水たまりが、青い空を切り取っていた。
踏み出した長靴の波紋が、切り取られて地面に広げられた空を撓ませる。
空を見上げる。
本日は晴天。穏やかな日差しが、辺りを包んでいる。
どこまでも続く青い空。
逃避行には、いい日和だ。
どうして“みんな”というものは、不完全を許せないのだろうか。
青空の全部が快晴でなくてはならないと思っているんだろうか。
晴れの空こそ空であり、他の空は空でもないと考えているのだろうか。
長靴で、わざと水たまりを踏み躙ってやる。
水面に、細やかなさざなみが立つ。
どこまでも青い空が、長靴の動きに合わせてぐにゃぐにゃと揺れる。
強く踏みつける。
ぱしゃっ、と、水の飛沫が跳ね上がる。
地面に横たわる青い空が、壊れて跳ねる。
担任が引っ越すことになった。
五時間目が急遽自習になった次の日、校長先生がそんなことを報告した。
ざわめきがふつふつと起こった。
先生たちはみんな、下を向いて神妙にしていた。
ちょっと煩いけれど、生徒思いの熱心な先生。
不登校の子にも、授業中に騒いでいる子にも、平等に、丁寧に話していたことを覚えている。
記憶の中で、担任はちゃんとした学校の先生で、頼れる大人だった。
そうだったはずだった。
担任の不倫の噂が立ったのは、三週間くらい前のことだった。
誰から言い出したのか、もう分からない。
ちょうど同じくらいの時に、政治家と芸能人の不倫ニュースが流れていたことも影響したのだろう。
噂はどんどん、まことしやかに広まって、担任は、誰からも不倫をした最低な人間だ、と排斥されるようになった。
担任の授業を誰も聞かなかった。
担任が仕切るうちのクラスの保護者会は、沈黙ばかりが煩くなった。
地域の人たちも、担任に関わろうとしなかった。
他の先生すら、担任と口を聞かなかった。
誰も担任の話を聞かなかった。
だから噂話が嘘なのか、本当なのか、それは誰にも分からなかった。
ヒソヒソとした内緒話だけが、耳に障った。
担任は、犯罪者のように排斥されていた。
悪い大人の可能性が高いという噂が出回った、それだけで。
担任は次第に学校に来れなくなり、見かけなくなった。
…私は、担任に助けてもらった。
昔、進学前に事実を誇張した悪い噂話を流されて、外に出られなくなった。
そんな私に、普通に話しかけて、外に出られるようにしてくれたのが、一年からのクラス担任の先生だった。
今年から、私は毎日学校に行っていた。
二年かけてようやくそこまで漕ぎ着けた。
それは紛れもなく、担任のおかげだった。
その担任が、こうなった。
学校を辞める気はなかった。
これで、私も学校から逃げてしまえば、それは「負け」な気がした。
でも、今日くらいは学校をサボってやろうと思った。
いつも通り普通に家を出て、通学路を外れてやった。
今日だけは“みんな”の顔なんて見たくなかった。
だから、一日だけの逃避行をすることに決めた。
清々しいほど晴れていた。
どこまでも、どこまでも続く青い空が、一面に広がっていた。
小説や寓話や言い伝えみたいに、曇ったり、大雨が降ったり、嵐になったりなんてしなかった。
空は、私たちのことなんか知らん顔で、どこまでも続いていた。
日差しが鬱陶しかった。
雲が出ていないことが憎らしかった。破り捨ててやりたかった。
足元の水たまりに映る空を踏みつける。
ぱしゃっと水滴が飛び上がる。
頭上では、どこまでも続く青い空が、高く高く、どこまでもどこまでも広がっていた。
リネンのパジャマの上に綿のカーディガンを羽織る。
虫喰いで穴の空いたほつれたカーディガンを。
涼しい風が、風鈴を鳴らしながら窓から入ってくる。
日の出ない夜は、だいぶ冷えるようになった。
熱帯夜に活躍した薄手の半パンも、長い袖の上着やくるぶしまである長ズボンの染みついた防虫剤の香りの中に、すっかり埋もれてしまっている。
網戸から外を見た。
まだ夕方というべき時間なのに、日はすっかり落ちかかって、外は夕日色に焼けている。
「もうそろそろ衣替えの季節だね。こっちは明日から更衣期間に入るよ」
昨日、届いたメールにはそう書いてあった。
夏が長引いた最近の四季の中では、非正規の仕事をそこそこやって家事に家の環境作りに勤しんでいるこっちより、職業柄、仕事で気を抜くわけにはいかず、家では非番の日に帰って寝るだけのあちらの方が、衣替えには敏感だ。
制服というのは、偉大だ。
見た目も何割増しにカッコよく見えるし、衣替えというイベントをちらつかせて季節の変化も教えてくれる。
まめな暮らしは、どうやら、暇があれば出来るものでもないらしい。
今日日、普段から好き勝手服を選んでいる社会人の方が、衣替えには疎いだろう。
自分の洗濯物の山を見て、つくづくそう思う。
目の前の衣類の山は、見事に夏物から秋物への地層を構成している。
表面に厚ぼったい秋物が固まっていて、内側へ下へグラデーションのように夏を思わせる薄い布が、埋もれている。
まあ最近、季節の変わり目も曖昧だもん。そんな気まぐれな季節に付き合ってらんないよ。
そんな言い訳を口の中で呟きながら、靴下を引っ張り出す。
そろそろ日も沈むし、冷え対策をしておかなくては。
ごうっ…と強い秋風が吹いた。
思わずカーディガンの前を合わせる。
風鈴が荒ぶって、短冊がひっくり返る。
書き上がったメールの返信を読み返す。
いつも送られてきたメールの返事は、来たメールよりずっと長くなってしまう。
「次会えるのいつになりそう?衣替え、手伝いに来てよ!」
メールの最後に書いてしまったその一文を取り消しながら、今も仕事をしているはずの、送信先のあなたを思う。
あなたにとっては、この仕事が天職であり、生き甲斐でもある。
そういうあなただったから、出会うことができて、ここまで関係が続いているのだから。
だから、いつまで?とかそんな事は聞かない。
自分でそう決めたはずなのに、気を抜くとそういうことを書いてしまう自分がいる。
これは肌寒い季節感のせいだろうか。
人肌恋しいような、切ない寒さを醸し出す、季節の変わり目の、秋の空気のせいだろうか。
だとしたら、衣替えは大切だ、と思う。
人肌恋しい寒さを感じないために、厚い服を着るようにしなくては、なんで思う。
この自分の弱音も寒さのせいなら、あったかい格好をしてれば、強い自分でいられるはずだ。
だから制服には、夏服と冬服があって、更衣期間が定められているんだろうか。
…今年は横着せずに衣替えをした方がいいかもしれない。
夕方の地方ニュースではちょうど、衣替えの時のクリーニングについての特集をしている。
「衣替えって面倒ですよね。しかし…」
にこやかな微笑みを湛えて、専門家(衣替えの専門家ってなんなんだろ。資格とかあるんだろうか)が衣替えのメリットと蘊蓄をつらつら語っている。
……やめだ、めんどくさい。
立ち上がって、窓から離れる。
衣替えって、細かくてめんどくさい。
人のためにやるならまだしも、自分の服にそんな時間をかけるのは…ほんとにめんどくさい。やめだやめだ。
いっそ、こっちの分まで丁寧に、向こうで衣替えしてもらおう。
「こっちの分まで、存分に衣替えしといてください!寂しさを感じなくなるまで!」
消した弱音を、勢いで打ち込めたおどけたそんな言葉で塗りつぶす。
冷静になったら、弱音がはみ出してきそうだったので、読み返さずにそのまま送信ボタンを押す。
画面を見ずに電源を切って、スマホを放り出す。
やめだやめ。
大の字で仰向けに天井を見上げる。
照明をつけていないリビングは、もう薄暗くなってきている。
寝返りを打つ。
窓の外は、夜の闇に呑まれつつある。
ああ、秋が来たのだなあ。
秋物と夏物が混じった山を見上げて、秋を感じた。
秋の肌寒い、切ない風が、洗濯物の山の頂点を撫でて、通り過ぎていった。
舌が転ぶ。
転がり落ちた自分の声が、やけに丸く、舌ったらずに縺れて響いた。
彼はちょっと顔を下に傾けて、ゆるく頷いてから、こちらに向き直った。
解けたリボンの端が、目の端にだらしなく投げ出されていた。
しゃくりあげるように震えた体の芯から、声が漏れ出た。
そうしたつもりはなかったのに、大半が吐息で漏れて、細かく震えていた。「なんで」
「なんでかな」
骨粗鬆症の骨みたいな掠れた声で、彼は答えた。
冷たい指の感触を感じた肌が、僅かに上気する。
黒い髪の奥から、静かに水滴が滑り落ちた。
涙が、肌に染み込んでいく。
「分からないの」
しゃくりあげる息の狭間で、聞いた。
相変わらず舌は躓き、声はまどろっこしく聞こえた。
彼は返事をしなかった。
代わりに、小さく、細い声でぼそりとこぼした。
「ここに刺すつもりだったんだ」
指が、滑るように這った。
心臓の鼓動ごしに、指の柔らかさが触れた。
乱暴にはだけられた胸元の隙間が、傷口を広げるようにじわっと大きくなった。
彼の頭が揺れた。
大きな水滴が、千切れた襟にシミを作った。
胸元の鎖骨の継ぎ目のまだ白い肌に、彼の額が落ちた。
息を小さく吸う感じがした。
彼の頬には、水の通り道が静かに出来上がって、流れ落ちていった。
息を潜めるように、疼くような尾を引く彼の息が、後から後から落ちてきた。
縋って、ただ、つとつとと涙を流す彼を見て、昔、街中で見た迷子を思い出した。
親と逸れた子どもは、息を声を絞り出して、声が枯れるまで泣きじゃくった。
親に再会できるまで、声が枯れるまで轟々と泣きじゃくった、あの子どもを思い出した。
私たちには、声が枯れるまで泣きじゃくるような元気は残っていない。
皺になるほど強くネグリジェを握りしめて、でもその強い感情を口から洩らすことも出来ずに、彼は涙を流した。
私は何も出来ない。
死紋に斑らに彩られた四肢は、びとり、と固まって、震えることすらできなかった。
青痣のような死紋が、少しずつ斑らに現れて、痣に覆われた体は死体のように冷たく動かなくなる。
痣が広がるたびに、息が深くなって、声が、子どもか赤ん坊のように、出づらくなる。
そんな病気は、貧困層からあっという間に広がった。
肉体を使う労働者たちにとって、青痣は日常の些細な怪我だ。
病気はあっという間に、速やかに、密かに、この地を蝕んだ。
病気がどこか一つの部位が動かなくなった者や声が思うように出なくなった者たちは、労働で暮らしを立てることが出来ずに、一年と経たずに死んでいった。
病気の進行も待たずに。
こうして、この病気が発覚したのは、資本を持つ支配層から病人が出てからだった。
それまでに、いったい何人が亡くなったのか。それは今でも不透明だ。
私は、支配層でこの病気に初めて罹った患者だった。
病気が発覚してから、かれこれもう五年は、寝室に隔離されて、生かされ続けていた。
私の上で蹲って泣く、彼。
きっと、病気で近親者を亡くした過去を持つ者なのだろう。
だから、生まれた環境に恵まれたために生き長らえている私を殺しに来たに違いなかった。
見窄らしくズタズタになった天幕のそばに転がるナイフが、そのバックボーンを裏付けている。
彼はしばらく、声を食いしばり、息をしきりに呑みながら泣いていたが、やがてゆっくりと、頭を上げた。
目が合った。
腫れぼったく潤んだ目が、真っ直ぐこちらを見つめていた。
少し沈黙が流れた。
「…お騒がせしました」
いっそう掠れた、疲れしか見えないカスカスの声で、彼は言った。
声が枯れるまで、枯れた後もさらに枯れるまで、泣いたということが、それで分かった。
「ごめんなさい。さよなら。…睫毛長いんですね」
彼は慌てたように、カラカラの声でそう言った。
「ネグリジェを直していってほしいの。寒いから」
舌をもたつかせながら、息を交えた声で、私は言った。
彼はちょっと目を見開いて、それからバツが悪そうに目を伏せた。
私のネグリジェをそろそろと合わせて、ちまちまと、慣れない手つきで一つ一つ、釦を止めている。
やがて、釦を留め終わると、リボンに手を伸ばして、もたもたと結んでくれた。
「すみませんでした。さよなら」
絞り出すような悲痛な声で、彼は最後にそう言って、窓から外へ出ていった。
枯れ切った声で、そう言い置いて。
私は黙って、小さく頷いた。
外は真っ青な良い天気だった。
爽やかな秋風が、入れ違いに軽快に、部屋に流れ込んできていた。
くしゃくしゃに丸めた原稿用紙を放る。
ゴミ箱の淵にぶつかったそれは、ことん、と床に力無く落ちた。
入れたお茶を飲み干して、チャンネルを回す。
テレビはBGM。
目線は手元の原稿用紙に合わせる。
ボールペンを握り直す。
シャーペンでも鉛筆でもなく、消えないボールペンを使っているのは、ボールペンの色の方が、くっきりして書いた気がするからだ。
確信と自信を持って書けている気がするからだ。
本当はそんな自信も確信もないんだけど。
…しっくりこない。
俺は原稿用紙をまとめて、放る。
慣れないことはするもんじゃない。全然進まない。
始まりはいつも、アイツの一言から始まる。
行動力が抜群で、好奇心の塊みたいな、元気いっぱいなアイツの。
俺たちが、人生二回目の履修登録を済ませて、駄弁ってた時に、アイツはいつもの如く、突然に、言い放った。
「なあ、文芸部やろうぜ。今、ここのメンツで部活申請出したからさ。明日からよろしくな」
面食らったが、いつものことだ。
アイツは、思いついたらもうやらずにはいられないのだ。
そして俺たちは、それに抗えない。
「お前たちとの思い出がさ、形に残るもんが欲しいんだもん。な?文芸部なら一生残る思い出と、俺たちが一緒にいたっていう証拠がさ、残るじゃんか。俺たちの手元にも、学校のバックナンバーにも、さ。」
…こんなことを親友に言われて、抗える奴がいるだろうか。いや、いないだろう。
ということで、始まりはいつも突然に。
俺たちはとりあえず、大学の文化祭に向けて執筆にかかることになった。
初回だし、取り急ぎになるので、テーマも書く作品の形態も自由となったが…
…思いつかない。
自由と言われると、返って書けねえ。
俺は頭を掻きむしる。
……一体どうしろっていうんだ、あのバカ。
あの無鉄砲!横暴!行動力お化け!
俺は頭を掻きむしる。
くっそ、何か出てこないか…!?
唐突にスマホがなった。
アイツからのLINEだ。
なになに?…ああ、基礎教養の課題か。
確か今回の課題は文学史からだったよな。
「枕草子って随筆だよな?随筆ってエッセーだよな?」
…お前、一応、文学部部長だろ。
「まあ、合ってる」
「正しくはエッセイ、だけどな」
と返してやる。
するとすぐに返信が来た。
「んで、確認だけどエッセーって、自分の思ってることとか、実際起こったこと書いてんだよな」
打ち返す。
「まあ、そうだな」
返事は早かった。しかも連投。
「なんだよまあってwお前の口癖だよな、まあ」
「まあ、センキュ←マネしてみた」
「エッセーって難しそうだよな。俺、頭ん中お花畑だからぜってー書けねえわ、現実とか、今の気持ちとか。だって俺、そんな難しいこと考えてねえし」
「お前、ゲンジツシュギだから、今も小難しいこと考えてんじゃねーの?そういうの上手く書けそ」
勢いあまって尻尾の「う」を打ち損なった、アイツらしい返信を最後まで読んで、ハッとした。
エッセイ。
その発想はなかった。
いや正確には、エッセイって選択肢は目に入っていたけど、今の気持ちと現実を書けばいいなんて、思いつかなかった。
始まりはいつも突然で。
始まりはいつもアイツの一声。
俺はボールペンを握り直す。
原稿用紙を睨んで、一文書き出す。ペンが進む。これなら書けそうだ。
走り書きで三行くらい書いてから、アイツへの返信をしてないことを思い出した。
ペンを置くのももどかしくて、左手で液晶に打ち込んで返信する。
あとはもう、スマホなんか見ずに一気に書き上げた。
終盤まで書いて一息ついて、考える。
オチってどうすれば?
それも書き殴ってから液晶を見て、俺はなんとなくこれで〆ることにした。
「ありかとう」
「?打ち間違いじゃん、めずらしー」
こんなところで見かけるとは思わなかった。
どうも思わないようになったと思っていたのに、少なからず、動揺した。
あちらは気づいているだろうか。
気づいていたとしても、口を利くつもりはないけれど。
神経を張り巡らせて、目線をさりげなくそらして、素知らぬ顔ですれ違った。
呼び止められなかったので、上手く行ったはずだ。
当たり前だ。
すれ違った私たちの人生は交わることはないのだから。
初めからねじれの位置だった。
私がAを選んだ時は、あちらはBを選ぶ。
どんな時もそんな調子で、意見が一致することはなかなか無かった。
それでも私とあなたが友人だったのは、互いに友人であろうとしたからだ。
共通の友人を持っていた私たちは、無意識のうちに、友人でいたがった。
それが終わったのは、長い学生期間を終えて、私たちが自由になったからだ。
大人になって、もっと仲良くなれるはず。
そう期待したことも確かにあった。
でも私たちは違いすぎた。
意見が合わなすぎた。
どちらから喧嘩になったかはもう覚えていない。
しかし、たった一度の言い合いで、私たちの友人期間は終わった。
後悔はしていない。
むしろ清々した。
しかし、そんな自分の所感に罪悪感を感じる程度には、私にとって、あなたは大切な友人だった。
だから、すれ違いに動揺したのだ。
この、酷い心根を見抜かれはしないかと。
もうどうでも良いはずなのに。
私たちは最初からずっとすれ違っていて、あるべき関係に戻っただけなのだ、と。
断じてしまえる私の薄情さに気づいてほしくなくて。
…あなたの方が薄情だったので、なおさら。
振り向かずに、スピードを落とさずに。
私は前だけを向いて、毅然と歩く。
あなたになんて、最初から気づいていなかったのだ…と。
駅のホームを出る。
秋の日差しが、燦々と降っている。
私は大股で、目的地へ向かった。