うろこ雲がぽちぽち浮かんでいる。
空は青い。清々しいほど、青く、遠い。
握りこんだ手の中がちょっと汗ばむほど、空気にはまだ夏の名残が残っている。
一歩を踏み出す。
ここで止まってなどいられない。
ここまで来たのだから、最後までやり遂げないと。
そう思うから。
スマホで位置を確認して、歩き出す。
道を間違わないように。悟られないように。
貴方に見つからないように。
清々しいこんな秋晴れの日に、こんなことするなんて間違ってる。
みんな、そういうだろう。
でも、どうしても今日、行動したかった。
一日でも、惜しかった。
好きだと気づいたのはいつだっただろう。
最初は、守りたい、そんな気持ちから始まった。
貴方は危なっかしくて、向こう見ずで、真っ直ぐで。
人を疑うなんてことを知らないから。
貴方と一緒なら、私は許される気がした。
私のこの計算高さも、手段を問わない強引さも、貴方を守るためならば。
正統で、正義。
そう思った。
だから今、私はここにいる。
貴方を保護するために、ここにいる。
貴方を手放してはいけなかったんだ。
貴方は今、消耗しきっている。
他人の悪意に晒されて、組織の暗黒面に陥れられて、それでも、正しく自分を貫こうとする貴方は。
無茶だ、そう思う。
この世界は、そんな真っ直ぐに生きていけるところではない。
貴方が貴方じゃなくなる前に。
貴方が貴方じゃなくなる前に、私は。
貴方の持ち物にこっそり忍ばせたGPSは、私に貴方の場所を教えてくれる。
私の家には、貴方のための部屋がある。
私の手の中には、貴方を連れて帰る意思がある。
だから、私は貴方に会いに行く。
貴方にバレないように、不意が打てるように、ひっそりと。静かに。
だって貴方は強がるもの。
声を掛ければ、私に心配かけないように肩肘張って、強がって甘えてくれないだろうから。
うろこ雲がぽちぽち浮かんでいる。
日差しは穏やかだが、気温はまだちょっと高い。
握り込んだ手が汗ばむほどには、夏の名残が残っている。
秋晴れだ。
秋晴れの日。
私は貴方に向かってゆっくり、静かに歩く。
清々しい秋の日差しを、うろこ雲が今横切ろうとしていた。
震える手を握る。
強く、優しく、手首まで深く、その手を握る。
それから、私はただ、あの楼閣がただの砂粒になっていくのを、黙って見つめていた。
どんな立派なものでも崩れる時は一瞬なんだ。
誰がそんな真相を聞かせてくれたのだったか。
大きな満月が、空にぽっかりと浮かんでいる。
あの子の指先は、ほんのりと冷たい。
色と体温を失いつつある、あの子の手を強く、強く、握る。
あの子がいなくなってしまわないように。
あの子が飛び出してしまわないように。
私たちは、ずっと一緒だった。
ずっと一緒だった。
平和な時も、戦いの時も。
楽しい時も、苦しい時も。
ずっと一緒に居ようって約束したから。
ハッと、周りが目に入ってくる。
遠く、浜辺の向こうにあるはずの空中楼閣が揺れた気がする。
私たちはここでずっと暮らしていた。
内情も外交も不安定なこの国で、少なくない孤児が生きていくのは大変なことだった。
国に認可されていない、国の政策の副作用に見舞われた孤児など特に。
私もあの子も、お偉いさんたちの戦禍に巻き込まれて、両親を失い、身体に毒を受けた。
私たちはもう、これ以上成長しない。
その証拠に、私たちの指先は冷たくて、固い。
子どものまま生きて、子どものまま死んでいく。
そんなハグレモノの私たちが、より集まって暮らしていたのが、あの楼閣だった。
私たちは売れるものを売り、やれるだけの仕事をやって、細々と、みんなで助け合って生きてきた。
ひっそりと、普通の人たちから隠れて。
楼閣が崩れることになったのは、戦禍のせいだった。
この病の元凶で、諍いの強い味方。人智を超えた兵器が、この地域にも進軍してきたのだ。
この国の内乱は日に日に悪化していた。
その禍根が、この地域にも根の先を伸ばしてきていたのだった。
彼らは私たちを良く思わなかった。
忌まわしい、無かったことにしたい不都合な私たち。
忘れたくても忘れられない、彼らの過ちの象徴。
私たちはそういうものだったから。
だから、私たちは逃げ出した。
みんなでバラバラに、逃げることを決めた。
病気も辛い。生活も辛い。
でも、何も残らないように抹消されるよりは生きていた方がずっとまし。
彼らに、そして世界にとって、いくら忘れたくても忘れられない迷惑な黒歴史の物証だったとしても。
世の中にどんな迷惑をかける人間だったとしても。
私たちは、楼閣と一緒に崩れ去りたいとは思わなかった。
私はあの子の手を引いて、逃げた。
逃げて、隠れて。
何も知らない彼らがやってきて、私たちが作り上げた砂上の楼閣を打ち壊すのをじっと見ていた。
木のうろ、土の蟻塚の裏、シダの藪で。
私たちは崩れる楼閣を見た。
私たちは忘れないだろう。
忘れたくても忘れられないだろう。
楼閣が崩れ去ったこの日を。
楼閣には、逃げるにはあまりに幼い、幼すぎる私たちの仲間が、残っていた。
成長しないがために、どんなに危険が分かっていても、自力では逃げ出せない人たちが残っていた。
私たちは忘れたくても忘れられないだろう。
幼い仲間たちを見捨てて、仲間たちが砂の粒に埋もれていくのを、浅ましく目だけ光らせて見ていた月夜の夜を。
行き場がなくなって、野良鼠のように息を潜めて、彼らを見送ったこの日を。
国が、私たちの存在を忘れたくても忘れられなかったように。
私たちの胸の奥には、ずっとこの気持ちが引っかかり続けるだろう。
あの子の手は、ずっと震え続けている。
あの子が声を上げなかっただけでも、上出来だった。
崩れ去った楼閣には、あの子の兄弟もいた。私の妹分もいた。
私は強く手を握る。
あの子の滑らかな幼い頬に、涙が無音で滑っていく。
私は強く手を握る。震えが収まるように、と願って。
大きな、丸い月がぽっかりと出ていた。
砂煙が、もうもうと立っている。
あの子の手も、私の手も、同じように冷たくて、強張っていた。
すっかり迷ってしまった。
私は、柔らかい水蒸気の塊に触られている手をじっと見つめた。
やわらかい光が、私を包んでいる。
先の道も後の道も、やわらかい光にすっかり隠されている。
霧が立ち込めているのだ。
太陽のやわらかい光が霧の水蒸気に乱反射して、辺りはすっかり、クリーム色のやわらかい光に隠されている。
空気が冷たい。
一帯はしんと静まり返っている。
とりあえずで一歩踏み出す。
肩に触れていた霧が、後ろへ流れていく。
前方のアスファルトの道路が、一瞬開けて、また霧の中へ隠れる。
こんな状態で人を探すなんて、とても無理だ。
切実にそう思う。
だいたい、帰り道さえ見つけられないこの霧の中で一体どうやって探せと言うのだ。
バカなことだと、自分でも分かっている。
でも、諦めきれなかった。
私はどうしても、あの人を見つけて帰りたい。
それがどんなに困難でも。
それは私の意地だった。執念だった。
あの人が行方不明になってから一ヶ月が経った。
不思議な人だった。
優しくて、厳しくて、いつも嘯いていて。
根は、正義感が強くてまっすぐな癖に、言動は偽悪的で、戯けていて。
軟派で物腰は柔らかいのに、どこか頑なで芯は頑固で。
忖度や特別な関係などどこ吹く風で、誰にでも分け隔てなく、おんなじそっけない対応を貫いていた。
「どうでもいい」が口癖の、不器用な人だった。
冷たい空気を少しだけ深く吸い込んで、あの人を呼んでみる。
「先生?」
私の声は、冷たい霧の中にゆっくりと霧散していった。
辺りはまた、しんと静まり返る。
「先生!」
ちょっと高めに上げた声も、やわらかい光を纏った霧に抱きすくめ、埋られていく。
先生は、霧に似ていた。
ひたすらに、光も風も声も音も、みんな吸収していく霧を見て、私は思った。
人当たりもやわらかだけど、そのやわらかさは優しさではなくて。
儚げなのに頑固でなかなか消えようとはしなくて。
肝心なことは何一つ見せてくれなくて。
やわらかな光のような、そんな人だった。
霧は相変わらず、やわらかな光を抱いて、私の周りを包み込んでいる。
光も霧も何も答えてくれない。
ただ、周りのものを水蒸気の塊の中に埋めて、沈黙を守っている。
私は先生を探す。
このやわらかい光の中から。
だって、あの人はこの光に似ている。
ここに隠れるくらいできるだろうし。
「先生」
私は呟く。
やわらかな光が私を包んでいる。
一歩を踏み出す。
霧がゆっくりと後ろに流れていく。
やわらかな光は、何も変わらずに、沈黙を守って、私を見つめていた。
野犬と飼犬の目つきは違う。
ちょっと犬を飼った経験がある人間であれば、犬の瞳を覗けばすぐに飼犬か野犬か判断できるだろう。
野犬や野生動物はみな、鋭い眼差しをしている。
その鋭さは、あらゆる無いものによるものだ。
安全、絶対的な信頼、生活の余裕。
それらを持たないからこそ、彼らの眼差しは鋭い。
視線の鋭さは、彼らの生い立ちの過酷さと、期待などしない警戒から来ている。
それは人間とて例外ではない。
私は今、鋭い眼差しに晒されている。
お父様と私の前に傅いているのは、我が国の仇敵を打ち滅ぼし、世界に平和をもたらした救国の勇士だ。
彼はおとなしく、お父様の長々しい激励の言葉を聞いている。
空気が張り詰めている。
そのうち、お父様は言うだろう。
救国の褒美にうちの娘を娶ってくれぬか、と。有無を言わさぬ形で。
お父様のその判断に異論はない。
一国の主人として当たり前の選択だ。
国を上げても倒せなかった仇敵を打ち滅ぼすほどの力を持った人間。
この国の英雄。
今から始まる平和な時代を治世していくためには、そんな危険因子に手綱をつける必要がある。
個人にとって、一番強力な鎖は絆だ。
お父様は国のために、言うだろう。
「わしの娘を娶ってくれ」と。
勇士もそれを断らないだろう。
戦闘力によって貴族や王族に目をつけられ、勇士に半強制的に任命され、自分の戦いの実力一本でここまでの偉業を成し遂げた叩き上げの彼は、これからの平和な時代で、同じ生活を保つのは難しいだろう。
彼には、文臣に必要な基礎学力も常識も持ち合わせておらず、また、貴族のような育ちの良さも立ち回り方も身につけていない。
そう、どちらもそうせざるを得ないのだ。
いくら鋭い眼差しを私に刺そうと、私は貴方を伴侶にするしかなく、貴方もまた、私を娶る以外に選択肢はないのだ。
たとえ、私が、貴方と貴方の仲間を死地に追いやった憎き王の娘でも。
たとえ、私が、貴方たちの日常を突然崩していった貴族たちの頂点にいる人間だとしても。
たとえ、私が、貴方だけに犠牲を強いて、これから貴方の犠牲によって訪れた平和を、何の犠牲も払わず享受する国民達の象徴だったとしても。
私たちは、一緒に生きていくしかないのだ。
鋭い眼差しが私の肌に突き刺さる。
憎しみや怒りや悲しみや警戒心が、深く深く絡み付いた鋭い眼差しが。
それでも、私たちは一緒に生きていくしかないのだ。
彼をじっと、真っ直ぐ見つめ返す。
私の視線は、何を語っているだろうか?
…自分では分からない。
それでも、彼を正面から受け止めなくてはいけないと思う。
この国の姫として。
彼の妻として。
鋭い眼差しが、やや斜に穿った角度から、こちらを刺している。
私はそれを受け止める。
真っ直ぐ、角度を変えずに返す。
それが私にできる唯一のことだから。
お父様が一息置いて、ちょっと口をくぐもらせてから切り出す。
「そこで、其方には…」
窓から差し込んだ日の光が、鋭い眼差しを湛えた勇士を照らし出していた。
ブレスレットを右手首にはめる。
控えめな紐ブレスレット。
母親から貰ったブレスレット。
ブレスレットに一つだけ嵌った石の、黄色と褐色の筋を撫でて、心の中で、おまじないの言葉を唱える。
「高く高く」
「高く高く」
机の向こうの窓の外は、黒い夜空色に染まっている。
開いたノートはもう、黒字の数式と赤い文字で埋め尽くされている。
明日はテストだ。クラス替えの。
自称、進学校であるうちの学校は、進路先の自由度が高い、というので有名だ。
うちの学校の場合、年度始めに発表される学年クラスは、総学や学校行事、HRの時にしか使われない区分だ。
それ以外の時ーつまり、普通の日の授業の時は、各教科、定期テストのクラス順位の結果で細分されたクラスで、少人数体制で、それぞれ授業を受ける。
理由は簡単。進路が人によって違うからだ。
進学を目指す生徒は必死で勉強するから、クラス順位は上がる。だから、上位クラスで、受験対策クラスの、ガチの勉強をする。
中位くらいなら、専門学校への進学か就職を目指している層になるから、面接や社会常識やそういう対策を含めた勉強をする。
下位なら下位なりに、進路を見据えた無理のない勉強をする。とはいえ、部活推薦を狙う子や特定の科目が苦手な子がこのクラスに入ったりもするので、結構しっかり学校の体をなしている。
私は今、Aクラスにいる。
うちのクラスでもトップ10の、一番高いクラスにいる。
でも元々、そこまで勉強は得意じゃない。
毎回、Aクラスギリギリだ。特に理数教科は。
だから頑張らなくてはいけない。
だからもっと高みを目指さないと。
私はこの家から出たい。
勉強をして、しっかりとした将来を勝ち取りたい。
もっと、高く、高く。
もっと広い世界を見る。そのために、私はもっと高く高く登らなくてはいけない。
うちの両親は、大学には行っていなかった。
父親は、勉強なんかできなくても良いと言った。
でも、それは父親のように地方の自営業で、仕事を生きがいとして楽しみながら生きていくつもりの人にだけ、適応される理論だと私は知っていた。
小学校高学年で、既にスマホを持たされていた私は、世の中には色々な人がいて、色々な常識があるのだと知っていた。
私は仕事を生きがいにするつもりはなかった。
もう生きがいがあったから。
推しという生きがいが。
私は推しのために生きたかった。
だから両親のように、地方で勉強もそこそこに生きていくわけにはいかないのだ。
推しのグッズを買うためにたくさん稼ぎたいし。
推しのライブやイベントに出るために都市圏で暮らしたいし。
脳は推しのためだけに使いたい。
私は早くここを出たかった。
ブラック企業とか、仕事のあれこれとか考えずに出来る仕事に就きたいし、お金を余裕を持って使える生活を目指したい。
そのためにはまず受験。次に就職だ。
うちはたくさんお金があるわけではないから、進学するなら奨学金もいる。
私立に行くことも考慮するなら、特待生を目指せるくらいの勉強はできないと。
だからAクラスから落ちるわけにはいかない。
私は今のところ、そう思っている。
全ては推しのため。推しのためだ。
高校生で、何事も両親のお金でする今の私には、半端な応援しかできない。
だから、私は今頑張ることにした。
頑張って、いつか、自分の全てを推しに捧げる。
そのために高く高く登っていきたい。
天然石が有名な観光地へ遊びに行った時、母親が、お土産に何か買ってあげるから、一つ選びなさいと言った。
私は迷わず、このブレスレットを選んだ。
タイガーアイ。成功と金運をもたらしてくれるという石。
紐のブレスレットなら、スクールカバンにもつけられる。
だからお守りにしよう。
私が、高く高く登れますように、という思いを込めて。
ブレスレットのタイガーアイは、鈍く輝いている。
ノートを閉じて、カバンにしまってから、ブレスレットをそっと、優しく、撫でる。
ぴかぴかの石の、ひんやりとした丸さが、私の心を落ち着けてくれる。
高く高く。
私なら頑張れる。大丈夫。
ブレスレットを外して、カバンの持ち手に付け替える。
タイガーアイが、つややかにきらり、と輝いた。