水をかけた。
榊を生けて、線香を焚いた。
ひぐらしが鳴いていた。
完全ならば、誰にも持ち上げられない石を作れるか?
二人っきりでそんな話をした。
のどかな昼下がりに、そんなくだらないことでいつも盛り上がった。
僕は、完全な人を目指している。
運動も得意で、勉強も学歴もしっかり積み上げて。
履歴書はどの欄も空白が足りないほど充実した人生を送らせてもらっていて、世間話のネタになる話題や経験については事欠かない。
失敗も山ほどして、成功経験もいくつか積み上げていて。
インターネットの浸透によって、世界中との比較ができるおかげで、上も下も知っている。
自分の環境が恵まれていたことも知っているし、だからこそ、気遣いもできる。
そんな完全な人間になりたいと思っていた。
だから、僕は君が、完全なものとは何かを考えながら全能の矛盾について話すとき、いつも「完全なら作れないし、作れないことは矛盾にはならない」と答えた。
完全で全知で全能なモノならば、完全になれない不条理さも、不完全なモノ達の苦悩も、深く知り得ているはずだと思っていたから。
完全で全知全能でなんでもできるのだから、失敗をすることすら可能だと思っていたから。
そう答える僕の心根は、失敗や不完全を知り得ない完全が人を救うのは難しいので、そんな完全は意味がない、と考えていた。
僕の心根を知ってかしらずか、僕の回答を聞くと君はいつも微笑んで、
貴方らしいね。優しいのね。
と、静かに言った。
でも、何度この話をしても、僕の意見を聞いても、君はいつも「矛盾だ」と言っていた。
それでも、失敗は失敗で、出来ないのはおかしいし、出来て持ち上げられないのも、完全じゃないと。
貴方の意見は論理的だけど、やっぱり理解できないって。
君は完璧主義だった。
【完全】や【完璧】は君の神様で、君はいつもそれらの忠実な信徒で僕(しもべ)で。
【完全】に心底心酔して、執着して、信仰して、努力を重ねていた。
だから、僕は完全を目指していた。
君に心から愛してもらえて、君を安心させられるような、完全な人間になりたいと思った。
不完全なままの君が好きだと、ずっと思っていたし、伝え続けていた。
でも、僕は一番大切なことを分かっていなかった。
一番最初に理解しなくてはならないことを理解していなかった。
ある夏の日に君は死んだ。
自殺だった。
社会人だった僕らには関係ないはずの、夏休みの最後の日に。
一番、自ら絶つ命が増える日に。
僕は、完全主義の人の気持ちを理解していなかった。
完全主義の完全とはどんなものなのか。
完全に近づこうとする他人が近くに居るというのはどういうことなのか。
完全に焦がれているのに、不完全な自分を、不完全なところを愛されるというのはどういう気持ちなのか。
僕は分かっていなかったし、今もまだ理解できていなかった。
不完全な僕だった。
墓石をそっと撫でた。
手を合わせて、目を瞑った。
線香の香りが立った。
君の姿が、瞼の裏に浮かんだ。
ひぐらしが、うるさいほどに鳴いていた。
「…マスタァ、香水の瓶って捨てるの結構手間かかるんスね」
カウンター席の向こうに置かれたグラスと、“JIN”とラベルのある、透明な液体の入った瓶を引き寄せながら、俺は言った。
「…アルコールを分解するにはまだ早過ぎますよね。お子様は大人しく、ノンアルコール飲料をどうぞ」
マスターは、忌々しくも鮮やかな手つきで、俺の左手のグラスを器用に取り上げ、冷蔵庫から水蒸気の立ちのぼる、ほっそりとした瓶を取り出した。
流れるように栓抜きで口を開け、グラスに注ぐ。
俺の感情とは裏腹に、俺の口内は脊髄反射で唾を飲み、俺の右手は瓶をカウンターの向こうに差し出す。
差し出すついでに微かな抵抗を試みる。
「でもマスタァ、俺はもう酒分解できるくれえの生い立ちしてると思わねえの?」
「そんなことで未成年が飲酒できるなら、私に相談に来る知り合いの大半は、二十になる前に飲めるってことになっちまいますがぁね」
マスターはにやりと笑って、優美にグラスを差し出した。
受け取って、一口飲む。
弾けるような二酸化炭素の刺激と、ジンジャーの辛くて甘い抜けるような味が、口内に広がる。
「で、お姉さんの香水、まだ捨てられてないんですねえ。あんな啖呵切ってた割には」
白い布でグラスを磨きながら、マスターは言う。
「…そうっスねぇ。捨てれねぇの」
ジンジャーエールのぱちぱちの刺激に目を瞑りながら、俺はため息混じりにマスターに返す。
「…もういっそのこと、落として割ってしまったらどうです?」
マスターは何気ない風で付け足した。
「あの時、あなたが言ったことは正しいんですから。『過ごした時間が長いとか、ポリシーとか立場とか、そんな綺麗事でなんもしてくれない輩よりも、どんなに知り合った期間が短くても、何処の馬の骨か知らなくても、悪人だったとしても、建前だとしても、自分に対して親切にしてくれて、有益なことやものを渡してくれる奴の方が好きになるに決まってる!』…だったか。それは正しい、世の真理です。あの時は感心しましたよ。生後5年のホムンクルスが言ったとはとても思えませんでしたから」
俺は、返す言葉を探す間を埋めるために、またちびりとジンジャーエールを口に含んだ。
俺は一ヶ月前に、たまたま迷い込んだマスターと、たまたま居合わせた数人の人に助けてもらった。
俺たちは、俺たちの家_研究所の実験台からこの世界に連れ出してもらった。
それまでは、俺も姉さんも、実験漬けの毎日だった。
母さんに忠実だった姉さんは、家を家族の絆を守ることにずっと固執していた。
…だから縁を切ることにした。俺は、俺じゃない過去の誰かを見るような目で、俺と姉さんに苦痛を強いるこの家が、好きじゃなかったからだ。
姉さんと母さんは、不思議な香りをいつも仄かに纏っていた。
姉さんに言わせると、それは母さんに貰った信頼の証で、俺たちへの愛情らしかった。
母さんに言わせると、その香りはまじないで、バケモノに襲われないためのお守りらしかった。
そして、俺たちの家にはずっと香っていた匂いだった。
その香水は、紆余曲折を経て、俺の手元にあった。
_正確には、俺の部屋に、俺の新しい家のタンスの中にあった。
俺は、過去の象徴を未だに捨てられずにいた。
何故だかは分からないけど。
俺の脳は、感情は、捨てろと言うのに、俺の脊髄は、その意見をずっと否定していた。
いや、俺のそんな言葉は建前で、本当は、俺は捨てたくないのかもしれない。
香水も、母さんも、姉さんも、研究所であったことも。
「…落とした方がめんどくせぇじゃん。捨てんの」
今日だってそうだ。
今日だって俺は、自分でも苦しいと分かる言い訳を呟く。
「…まあ、それもそうですよねぇ」
そして、それを指摘しないマスターの優しさに、まだ甘えている。
…マスターの言う通り、俺はまだまだお子様なのかもしれない。
過去に縋り続ける、お子様。
ジンジャーエールを口に含む。
ジンジャーの爽やかな甘辛さが、鼻を刺して抜けていった。
「言葉はいらない、ただ・・・」
「おまっ、言葉はいらないって最終兵器みたいな言葉放っといて、この期に及んで、言葉でなんか行動希望すんのかよ!」
「お前マジそういうとこだぞお前!!さんざギザ野郎ってイジられんのそういうとこだぞ!」
「るっせえ!てめーらがなんかいい感じに女性に聞いてもらえるような希望の伝え方を教えろって言うから、恥を忍んで言ったんだろうが!感謝しろ感謝!!」
「こんなんで本当に効くのかよ」
「俺たちには微塵も刺さらねーぞ」
(それが効くんだよなぁ…)
隣の席で騒ぐ男子学生たちを尻目に、私はスマホのトークアプリ画面に目を落とす。
そこには、“深刻な顔で、『言葉はいらない、ただ・・・連絡先登録するの、俺だけにしてくれ。行動で示して欲しいんだ』って来ててさー、もうそんなん消すしかないよねー。…ってわけでグループ抜けます!”と、いうメッセージが届いている。
返信をする気も起きず、電源ボタンを押す。
冷たい紅茶を啜る。
隣では相変わらず、男子学生たちがギャアギャアはしゃぎながら、お昼時のカフェを楽しんでいる。
(言い方や聞き心地の良さに惑わされずに内容をきちんと聞き取るスキルって、大切なスキルだよなあ…)
そんなことを思いながら、デザートのミニケーキをつつく。
言葉のいらないおひとり様カフェ。
気楽で良いものだ。
氷が、からり、と音を立てる。
紅茶の中でゆっくりと氷が溶けていく。
カフェの、穏やかな昼下がりは、ゆっくりと過ぎてゆく。
完全に休日だった。
今日は一日中、ダラダラと怠惰を貪っていた。
畳んだ布団を枕に、床に寝転んで。
余暇時間を贅沢に食い潰していた。
読破済の本を流し読みして、読み潰した漫画をなんとなく捲って、視聴済の動画を視聴して、たまに気を引くおすすめ動画があればそれを開く。
脳を使う気なんて微塵もなかった。
今日の用事は、数時間前に行った病院くらい。
微熱と軽い頭痛。それから軽い食あたり。
動けないほどではないけれど、動く気はしない。そんな体調不良。
一応、内科にかかって薬はもらって、後はもう何をする気もない。
布団にくるまって眠り込むやる気も深刻さもないけど、学校に行ける気はしない。
だから欠席連絡を入れて、とりあえず体力を使わずにゴロゴロすることにしたのだった。
ぐずぐすの体調管理の一日。ダメダメだけど、忙しい毎日にふと恋しくなるそんな一日。
今日はそういう日になるはずだった。
突然の君の訪問。
間の悪いことにそれは今日だった。
君は元気で強い人間。
誰よりも努力をして、誰よりもエネルギッシュで、誰よりも正しい、普通…いや、努力の才能に恵まれた人間。
君がインターホン越しに用件を告げた時、正直、気持ちが落ち込んだ。
君に何が分かるだろうか。
今日、ここで君と会って休みの理由を正直に話したとして、幻滅されてズル休みと見做されて、最悪、噂になって…そんなことになるのがオチだろって。
君は、学校でも人生でも一番の友達だった。
人としての出来は全然違うけど、君が眩しかったし、君に憧れていたし、ずっと仲の良い友達でいたかった。
だから、絶望した。
ここで友情は終わってしまうんだって。
今まで隠してきた、怠惰を極めた本性に呆れられて、疎遠になるんだって。
そんな葛藤を知ってか知らずか、君は家にやってきた。
とりあえず、迎え入れる。
麦茶を出す。
向かい側に座る。
くらくらする。
なんだか頭痛が痛い。酷くなってきた気がする。
緊張からか、心臓がすごく嫌な音を立てている。
君の顔をまともに見れない。
いつも通り、明るく笑って、君がプリントを差し出す。
夕日が窓から差し込んでいる。
君の次の言葉が怖い。
君が麦茶を一口含む。
喉を湿らせて、それから何か言おうとする。
顔を上げられない。
身体が熱い。
頭痛い。お腹も痛くなってきた気がする。
君が血相を変える。
慌てて向かいの席から立ち上がる。
目が霞む。
脂汗と冷や汗が止まらない。
瞼が重い。
君の慌てた顔が見える……
…
目が覚めた。
布団の上で、君が隣で声を掛けてくれた。
どうやら、緊張と行きすぎたネガティブ思考からか、あの後、倒れてしまったらしい。
上半身を起こす。
目に涙を浮かべ、大袈裟に喜ぶ君を見て、一抹の罪悪感と、胸いっぱいの安堵感が込み上げる。
…ああ、君はよくできた人間で、最高の友だ。……それに比べて僕ときたら……
複雑な気持ちから、ようやく君宛の言葉を絞り出す。
「…ありがとう。君が友達で良かった」
ズル休みスレスレで休んだ日の、突然の君の訪問。
…心臓に悪すぎる。
いつの間にか、外はだいぶ暗さを増していた。
次は_
平坦なアナウンスが響き渡る。
ガタタン、ゴトン ガタタン、ゴトン
眠気を誘う揺れが、特徴的な音と共に伝わる。
窓に背を向けて、リュックを抱える。
目の前にある、向かいの車窓には、絶えず雨粒が打ちつけて、ゆっくりと滴ってゆく。
外の天気のせいか、いつもより車内が少し暗いような気がする。
湿った匂いが鼻を抜ける。
_お出口は右側です
アナウンスが黙り込む。
雨が窓を叩いている。
傘、持ってない。
心細くなって、膝の上のリュックを抱きしめる。
昨日、自分の足でしっかり立って生きると決めたのに。
木綿豆腐ばりに強く固めたはずのメンタルは、ふやけた紙みたいになってしまった。こんな雨だけで。
いつかの雨の日、雨に濡れている人を見た。
目的地だけを見据えて、無心で歩く傘の群れの中に、その人はいた。
急がず、慌てず、傘も持たずに、空を見つめていた。
雨に降られているというよりも、雨に佇む。
その人は、ふとこちらを見て微笑んだ。
穏やかな、優しい、綺麗な笑みだった。
傘の中で疲れ切った私より、ずっと幸せで、楽しそうな顔だった。
憧れた。
雨に佇む人になりたいと思った。
それだけ強く、穏やかで、したたかな芯のある人間でいたいと思った。
いつか、雨に佇む人になるんだ、と決めた。
4日前、積み上げていたものが全て崩れたあの日、私はあの、雨に濡れて微笑む、穏やかなその人を思い出した。
雨に佇む人に憧れたのを思い出した。
だから私は行動した。
残った所持品をまとめて、背負って、電車に乗った。
自分の力で生きよう、自分の好きなところへ行こう。そう決意した。
だが、私はまだ雨に佇むには勇気が足りないみたいだ。
雨に濡れるのが怖い。
雨粒の冷たさも、雨雲の寒さも、周りの人の目も。
…それとも、一度佇んでみれば、こんな恐怖も感じなくなるんだろうか。
…リュックを抱きしめる。
今や私の唯一の味方の、私の物たちを。
ガタタン、ゴトン ガタタン、ゴトン
電車は進んでいく。
まもなく_
アナウンスが喋り出す。
雨はさっきよりも強く、車窓を打っていた。