「マジかぁ」
久しぶりに上がった隣家の2階で、思わず呟く。
自分の部屋が窓の外の向かいに見える机の前で、私はしばらく立ち尽くした。
机の上には、分厚い冊子が置かれている。
ちょっとした辞典のように立派な分厚い…。
…表紙には上段に「10年日記」下段に「私の日記帳」。
金で印刷された上段の読みにくい字に対して、下段の字は掠れた黒マジックのあの子の字。
私の部屋の真向かいにあるこの部屋にいた、私より少し年上のあの子は、魔法使いだった。
幼い頃から、あの子は私に魔法を見せてくれた。
千切れたぬいぐるみを治してくれた。
破れてよれよれの紙飛行機の羽をピンと伸ばしてくれた。
割ってしまったママのマグカップをこっそり直してくれた。
間違えて混ぜちゃった牛乳を、コーヒーから取り分けてくれた。
夕焼けの日に照らされながら彼女がステッキを振る。
魔法がかかる。
私がはしゃぐとあの子は嬉しそうに笑って、手を握ってくれた。
あの子の目は苺みたいに赤くて、白い肌と色の抜けた髪がショートケーキみたいに可愛かった。
その見た目の特異性のせいか、あの子と私が外で遊ぶことはなかった。
それでも、彼女の部屋で遊ぶのは、何より楽しかった。
お互いの窓から、紙コップと凧糸で作った電話線を張り巡らせた。
声を出したくない時は、お手紙を紙飛行機に折り変えて窓から飛ばした。
私たちはお互いがお互いに、一番の仲良しだった。
ある日からあの子の部屋に行けなくなった。
まもなくして、彼女は大勢の大人に囲まれて出ていった。
病院に行くらしかった。
自分の部屋に上がると、窓際の机に、紙飛行機が辿り着いていた。
あの子が部屋を去る時、最後に私に飛ばした紙飛行機らしかった。
紙飛行機にはあの子の字が踊っていた。
「もし私に会えなくなったら、私の日記帳をあげるから。私の日記帳には秘密があってね。全部読みきったら魔法が使えるよ!」
あの子とあの子の家族は、この街では馴染めていなかった。
そんなわけで、私は、彼女が死んで二週間も過ぎたこんな日に、あらゆるお節介な視界を掻い潜ってようやく、あの子の日記帳に辿り着いた。
辿り着いた結果がこれだ。
10年日記…!?
あの子が筆マメなのはよく知っていたけど、まさかここまでとは。
…私は文字を読むのが苦手だ。
ぎっしり並んだたくさんの文章を見るとどうしても目が滑る。頭に入ってこない。
あの子の手紙の字が踊っているように見えるのも、実のところは私が読みやすいように空白をたくさん開けているから、そう見えるのだった。
…だから正直、日記にはちょっとうんざりした。
私が魔法を使えるのはいつになるんだろうか…。
とりあえず私は日記帳を手に取った。
それをそっと持ち出した鞄に忍ばせる。
それからそうっと階段を降りる。
今日、私は引っ越す。
この街から、ママの田舎に帰るらしい。
きっと、これから私はもう二度と、あの子とあの子を知る人に会うことも、あの子に縁のある景色を見ることもないのだろう。
だからこの日記帳は大切にしよう。
大切なあの子の日記帳。あの子が書いた私のための、私の日記帳。
ぜったいに離すものか。
そうっと家路に着く。
あの子はあの大きな本の中に何を書いたのだろうか。
字を読むのは嫌いなはずなのに、日記帳を開く時が、なぜだか、とても楽しみだった。
これ以上、顔を上げることができなかった。
手元の、やたら背の高い洒落たグラスの中で、氷がからり、となった。
テーブルを挟んで向かい合わせに座った、あの人の顔を見ることはどうしてもできなかった。
「どうしたんだい?下ばかり見て」
いつものように世間話をするような、軽い声で、あの人は僕にそういった。
笑いさえ混じるような口ぶりで。
汗が頰を伝って落ちた。
今日は真夏のはずなのに、店内のクーラーがやけに肌寒く感じる。
「ねえ、どうしたんだい?」
あの人はいたぶるように続けた。
僕は顔を上げられなかった。
ずっとあの人のネクタイの結び目を見つめていた。
汗が滝のように、顔の輪郭を伝って滴り落ちる。
手汗がひどい。
あの人が軽く息を吸った。
何かを話すつもりだ。
そう思った時、僕の口は勝手に弱々しく言葉を絞り出していた。
「ごめんなさい…」
「なぜ謝るんだい?」
間髪を容れず、あの人は答えた。
芝居がかった疑問系で、弄ぶような口調だった。
直感的に僕は絶望する。
バレてる。僕がしたことは全てあの人にバレているんだ。
肩が震える。
服と肌の隙間を、冷や汗が滑り落ちる。
僕は、路上で生きてきた。
貧乏で貧乏で、教養も人間性も善悪も時間も、お金と食べ物に変えていかないと生きていけなかった僕の両親は、当然、まともな感性など持ち合わせていなかった。
両親の暮らしぶりが悪くなり、僕が大きくなって、同情による金銭的価値を提供できなくなった時、僕は路上に放り出された。
僕は、両親の背から習ったように、人間性を、善悪を、道徳を、実益に変えて、生きてきた。
殺し以外ならなんでもした。
今、向かい合わせに座る、あの人に会うまでは。
あの人は、僕にお金を渡した。
路上で生きてきた僕を、目にするといった。
身請け人として僕の生活を保証するから、その代わり、路上で起きていること、関わったもの全てを私に話せ、とあの人は言った。
全てに飢えていた僕はそれを了承した。
あの人が何をしているか、どんな立場なのかはわからない。
ただ一つ言えるのは、僕が報告したその日から、路上で暮らす過去の僕みたいな人々は少しずつ、少しずつ、減っていった。
あの人は僕に文化的な生活を与えた。
あの人は僕を学校に入れ、教育を施した。
僕は少しずつ、少しずつ、ものを知った。
自分が今までしていたこと、他人の気持ち、全ての人に生活と命があること…
僕は考える力を手に入れた。
僕は生活に意義を見出せるようになった。
あの人は、僕に善悪や道徳心や人間性を買い戻した。
僕は自分の生活について考えるようになった。
自分の人生について、自分の罪について、あの人について。
…僕が今していることについて。
昨日、僕は嘘をついた。
仕方なかった。
仕方なかったんだ!
昨日、路上でぶつかったはずみに僕のハンカチをくすねたあの子は、本当に小さい子だった。
小さくて、まだ幼くて、かわいそうな子だった。
…だから、僕は嘘をついた。
そんな子、いないって。
あの人は、僕の嘘に頷いた。
上手くやれたと思った。救えたと思った。
それが間違いだった。
今日の朝、朝食を取るためについたテーブルで、僕と向かい合わせに座ったあの人は、昨日と同じ柔らかな微笑で、一言、こう言った。
「話がある。外出の準備ができたらついてきなさい」
あの人は気づいたんだ。
僕が嘘をついたことに。あの人を裏切ったことに。
顔を上げられない。
怖い。
恥ずかしい。
無力だ。
仕方ない。
謝らなきゃ。
助けなきゃ。
嫌だ、僕だけでも助かりたい。
いろんな感情が混ざり合う。
昨夜まであんなに、自然と向かい合わせで笑えていたのに。話せていたのに。
…今は怖くて仕方ない。
冷房が寒い。
怖い。
いつもつけているあの人の赤いネクタイの、ネクタイピンが恐ろしく無機質に見える。
怖い。
膝が震える。
拳をキュッと握る。
僕はこれからどうすればいい?何が正解なのだろう。
あの人はあれから、何も言わない。
あの人の視線が突き刺さっている。
何も言わずにじっと僕を見つめている。
どうしよう。
どうしたらいいんだ。
周りのざわめきが、ひどくやかましく、遠く聞こえる。
窓の外の蝉の声が、うるさかった。
国語辞典を開く。
前の仕事でたまたま押収したものだ。
こんなにじっくりと本のページを繰るのは久しぶりだ。
タバコの煙を吸い込む。
クールの、爽やかなメンソールの味が鼻を抜けていく。
本をこんなにじっくり眺めるのは、幼馴染が生きていた時以来だ。
こんなにゆっくりとした一服の時間を持つのは、一人でフリーとして仕事をしていた頃以来だ。
俺は、路地裏とアンダーグラウンドを仕事場とし、棲家とするしがない何でも屋だ。
殺しと虐待以外なら比較的なんでもやってきた。
俺はこんな日陰者でありながら、非道になりきれずに、こうして暇さえあれば過去に入り浸る、弱っちい男だ。
逆に俺の相棒は、殺しと虐待にかけちゃ、一流だった。
奴はまともな感性を持っていなかった。
奴はどんな間柄の誰であろうと、ソイツの怯え嫌がる表情を見たがった。
こういうやつは、この世界じゃ長生きする。
奴は、俺が欲していた非道さと、俺が望んでいた図太さを兼ね揃えていた。
だから奴とタッグを組んで殺しを始めた時、満たされた気分になれた。
こんな意気地なしの俺でも、奴の手を借りれば、自分の使命を達成できるってな。
俺の仕事_使命は思ったより楽しいものではなかった。
奴は身勝手で、気分屋のクズで。
おまけに俺の苦悩も見たがった。
奴と過ごすのはそれなりに苦痛も伴った。
でも、奴と過ごした日々はまあそこそこ楽しかった。
奴と俺の間には、なんとも形容し難い、よくわからない信頼があった。
でも、何より奴といて良かった点は、奴と話している間は、タバコの爽やかな味を、忘れることができたことだ。
俺の脳の片隅でいつまでも燻り続ける、幼馴染が遺していった遺書とそこに染み付いたクールの煙の、やたら爽やかな香り。
奴といる間は、その炙られるような痛みが、一時だけ忘れられた。
幼馴染のアイツと本を眺めながら語り合ったあの過去を、忘れることができた。
それは俺にとって救いだった。
救いだったのに。
ある日、奴はフラッと消えた。
最初はいつものように気まぐれだろう、と思った。
どこぞの女か、虐め甲斐のある半グレにちょっかいかけにいったのかと。
奴がフラッといなくなるのも、よくあることだった。
だが奴はいつも生きて、いつの間にか帰ってきた。
ところが今回、奴はまだ帰ってきていなかった。
…奴の最後の依頼を片付けてから、もう一年になる。
後悔の痛みは、アイツとの過去は、奴と会えなくなった俺の脳をジリジリと焼いていった。
俺はまた、爽やかなメンソールの味に溺れるようになった。
なよった意気地なしの役立たずに戻った。
焼けた脳は、アイツとの思い出を繰り返し、焼き増した。
今日だって、ふとアイツと二人で、分厚い辞典を開いて、文通ごっこをしたあの遠い日を、思い出してしまった。
タバコを吸う。
爽やかなメンソールが、口と鼻を満たす。
ページを捲る。
【やるせない】
だいぶ読み進めて、重さの偏った手の中に、その言葉はあった。
初めて知った言葉だった。
初めて、心にしっくりと染み込む言葉だった。
【やるせない】、【やるせない気持ち】
俺は何度も口の中で反芻する。
タバコの煙がふわりふわりと宙を掻く。
俺が昔から今までずっと抱えているこの気持ちは、こんな名前だったのだ。
【やるせない気持ち】
言葉が脳の火傷に染みる。
痛みが増したような、それが快感のような変な感覚だ。
奴と話している時のような、アイツとの幸せな思い出を脳裏に上映している時のような。
「やるせない気持ち」
低くくぐもった俺の声が、耳に聞こえた。
タバコの先から火種がぽとり、と地面へ落ちた。
ようやく着いた。
ドアを開けて、砂浜に降り立つ。
懐かしい、濃い潮風が広がっている。
靴を脱いで、裸足で砂を踏む。
熱砂が、肌を焼く。
日の熱を蓄えた熱さが心地よい。
磯の香りは、ベタベタと鼻につく。
波の音が、鼓膜を安らかに柔らかく揺らす。
帰ってきた。
帰ってきたのだ、海へ。
砂浜を走り出す。
白波の立つ方へ。海へ。
足を海水が濡らす。
浅瀬の海は少し緑がかっていて、粗い砂が溶けていて、透明感のあるぬるい水に流された砂粒が、ザラザラと足に心地よい。
帰ってきたのだ。
どこまでもどこまでも広がる、この海へ。
足を進める。
進むたび、海水がどんどん満ちてくる。
足へ、くるぶしへ、足首へ、ふくらはぎへ、太ももへ。
腰へ、腹へ、胸へ、顎へ。
海へ、海へ、海へ。
身体はどんどん海水に満ちていく。
ようやく海へ着いたのだ。
これでこの渇きとも、この身体ともおさらばだ。
海。僕たちの故郷への道。
海。僕たちの生きる場所。
借りていた身体の口から滑り降りる。
海水の、ヒリヒリとした水が体を包む。気持ち良い。
僕は泳ぐ。
渇きを癒す。
自由を満喫する。
今日は満潮。
僕たちの故郷と、海が、一番近くなる日。
僕たちは、海を通じてこの星に降りてきて、この星のヒトに寄生して。
ヒトの脳で幼少期を過ごした。
大人になった僕たちは、今日、故郷に帰るのだ。
地球の海から、月の海へ。
育った故郷から、生まれた故郷へ。
故郷の海から、故郷の海へ。
塩のキツい海の水が心地よい。
波間から差し込んでくる、煌めく日差しが眩しい。
夜まではまだ時間がある。
それまでこの海を楽しもう。満喫しよう。
僕は潜る。
海へ、海の深いところへ。
ヒリヒリと体を撫でてゆく海水が心地良い。
海は変わらない。
変わらずに穏やかで心地良い。
波が、僕の体をいつも、いつまでも、優しく揺すっていた。
前の人、ポケットが裏返しだ。
食券機の前で財布片手に、にらめっこしている人のジーパンのポケットは、裏地の白をあらわにしている。
らーめん。
日本の、今の時代のラーメンは美味しいらしい。
インスタント麺はよく食べていた。気軽に作れるし、電気ポットがあれば火を使わなくてもできるから。
それに日持ちするし、あんまりお金もかからない。
小学生の時の夕ご飯には、よくインスタントラーメンを食べたものだった。
うちは贅沢するような余裕はなかったし、私もママのためになるべくお家にいたかったから、お店に食べに行くラーメンには縁がなかった…というのを、師匠の家にお邪魔した時に言ったことがあった。
「もったいない!いつか食べに行こう!」
あの時、師匠と私の親友であり相棒の彼女は、口を揃えてこう言った。
あれから何ヶ月が経っただろうか。
今、私は一人でラーメン屋の列に並んでいる。
私の相棒は、未来から来たと言った。
彼女はある日、急にいなくなってしまった。
平和になったいつものある日、学校から帰ってきたら、彼女はもういなかった。
部屋の鍵が開いていて、彼女のただいまはいつまで経っても聞こえなかった。
探しようがなかった。だって彼女は未来人なんだもの。
警察も探偵も、役には立たない。
存在が立証できない存在なんだもの。
師匠にも相談した。
その師匠から来ていた連絡が途絶えて、今日で一週間。
きっと今は忙しいのだと思う。師匠は雑で、忙しくなると周りが見えなくなる人だから。
親友で、相棒で、家族だった彼女がいなくなって、見つからないまま今日が来た。
今日は3人でラーメンを食べに行く約束の日だった。
でも、2人とも帰ってこなかった。
だから私は、今、ラーメン屋の前に一人で並んでいる。
餃子、食べたいなあ…でもラーメンも食べるのに、一人で食べ切れるのかなあ……
前の人のポケットの裏地を見ながら、そんなことを考える。考えながら、ちょっと泣けてくる。
何ヶ月前かに決まった時、今日は満たされた楽しい一日になるはずだったのに。
思い出も感情も記憶も、何もかも裏返したみたいだ。
スカスカで悲しい。
ラーメンの美味しそうな匂いが、目に沁みた。