薄墨

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野犬と飼犬の目つきは違う。
ちょっと犬を飼った経験がある人間であれば、犬の瞳を覗けばすぐに飼犬か野犬か判断できるだろう。

野犬や野生動物はみな、鋭い眼差しをしている。
その鋭さは、あらゆる無いものによるものだ。
安全、絶対的な信頼、生活の余裕。
それらを持たないからこそ、彼らの眼差しは鋭い。
視線の鋭さは、彼らの生い立ちの過酷さと、期待などしない警戒から来ている。

それは人間とて例外ではない。

私は今、鋭い眼差しに晒されている。
お父様と私の前に傅いているのは、我が国の仇敵を打ち滅ぼし、世界に平和をもたらした救国の勇士だ。

彼はおとなしく、お父様の長々しい激励の言葉を聞いている。

空気が張り詰めている。

そのうち、お父様は言うだろう。
救国の褒美にうちの娘を娶ってくれぬか、と。有無を言わさぬ形で。

お父様のその判断に異論はない。
一国の主人として当たり前の選択だ。
国を上げても倒せなかった仇敵を打ち滅ぼすほどの力を持った人間。
この国の英雄。
今から始まる平和な時代を治世していくためには、そんな危険因子に手綱をつける必要がある。

個人にとって、一番強力な鎖は絆だ。
お父様は国のために、言うだろう。
「わしの娘を娶ってくれ」と。

勇士もそれを断らないだろう。
戦闘力によって貴族や王族に目をつけられ、勇士に半強制的に任命され、自分の戦いの実力一本でここまでの偉業を成し遂げた叩き上げの彼は、これからの平和な時代で、同じ生活を保つのは難しいだろう。
彼には、文臣に必要な基礎学力も常識も持ち合わせておらず、また、貴族のような育ちの良さも立ち回り方も身につけていない。

そう、どちらもそうせざるを得ないのだ。
いくら鋭い眼差しを私に刺そうと、私は貴方を伴侶にするしかなく、貴方もまた、私を娶る以外に選択肢はないのだ。

たとえ、私が、貴方と貴方の仲間を死地に追いやった憎き王の娘でも。
たとえ、私が、貴方たちの日常を突然崩していった貴族たちの頂点にいる人間だとしても。
たとえ、私が、貴方だけに犠牲を強いて、これから貴方の犠牲によって訪れた平和を、何の犠牲も払わず享受する国民達の象徴だったとしても。

私たちは、一緒に生きていくしかないのだ。

鋭い眼差しが私の肌に突き刺さる。
憎しみや怒りや悲しみや警戒心が、深く深く絡み付いた鋭い眼差しが。

それでも、私たちは一緒に生きていくしかないのだ。

彼をじっと、真っ直ぐ見つめ返す。
私の視線は、何を語っているだろうか?
…自分では分からない。
それでも、彼を正面から受け止めなくてはいけないと思う。

この国の姫として。
彼の妻として。

鋭い眼差しが、やや斜に穿った角度から、こちらを刺している。
私はそれを受け止める。
真っ直ぐ、角度を変えずに返す。
それが私にできる唯一のことだから。

お父様が一息置いて、ちょっと口をくぐもらせてから切り出す。
「そこで、其方には…」

窓から差し込んだ日の光が、鋭い眼差しを湛えた勇士を照らし出していた。

10/15/2024, 2:01:20 PM