薄墨

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舌が転ぶ。
転がり落ちた自分の声が、やけに丸く、舌ったらずに縺れて響いた。

彼はちょっと顔を下に傾けて、ゆるく頷いてから、こちらに向き直った。
解けたリボンの端が、目の端にだらしなく投げ出されていた。

しゃくりあげるように震えた体の芯から、声が漏れ出た。
そうしたつもりはなかったのに、大半が吐息で漏れて、細かく震えていた。「なんで」

「なんでかな」
骨粗鬆症の骨みたいな掠れた声で、彼は答えた。
冷たい指の感触を感じた肌が、僅かに上気する。

黒い髪の奥から、静かに水滴が滑り落ちた。
涙が、肌に染み込んでいく。

「分からないの」
しゃくりあげる息の狭間で、聞いた。
相変わらず舌は躓き、声はまどろっこしく聞こえた。

彼は返事をしなかった。
代わりに、小さく、細い声でぼそりとこぼした。
「ここに刺すつもりだったんだ」
指が、滑るように這った。
心臓の鼓動ごしに、指の柔らかさが触れた。

乱暴にはだけられた胸元の隙間が、傷口を広げるようにじわっと大きくなった。

彼の頭が揺れた。
大きな水滴が、千切れた襟にシミを作った。
胸元の鎖骨の継ぎ目のまだ白い肌に、彼の額が落ちた。

息を小さく吸う感じがした。
彼の頬には、水の通り道が静かに出来上がって、流れ落ちていった。
息を潜めるように、疼くような尾を引く彼の息が、後から後から落ちてきた。

縋って、ただ、つとつとと涙を流す彼を見て、昔、街中で見た迷子を思い出した。
親と逸れた子どもは、息を声を絞り出して、声が枯れるまで泣きじゃくった。
親に再会できるまで、声が枯れるまで轟々と泣きじゃくった、あの子どもを思い出した。

私たちには、声が枯れるまで泣きじゃくるような元気は残っていない。

皺になるほど強くネグリジェを握りしめて、でもその強い感情を口から洩らすことも出来ずに、彼は涙を流した。
私は何も出来ない。
死紋に斑らに彩られた四肢は、びとり、と固まって、震えることすらできなかった。

青痣のような死紋が、少しずつ斑らに現れて、痣に覆われた体は死体のように冷たく動かなくなる。
痣が広がるたびに、息が深くなって、声が、子どもか赤ん坊のように、出づらくなる。
そんな病気は、貧困層からあっという間に広がった。

肉体を使う労働者たちにとって、青痣は日常の些細な怪我だ。
病気はあっという間に、速やかに、密かに、この地を蝕んだ。
病気がどこか一つの部位が動かなくなった者や声が思うように出なくなった者たちは、労働で暮らしを立てることが出来ずに、一年と経たずに死んでいった。
病気の進行も待たずに。

こうして、この病気が発覚したのは、資本を持つ支配層から病人が出てからだった。

それまでに、いったい何人が亡くなったのか。それは今でも不透明だ。

私は、支配層でこの病気に初めて罹った患者だった。
病気が発覚してから、かれこれもう五年は、寝室に隔離されて、生かされ続けていた。

私の上で蹲って泣く、彼。
きっと、病気で近親者を亡くした過去を持つ者なのだろう。
だから、生まれた環境に恵まれたために生き長らえている私を殺しに来たに違いなかった。
見窄らしくズタズタになった天幕のそばに転がるナイフが、そのバックボーンを裏付けている。

彼はしばらく、声を食いしばり、息をしきりに呑みながら泣いていたが、やがてゆっくりと、頭を上げた。

目が合った。
腫れぼったく潤んだ目が、真っ直ぐこちらを見つめていた。
少し沈黙が流れた。

「…お騒がせしました」
いっそう掠れた、疲れしか見えないカスカスの声で、彼は言った。
声が枯れるまで、枯れた後もさらに枯れるまで、泣いたということが、それで分かった。
「ごめんなさい。さよなら。…睫毛長いんですね」
彼は慌てたように、カラカラの声でそう言った。

「ネグリジェを直していってほしいの。寒いから」
舌をもたつかせながら、息を交えた声で、私は言った。
彼はちょっと目を見開いて、それからバツが悪そうに目を伏せた。
私のネグリジェをそろそろと合わせて、ちまちまと、慣れない手つきで一つ一つ、釦を止めている。

やがて、釦を留め終わると、リボンに手を伸ばして、もたもたと結んでくれた。

「すみませんでした。さよなら」
絞り出すような悲痛な声で、彼は最後にそう言って、窓から外へ出ていった。
枯れ切った声で、そう言い置いて。

私は黙って、小さく頷いた。

外は真っ青な良い天気だった。
爽やかな秋風が、入れ違いに軽快に、部屋に流れ込んできていた。

10/21/2024, 2:52:01 PM