薄墨

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国語辞典を開く。
前の仕事でたまたま押収したものだ。
こんなにじっくりと本のページを繰るのは久しぶりだ。

タバコの煙を吸い込む。
クールの、爽やかなメンソールの味が鼻を抜けていく。

本をこんなにじっくり眺めるのは、幼馴染が生きていた時以来だ。
こんなにゆっくりとした一服の時間を持つのは、一人でフリーとして仕事をしていた頃以来だ。

俺は、路地裏とアンダーグラウンドを仕事場とし、棲家とするしがない何でも屋だ。
殺しと虐待以外なら比較的なんでもやってきた。
俺はこんな日陰者でありながら、非道になりきれずに、こうして暇さえあれば過去に入り浸る、弱っちい男だ。

逆に俺の相棒は、殺しと虐待にかけちゃ、一流だった。
奴はまともな感性を持っていなかった。
奴はどんな間柄の誰であろうと、ソイツの怯え嫌がる表情を見たがった。
こういうやつは、この世界じゃ長生きする。
奴は、俺が欲していた非道さと、俺が望んでいた図太さを兼ね揃えていた。

だから奴とタッグを組んで殺しを始めた時、満たされた気分になれた。
こんな意気地なしの俺でも、奴の手を借りれば、自分の使命を達成できるってな。

俺の仕事_使命は思ったより楽しいものではなかった。
奴は身勝手で、気分屋のクズで。
おまけに俺の苦悩も見たがった。

奴と過ごすのはそれなりに苦痛も伴った。
でも、奴と過ごした日々はまあそこそこ楽しかった。
奴と俺の間には、なんとも形容し難い、よくわからない信頼があった。

でも、何より奴といて良かった点は、奴と話している間は、タバコの爽やかな味を、忘れることができたことだ。
俺の脳の片隅でいつまでも燻り続ける、幼馴染が遺していった遺書とそこに染み付いたクールの煙の、やたら爽やかな香り。
奴といる間は、その炙られるような痛みが、一時だけ忘れられた。
幼馴染のアイツと本を眺めながら語り合ったあの過去を、忘れることができた。

それは俺にとって救いだった。
救いだったのに。

ある日、奴はフラッと消えた。
最初はいつものように気まぐれだろう、と思った。
どこぞの女か、虐め甲斐のある半グレにちょっかいかけにいったのかと。
奴がフラッといなくなるのも、よくあることだった。
だが奴はいつも生きて、いつの間にか帰ってきた。

ところが今回、奴はまだ帰ってきていなかった。
…奴の最後の依頼を片付けてから、もう一年になる。

後悔の痛みは、アイツとの過去は、奴と会えなくなった俺の脳をジリジリと焼いていった。
俺はまた、爽やかなメンソールの味に溺れるようになった。
なよった意気地なしの役立たずに戻った。

焼けた脳は、アイツとの思い出を繰り返し、焼き増した。
今日だって、ふとアイツと二人で、分厚い辞典を開いて、文通ごっこをしたあの遠い日を、思い出してしまった。

タバコを吸う。
爽やかなメンソールが、口と鼻を満たす。
ページを捲る。

【やるせない】
だいぶ読み進めて、重さの偏った手の中に、その言葉はあった。
初めて知った言葉だった。
初めて、心にしっくりと染み込む言葉だった。

【やるせない】、【やるせない気持ち】
俺は何度も口の中で反芻する。
タバコの煙がふわりふわりと宙を掻く。

俺が昔から今までずっと抱えているこの気持ちは、こんな名前だったのだ。

【やるせない気持ち】
言葉が脳の火傷に染みる。
痛みが増したような、それが快感のような変な感覚だ。
奴と話している時のような、アイツとの幸せな思い出を脳裏に上映している時のような。

「やるせない気持ち」
低くくぐもった俺の声が、耳に聞こえた。
タバコの先から火種がぽとり、と地面へ落ちた。

8/24/2024, 2:22:19 PM