薄墨

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10/12/2024, 12:33:41 PM

芋虫の気持ち悪さは、上から見たせいなんだと思う。
細いアスファルトの道を、アオムシが這っていた。
鮮やかな黄緑色のアゲハのアオムシは、ふっくら膨らんだ偽の頭の節の下から、もわっとした柔らかな頭を懸命に伸ばして、せっせと足を進めている。

しゃがんで覗き込む。
離れてみると、うねうねら、ぐにゃぐにゃと決まりなく動いてみえる体だが、近くでよく見てみると、つやつやの節の下に、みっちりちょこちょことついた小さな足たちが、規則正しく動き続けているのがわかる。

顔を上げて辺りを見回す。
アオムシが道を見つめてせっせと歩いているその先を辿ってみる。
どうやらアオムシは、校庭の隅の小さな畑の、蜜柑の木を目指しているようだ。

放課後の校庭は騒がしい。
みんな、放課後にはまだお家の人が帰っていないから、学校が終わったら、学童の教室へ下校する。
それから、学童の教室で宿題を終えて、校庭で遊ぶ。
僕も、みんなも。

だから、今も校庭は騒がしい。
ついさっきも、鬼ごっこをしている一年生が、僕とアオムシの脇を走り去っていった。

踏み潰されたら可哀想だ。
それに、踏み潰しても可哀想だ。
三年生のあの子は、今日はおろしたての新しい俊足で来たと自慢していたし、今日、僕たちの学童教室に来ているアルバイトのお姉さん先生は、虫が苦手だ。

僕はアオムシにゆっくりついていって、見張ることにした。

校庭では、低学年の子たちが、きゃあきゃあと声を上げながら、走り回っている。
元気の良い子たちに囲まれて、六年生のリーダーが大声を張り上げる。
「グーとパーで分かれましょ!!」
向こうの鉄棒では、高学年のおとなしい子たちが2、3人くらいで固まって、お話をしている。

僕はゆっくりアオムシについていく。
アオムシの足は、意外とゆっくりで意外に早い。
じっと見ていると遅いけど、ちょっと校庭に気を取られると、いつのまにか一歩分くらい前にいる。

おばさん先生が、別の先生とお話をしている。
お姉さん先生は汗を拭いながら、小さい子と一緒に校庭を走り回っている。

カラスが鳴いてる。
かあかあ

僕はアオムシについていく。
このアオムシ、首のあたりに青いラインが入ってて、カッコいい。
なんだか、中学生とか高校生のお兄さんたちが履いてる、スマートな運動靴みたいだ。

なんで緑なのにアオムシって言うのか、今まで分からなかったけど、今分かったかもしれない。
きっと、この青いラインの青なんだ。
だって、ピカピカの黄緑の中にくっきりと引かれた青は、本当にカッコいい。

僕はアオムシについていく。

「鬼ごっこに入らんの?」
振り向くと、汗まみれのお姉さん先生が立っていた。

僕は首を横に振る。
ちゃんと断る理由も言った方がいいかな?と思ったけどやめておいた。
お姉さん先生は、虫が苦手だから。

「本当にいいの?」
お姉さん先生は、不満そうな、心配そうな顔で、そう聞いた。
「うん、僕、しない」
僕はダンコとして言った。

「…そっか、入りたくなったらいつでもおいでね!」
お姉さん先生は、ちょっと困ったような顔をしてそう言って、校庭へ走っていった。

僕はちょっとホッとして、それからまた、アオムシについていった。

アオムシが学校の畑の土についた時、笛の音が聞こえた。
外遊びの終わりの合図だ。
僕はまた、ホッとした。
アオムシがここまで来るのをちゃんと見れてよかった。
ホントは木に登るところも見たかったけど。

「帰るよー!」
おばさん先生の呼び声が聞こえる。
賑やかなみんなの声が、おばさん先生の方に移動していく。

バイバイ
僕はアオムシに手を振って、走り出す。

五時のチャイムが、放課後の校庭に鳴り響いた。

10/11/2024, 2:19:20 PM

生焼けのトーストを齧る。
壁掛け時計は、朝の七時を指している。

紙コップの中の、ぬるいコーヒーを飲み干して、立ちあがる。
トーストを齧りながら、鞄を肩にかける。
窓辺に立って、きっちりカーテンを閉める。

分厚いカーテンは、光を通さない。
部屋の中は薄暗い影に包まれる。

私にとって、カーテンは閉めるためにある。
カーテンの役目は、外からの視線を遮って、部屋の中を隠して守るだけではない。
部屋の中の私の視界を遮って、外の景色を隠してくれる。

紙コップを潰して平坦にしてから、トーストを持って、床に座り込む。
鞄を肩に掛けて、膝に抱えたまま、トーストを齧る。
ツルツルと輝く塵一つないフローリングに、パン屑がパラパラと落ちる。

私は病的な人間だ。
床に落ちているものはどんな小さなものでも我慢ならないし、家具や家電を置くのは怖い。
凹凸はどうしようもなく気になるし、円柱や立体的な“モノ”感があるものが怖い。

私は立体が怖い。
そして平坦が好き。

こうなってしまったのは、いつからだったろうか。
もう覚えていない。
人嫌いが病的になり、立体恐怖症に悪化して、部屋に引き篭もるようになってから、私はずっと日中は、カーテンを閉め続けている。

トーストを食べ終わり、折りたたみ式のほうきとちりとりを組み立てて、パン屑を掃除する。
掃除が終われば、急いでほうきとちりとりを分解して、また平面に戻す。

そこで私の心はやっと平坦を取り戻す。

もう私は、外では生きていけない。
外には、あのカーテンの向こうには、奥行きが溢れている。立体が溢れている。
だから私はカーテンを引いて、ただの四角い部屋の中にへたり込んで朝ごはんを食べる。

そんな家主を持ったおかげで、うちの部屋の窓の鍵はすっかり錆びついてしまっている。

朝食も終わったので、鞄からノートパソコンを取り出して、起動する。
立体が怖い私は、仕事も買い物も会話も平面でする。

現代は、私にとって良い時代だ。
大抵のことは外に出ずに、平面上で済ませられる。

インターネットは、私の日常を支えてくれる。
カーテンは、私を立体から守ってくれる。
だから私は、ずっとこの部屋の中で暮らしている。
ゴミは玄関前に置いて、管理人さんに回収してもらう。
届いた荷物は綺麗に潰して、平坦にする。

立体に侵略させないために。

私は、カーテンに守られ囲まれた平坦な王国で、暮らしている。
私だけの王国。
カーテンはこの王国の砦で、守衛なのだ。折り目の影がちょっと気になるけど。

そういうわけで、私は今でもカーテンに守られて生活している。
カーテンに四隅を囲まれた、平坦で手狭な楽園で。

カーテンが、部屋に薄暗い影を落としている。
部屋の中のどんなものにも公平な、平坦な影を。

私はゆっくりと体を伸ばす。
今日も、私の平坦な一日が始まる。

10/10/2024, 2:38:08 PM

シャーデンフロイデという言葉を発明したやつを、俺は心底、尊敬している。
目の前で膝から崩れ落ちた友人を眺めながら、今日も俺は、ぬるくなった水道水を、甘露のように味わって飲み干す。

液晶モニターの中のAI機械音声が、冷淡に、今日の株価の暴落を告げていた。

「なんでだ…俺の人生、全て賭けてたんだぞ!!俺の貯金……俺の人生、めちゃくちゃだ!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、友人は喚き散らしていた。
俺は、右手に持った季節外れの棒付きアイスを齧りながら、それを黙って聞き流している。

「俺の人生、めちゃくちゃだ!」
彼のこの言葉を何回聞いただろうか。
この後はいつも、彼は決まって、ふしくれだった腕で俺の胸ぐらを掴み、浅ましい目をギラギラさせて、こう続けるのだ。
「これも何もかも、お前のせいだ!あの時、お前が俺を止めてくれてれば…!」

彼は、俺の元同期で友人で、俺ん家の居候だ。

同大卒で同僚だったのだが、インフルエンサーに影響されたのか、急に投資を始めて億万長者になるだのと言い放ち、職場を去っていったのだ。
彼が、着のみ着のまま、俺の家に肩を窄めてやって来たのは、それから僅か一ヶ月後のことだった。

曰く、投資に失敗し、金を騙し取られ、グレーゾーンまで引き摺り込まれて、洋服以外すっかり剥ぎ取られて、命からがらここまで来た、どうにか金が工面できるまで、住まわしてはくれないか…そんなことを涙交じりの面で訴えた。

俺は大して驚かなかった。
そうなるだろうな、と前々から思っていたからだ。

彼はお世辞でも賢いとは言えないほどの奴だったからだ。
お調子者で、行き当たりばったりで、時間や信頼にもルーズ。
優先順位や計画、理論的という言葉は、きっと彼の辞書にはないのだろうと影で噂されるくらいの、無計画お花畑男だったからだ。

そして、その欠点の責任を環境と他人に押し付けて、怠惰を貪り、自分の非を受け入れて改めようとしない奴だったからだ。

彼は学生時代から今までずっと、少なくとも俺が知る範囲ではそういう、どうしようもない人間だった。

だから、俺は彼のそんな突飛で身勝手なSOSにも応えることができた。
俺は彼を家に招き入れた。
ダメ人間を飼うことにした。

彼はダメ人間だったが、俺は彼が結構、気に入っていた。
言動はいちいち予想の斜め下で面白かったし、口が重く表情を表に出すのが苦手な俺にとって、表情をクルクル変えて常に騒ぎ続ける彼の存在は、なかなか興味深かったからだ。

それに、彼の存在は、俺にとっても有益だった。
彼の枚挙にいとまのない失敗たちは、ある時は俺を慰めた。「俺の下にはまだコイツがいる」と。
またある時は、俺を戒めた。「怠惰に身を任せて、考えることをやめれば、彼みたいになるぞ」と。

だから俺は、何度約束を破られても彼の友人であり続けた。
彼は、俺にとっての反面教師で、興味の塊で、観賞用生物で、かけがえのない友人だった。

彼がいるだけで、俺の日常は楽しかった。
彼の涙を眺め、涙の理由を解析し、それを肯定し、手を差し伸べながら、内心で失笑し、論い、彼を貶めるのが、俺にはアニメやマンガや本よりも、何よりの娯楽だった。

俺は悪魔なのだ、きっと。
友人の涙の理由を甘い露か、美味い酒肴のように味わう俺は。
自分の生活を切り詰めてでも、彼の自業自得な悲劇と涙の理由を手放せない俺は。

不幸を喰らう悪魔なのだ。

そして、そんな悪魔は存外、ありふれた存在なのだろう、と思う。

友人は、俺の胸ぐらを掴み、しばらく慟哭を上げながら強請っていたが、まもなく息が切れて、咳き込みながら座り込む。
泣き疲れた子供のような、くちゃくちゃな顔で、へたり込み、呆然と床を眺めている。
頬を、涙が一粒、光りながら流れていく。

俺は彼の背をそっとさすってやる。
彼がしゃくりあげる。
「心配すんな、金ができるまで追い出さないから」
俺の猫撫で声に、彼がまた一筋の涙を、くちゃくちゃの頰につたらせる。
「…ああ」
彼が掠れた声を上げる。
彼はとっくに、感謝の言葉を忘れている。
そんなダメさに、甘い満足感を噛み締める。

シャーデンフロイデという言葉を発明したやつを、俺は心底尊敬している。

10/9/2024, 1:28:16 PM

ヘリウムでぱんぱんに膨らんだ、ビビットカラーの風船。
赤と白でくっきりと目立つ、丸みを帯びた三角のテント。
ギザギザの黄色い旗のひだが、バタバタと風にはためいている。

新緑に纏われて、しん、と静まり返った、狭い開けた土地に、堂々とサーカスのテントが立ち塞がっている。

テントの奥からは、ロリポップキャンディーのような甘い香りがする。
楽しげな音楽が、テントの内側から漏れ出ている。
風船が、はち切れそうなゴムの皮膚を寄せ合って、ひっきりなしにふわふわと浮かんで、こちらを誘っている。

テントの入り口近くに立っている、奇妙な帽子を被った奇妙な痩身の男が、囃すようにひょうきんに笛を吹く。
風船を持つ着ぐるみのネコは、口角を目一杯あげ、楽しくて堪らないような笑顔で、風船の細い尻尾を握り込んでいる。

見ているだけでテントの中に突き進みたくなるような、ステップを踏みたくなるような、そんな景色。
こういう気持ちを「ココロオドル」というらしい。
どこかの本に載っていた。

ココロオドルサーカスのテントが、私の目の前にあった。

縄だけを掴んで、樹海の細い道を出鱈目に歩いてやって来た私の目の前に。

ここは自殺の名所のはずだ。
入り組んだ木と枝に覆われて、陽の入らない薄暗い道。
人の気配は全くなく、陰気で人気も生気も感じさせない空気に纏われた、静まり返った道。
行き倒れと自殺者の死体の他には、何もいない寂しい場所。
誰も救えず、罪だけを重ねて、帰りを待つものなんて誰もいない私には、お似合いの場所。
とうとう、間接的に人殺しまでやってしまった私の最期に相応しい場所…のはずだった。

どういうわけか、私の目の前には、温かく賑やかで派手なサーカスのテントがある。
派手な人工色が目に痛い。

奇妙な痩身の男が笛を吹く。
重ねた罪で虚に灰色だったはずの私の心が僅かに踊る。
ネコの着ぐるみがこちらに進み出て、風船を差し出す。

真っ赤な風船。
ぱんぱんに空気の詰まった、生き生きとした真紅の風船。

心がドクンと踊る。
私は、差し出されるままに風船を受け取る。

また、痩身の男が笛を吹く。
テントの中から、ココロオドル音楽が一層湧き上がって聞こえてくる。
人の笑い声すらする。

満面の笑みのネコの着ぐるみが、優しく私の背を押す。

まるで、子供に戻ったみたいだ。
何の罪も何の悪いことも知らず、純粋で、清らかで、いい子だったあの時に戻れたみたいで。

子供の私の心は、楽しそうなサーカスに、無邪気に高鳴り、踊った。

着ぐるみのネコの笑顔がこちらの顔を覗き込み、軽やかに頷くと、私の背をもう一度、優しく、ゆっくりと押した。
痩身の笛吹男が笛を吹いた。

ココロオドル。
ココロオドル。
私は転げるように一歩を踏み出した。
一度踏み出すと、もう足は止まらなかった。

私は勢いよく駆け出した。
縄も遺書も何もかも投げ出して。

灰色の秋風が、背中で強く吹いた。
どこかで、枝が動いた気がした。でもサーカスに心を奪われた子供には、気にならないことだった。

私はサーカスのテントに向かって走る。
冷たい樹海が、テントの四方を静かに囲んでいた。

10/8/2024, 2:10:55 PM

籠が転がり落ちた。
金の林檎が、籠の中からごろり、と転がり出た。

視線は、自然と転がり落ちた林檎の軌道を辿った。
始点には、白い絹の法衣を纏った彼の袖から溢れでた、細い手首があった。
頼りない手首の先の先に、肉の薄い指が、細かく震えていた。

林檎は、芯を中心にして、ごろごろと独、転がっていた。
誰も喋らなかった。
僕は、独りよがりに転がる煌びやかな祝福の林檎を見て、蒼白のショックを受けている彼の顔を見て、彼の体の末端で細かく震える指先を見た。

こんな状態になっても、誰も何も言わなかった。
石木のように黙りこくっていた。
僕が言わなければいけない、それ以外の誰が言うのだ、そう思った。

言葉を出すのに、難儀した。
喉の奥に林檎の骨が刺さったように、声は何度も腹と喉を逡巡した。
ようやく吐き出した声は、掠れていた。
「もう、やめよう」

彼が弾かれたようにこちらを見た。
白く柔らかい法衣が、彼の動きに吊られて、びくりと跳ねた。

「もう、やめようよ、祝福配りなんて…こんな状況になってまですることじゃない」

僕の声だけが響いた。

彼は、不思議な力を持つ人だった。
祝福を、金の林檎にして、人々に分け与えることができる。彼は、その能力を偉大なものから授かって生まれてきた。
そして、祝福を分け与え、幸せを増やすことが、彼が与えられた使命でもあった。
彼のその力は、この辺りの人々が幸せに暮らすのに大いに役に立った。

その代わりに、彼の生は恐ろしく速く過ぎ去っていく。
彼は生まれてから4、5年で大人になり、日に日に成長し、老いていく。
彼の兄貴分として、彼にここでの生活について教え、面倒を見てきた僕のことも、彼は抜き去っていった。

「まだ、不幸な人がいます。あの花屋の親子だって、一日でも祝福を受け取れなければ、母親だけ死んでしまいます。…行かなくちゃいけません」
静かで、絹のように柔らかい、彼の声が響いた。

彼は底抜けに優しくて、真面目で、でも秘めた強い意志と芯があって、不思議な能力に負けないほどの素晴らしい性格をしていた。
瞳に深い何かを湛えて、どんな時も凪のように穏やかだった。

彼は毎日、真面目に、必死で、使命を果たそうとした。
彼のその気持ちと能力を知った時、僕たちは、彼を助けていくことを決めた。
祝福を町中で配ることを提案したのは、僕だ。
彼の慈悲深く、世話焼きで穏やかな優等生みたいな性分にはぴったりで、彼はどんどん祝福配りに熱をあげていった。

最初は月に2、3回だった祝福配りは、2週間に2、3回になり、1週間に2、3回になり、1週間に5日になり、あっという間に、彼と僕たちの毎日の日課にまでなった。

僕は彼が好きだった。みんな、彼のことを好きだと思っている。
彼を嫌いな人なんて、よほどの捻くれ者だろう。
祝福を受け取る町の人々は、彼に感謝していたし、僕たちは、彼の優しさに救われていた。

僕は彼と出来るだけ長く一緒にいたかった。
彼にも幸せになって欲しかったし、彼が喜ぶとこっちまで嬉しくなった。

ところが。
祝福を配れば配るたび、彼は、何だかやつれていくようだった。
彼の体は薄くなり、顔色はだんだん蒼白に抜けていって、細く儚げになった肌に、赤い肌荒れが目立ち始めた。
彼の成長のスピードも、目に見えて上がっていく。
彼と僕たちの成長の差は、もう一回りは違うように見えた。

このままでは彼は死んでしまう。
彼の人生は、あっという間に終わってしまう。

僕は、彼が、自分のことを気にしているところを見たことがなかった。
このままでは、彼は自分のことを何もせずに人生を終えてしまうのではないか。
彼は自分のためでなく、使命のために死んでしまうのではないか。
彼を休ませなくては。
少なくとも、束の間の休息くらいは、彼に与えなくては。

僕は彼の柔らかで、しかしガンとして引かない強い声に、必死で抵抗した。
休め!束の間でいいから休息を取ってくれ!
最後の方には哀願になった。

でも、彼は首を横に振った。
周りの奴らも、誰も休もうとは言わなかった。

やがて、彼と奴らは林檎を拾い上げ、町へ向かって歩いていった。
僕だけが取り残された。

一人きりで、必死に頭の中に考えを巡らせた。
彼を休ませるためにどうすれば良いか。
彼に束の間の休息を与えるためには…

…彼が祝福を配る相手がいなくなればいいんじゃないか?
何もかもなくなって、彼がすることがなくなれば?
何もかも黒く塗り潰してしまって…
そしたら、彼は、その間、束の間でも休むことができる?

そうだ、そうすれば良かったんだ。
彼が自分を犠牲にしてまで人のために尽くしてしまうのであれば、その人がみんな居なくなれば、彼は自分のために時間を使える。
再び人が現れるまで、それが束の間でも、長くても、休むことができる。
…そうだ、それだ!

体の節々が氷解したような解放感が胸を満たす。
体温がようやく身体に戻って来た気がした。
そうだ、そうすれば良い。それが僕の使命だ。

身体に力が籠る。
脳が熱を帯びて、生き生きと動いている。
僕は、強く決意して、一歩を踏み出す。

不意に、耳元で喧しい笑い声がした。
身勝手で、自由で、けたたましい声。
何だか心地よい気がした。
つむじ風が埃を巻き上げて、僕の背を押した。

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