がして、気配が、握った手の向こうからゆっくり近づいてきた。
顔が寄せられた気配がした。
優しい、甘い香りが仄かに香った。

「大丈夫だから」
ひっそりとした静かな声で、気配は言った。
手を強く握りながら。
「大丈夫だから。手を離さないで」
手の温かさが僅かに上気した。

僕は握り返した。温かくて、心地の良い優しい手を。
右の三つ目の手だ。
分かるように軽く、くっきり、手の内側に力を込める。

「良かった」
暗がりの中で、ほとんど息のような声が、耳に届いた。
「ありがとう」
声はそう囁いて、今まで耳の付近を漂っていた柔らかな香りが、少し遠のいた。

何も見えなかった。
僕自身の、変わり果てたはずの体も、人間…少なくとも人型の体をしているのであろう声の主の体も。

暗がりの中の状況も、暗がりの外の様子も。
暗がりの境さえも。

視界は一面の黒しか捉えない。
真っ暗な暗がりの中に、僕の僅かに荒い息遣いを感じる。
暗がりの中に、握られた手の、温かい感覚を感じる。
握られた手の先の、静かで柔らかな生きている感覚も、感じる。
それだけだ。

耳を立てて、鼻を蠢かす。
暗い、暗い、暗がりの中。
右の上から三つ目の手を握っている、確かな感覚だけが、光のように思えた。

暗がりが、ずうっと向こうまで広がっていた。

10/28/2024, 1:45:31 PM