足元の小石をスニーカーが蹴飛ばす。
ピーーヨロー
尾を引く美しい鳴き声が、空の上から聞こえる。
鳶色の大きな羽を広げた鳥が、空を堂々と旋回している。
思わず、空を見上げる。
鳥は私の背が届く空よりも、何倍も高くて深い空を飛んでいる。
ピーーヨロー
鳥がもう一度鳴く。
澄んだ鳥の声が、澄んだ空に響き渡る。
空気を吸い込み、声を出そうと思う。
あの鳥のように、澄んだ声を、喉の奥から。
一声を叫ぼうとした喉は、引き攣る。
息が詰まる。
喉が痛い。
痛みと息苦しさに、思わず咳き込んだ。
うずくまる。道の端に。
咳が出る。
私は歌うのが好きだった。
私は曲を作るのが好きだった。
私は音を楽しむのが好きだった。
声が出なくても、私は音を楽しみたかったから。
いつまでも歌っていたくて、みんなに黙って都会に出た。
都会にはなんでもあった。
そこで私は今の私になった。
シンセと私が融合した今の私に。
私と一緒に歌いたいと言ってくれた人がいた。
私と一緒に踊りたいと言ってくれた人がいた。
私の曲が欲しいと言ってくれた人がいた。
ステージは私の空だった。
メロディも私の空だった。
音楽と歓声が混ざる空を、グループのみんなと自由に飛び回るのは、とても気持ちが良かった。
最高だった。
私は分かっていなかった。
空はいつか荒れること。
空にはいつか雨が降り、雷が落ちて、鳥には飛べなくなるということ。
ある日、メンバーの一人が無断欠勤をした。
それから、彼女は私たちのところへ帰って来なくなった。
私は仕事が全てだった。
音楽が楽しくて、パフォーマンスが楽しくて、それを共有して一緒に楽しむメンバーのみんなは、かけがえのない友達だと思っていた。
私たちが鳥を冠するアイドルグループであることが、何よりの友情の証だと思っていた。
でも、みんなはそうは思っていなかったみたい。
私が飛んでいた空は呆気なく崩れ去った。
みんなで飛べる空はもうなかった。
私たちのグループの風切り羽は、私たちのばらばらな手と、周りの大人の事情たちの手で、切り取られてしまった。
歌えなくなったのはその日から。
私が歌えなくなったのは。
シンセも喉の調子も少しも悪くないはずなのに。
メンテナンスの機会も増えて、この体も前よりずっと本調子なのに。
私の声はもう出ない。
もう都会にいる意味はなかった。
私は、都会で貯めたお金を持って、もう身寄りもいないこの島へ戻ってきた。
この田舎に。
もしも願いが叶うなら。
私は鳥のように歌いたい。
美しくはっきりと澄んだ声を響かせる、あの鳥のように。
私は鳥のように飛びたい。
かつて私の空だったあのステージで。
あの鳥のように自由に、涼しげに。
ピーーヨロー
鳥の声があたりに響く。
今日の空は青々と眩しかった。
朝ごはんを食べる。
見た目を整え、寝床を掃除し、辺りを確認してから、外に出る。
奴を見守るために。
茂みの中を進む。
奥へ、奥へ。
奴の住む湖を目指して。
奴が守る、湖を目指して。
我は、その昔、湖を守る蛟だった。
湖と、空と、湖の街を守るのが、かつての私の仕事だった。
土地を見守るのが、我ら土地神の勤め。
土地にできた街を慈しむのが、我ら守神の勤め。
たとえその土地の水が枯れて、戦争に巻き込まれて、ほぼ滅びた同然だったとしても、そこに住む住人が一人でもいるならば、我はそれを慈しむ。
ここに住んでいた住人は、かつて街で育った若者によって、立ち退きを依頼された。
かつての街は、夢を追って街を出た若者によって、滅びた。
久しぶりに街へ現れたその人は、人の命を守ろうとする、清濁を飲み込んだ強い大人に成長していた。
気持ちは痛いほど分かった。
外敵に屠られるくらいなら、いっそ自分の手で。
住む人々を侵略の欲に晒すくらいなら、いっそ脱出を。
街の人々は、痛いほどのその気持ちを汲んで、この街を去ることを決めた。
我も、奴らにさよならを言う覚悟を決めた。
だから、奴らの行動は青天の霹靂だった。
奴らはさよならを言う前に、社を立て始めたのだ。
枯れた湖の望める山中の平地に、我の社を。
さよならを言う前に。
奴らはこう言った。
“私たちの街の蛟の神様、青空を孕んだイルカの蛟様、どうかこの土地を見守ってください。それから、私たちのために辛い選択を迫られたあの子を、どうか、どうか最後まで守ってやってください”
矮小な人間らしい、愚かな戯けごとだ。
貴様らに言われなくとも、この地脈で生きる私はここから離れられぬ。どうなろうと土地を見守るつもりであったわ。
…だが、奴らの行動に、我の内側からどうしようもなく熱いものが込み上げてきたのも、また事実だった。
我は今も、社に住んでいる。
我は今も、変わり果てた湖の街へ通っている。
我の偶像と共に、一人でこの地を見守る、奴の顔を見に。
人間とは、なんとも理解し難く、哀れな生き物なのだろう。
我の偶像を眺めながら、空を観る奴を見るたびに、我は言いようのない切なさと温かさに襲われる。
今日も奴は生きているだろうか。
空をヒレで打つ。
我は急いでいた。奴の顔を見るために。
今日の空は、濁って荒れていた。
水色の背景に、白い綿雲。
空模様のイルカのキーホルダーが、目の前で揺れている。
つまみ上げたイルカのキーホルダーは、ふらふらと揺れる。
金具の繋ぎ目についた、錆びついた鈴がしゃらしゃらと鳴る。
窓からは、一面、ぐずついた空模様が見える。
鳩が、ゲージの中でくるっぽー、と鳴く。
この家は、空と湖との真ん中を貫くように建っていた。
尤も、その湖というのは枯れてしまっていて、今はただひび割れた地面を、僅かばかりの湧き出した水が湿らす程度だった。
この空模様のイルカは、ここの象徴だった。
ここは長い間、水上都市だった。
積み木のような家が、水面が上がるたびにぽこぽこと建って、人も物も、小舟で空の下を自由に動き回った。
舟から見上げると、遮るもののない空が一面に見えた。
ここは美しい街だった。
今はもう、私しかいない。
イルカのお腹の綿雲は、くっきりと真っ白だ。
ここは美しい街だった。
と、同時に、ここは戦略的に重要な都市でもあった。
山中の窪みの中に、湧き水や地下水によって奇跡的に作られたこの孤立した土地は、争いを好まず、知らなかった。
だから、破壊するのは簡単だった。
水を枯らすのも、不安定に高い家を崩すのも、舟を動かなくさせるのも。
ここは、山中を行軍する者には、都合の良い中継地であり、補給地だった。
だからこそ。
だから尚更、敵の手に落とす訳にはいかなかった。
湖を枯らし、住民たちを追い出した。
主要施設を取り壊し、街の人々に立ち退くよう懇願した。
人々は、瞳の奥に戸惑いや悲しみを過らせながらも、私の手を握って、昔のように笑いかけ、街を去って行った。
私に、頑張れ、と言い置いて。
私はこの街の出身だった。
長い時間をかけて、国際情勢は徐々に落ち着きを取り戻していった。
この街の跡地も、戦場となったり、廃墟となったりと変遷を繰り返し、国境に敵が覗めなくなった時期に、静寂を取り戻した。
今は、私一人が、ありとあらゆる通信機器や連絡手段と最低限の武装と共に、見張り兵としてこの家に住み続けている。
窓の外は雨が降り始めた。
雷の音がどこか遠くで聞こえた。
ここから都市へ出るときから、ずっと肌身離さず持っているイルカのキーホルダーを揺らす。
激しい雨音の中、晴天を孕んだイルカのキーホルダーが、しゃらしゃらと鳴った。
「これが…私?!」
我ながら月並みで、捻りのない言葉が漏れた。
これで鏡を覗く場所が、学校の同級生の持つ手鏡か、おしゃれな三面鏡か、美容室の一角だったなら、素敵なワンシーンであったろう。
だが、私が居るのは水垢の香りが漂う、狭い洗面所の、曇った鏡の前である。
ところどころがひび割れた鏡は、それでも、ここの所の生活では、貴重な道具だ。
数週間前に、この建物は崩壊した。
私の職場であったこのエネルギー生成施設は、たった一つのヒューマンエラーによって、冷却機能を失い、一夜にして崩壊し、閉鎖された。
原料を覆う炉の金属は溶け、生物はじわじわと焼け腐り、植物は吸い上げた土から枯れていった…らしい。
この数日間で、施設の至る所を調査しまわった結果、そういう推測ができた。
そう、実は私はこの一部始終を全く知らなかったのだ。
もう何日目かも分からない連勤の果て、疲れを癒すためにちょっと睡眠をとったら、いつの間にか施設が変わり果てていたのだ。
…どうやら、自分が思った以上に、この身体と脳には疲れが溜まっていたらしい。
途方に暮れた私は、とりあえず自身の好奇心に則り、辺りを調査して把握し、この施設が清潔で安全な地獄から、汚染された危険な地獄へと変貌したということを理解した…ところで、ようやく自分の健康状態の異常に気づいた。
といっても、何か問題があるわけではない。
健康すぎるのだ。
私の記憶と計算が正しければ、こんな所に取り残されたなら、生きながらに細胞が死滅して、今頃死んだ方がマシなほどの苦痛を味わっているはずなのに。
気づけば、数日間水も食料も取らずに歩き回っておきながら、身体の汚染や不調はおろか、空腹や喉の渇きすら感じない。
遅ればせながら、私の身体は一体どうしてしまったのだろう、と鏡を探し当てて覗き込んだ結果が、あのベタベタな独り言である。
だが、この見た目は…
我が身体ながら見れたものではない。
鏡の中の私は、四肢の先ばかりが肥大化し、痩せばった腕脚に関節ばかりが球体のように目立つ。
おまけに、ボコボコと水膨れた腫瘍のような突起がズラリと並んでいた。
顔はもっと見られない。
落ち窪んだ目に鳥類のソレに似た、瞬膜のような厚ぼったい膜が張られており。
口や鼻は見当たらなかった。
耳だけが異様に大きく目立つ。
一体どうしたことだろう。
この施設の研究者一の美人(自称)と謳われたこの私の美貌が見る影もないではないか!
しかし、この変化は興味深い。
失った代償は大きいものの、この変異が私の命を守り、超耐性を授けてくれた秘訣であろうから。
これは研究課題ができた。
救助はもはや期待できまい。
この施設に人間や機械や生き物が侵入するのはもはや行きすぎた自殺行為だし、何よりヒトに会えたとて、この見た目では駆除されるのがオチだ。
つまり時間はたっぷりある。
ならば、やる事は決まりだ。
実験と研究を繰り返す!この変異を必ずや解き明かす!
肥大化した爪で床にメモを取る。
高音で表面が柔らかく変異したコンクリートは、難なく数式と文字を刻印してみせた。
素晴らしい!あとで推敲してから冷やし固めよう。
冷却システムを修正し、冷却水を供給すれば、書いた文字の保存も可能だ。
私は這いつくばって、メモを書き始めた。
鏡だけが、怪物となった私を映し出していた。
頭が重い。
捨てそびれたゴミ袋が、真っ先に目につく。
布団の中からスマホを引き寄せて、SNSを起動する。
テキトーにリテラシーの範囲内で、コメントを投稿してから、布団の中で寝返りを打つ。
今日の配信予定時間はあと二時間後だ。
まだ眠れる。
赤らんだ日を遮光するカーテンを眺めながら、そう思う。
積み重なったプラスチックの空容器と、丸めて捨てられたティッシュ。
ぐちゃぐちゃに重ねた雑誌の雪崩と、乱立する空っぽのペットボトルの間に、錠剤のゴミがぐしゃぐしゃに握りつぶされて落ちている。
足の踏み場もない狭い部屋に、すっきりと片付いた一角がある。
配信器具とカメラとマイク、それから編集用のパソコン。配信用のものを固めた、配信テーブルだ。
手元カメラの画角に入るそこだけは、きちんと片付けている。
手元のスマホの画面を見やる。
さっきのコメントに対して、さっそく返信が流れている。
取るに足らない喧嘩、誰でも書けそうな薄っぺらい一文、面倒で自己中な絡み、本人以外には全く面白さが分からない怪文書…
見るだけですえた匂いが漂いそうなコメントが、今日もネットの中を漂っている。
足首が痒い気がする。
そういえば、この布団を最後に洗ったのはいつだっただろうか。
最後に布団をあげたのはいつだったろうか。
エゴと欲でゴミ屋敷のようなSNSを閉じて、飲食店の配達アプリを立ち上げる。
閉店までに夕食を注文しておかなくては。
最近は、あんなに好きで、頼りになる存在だったはずの実家の両親からの連絡ですら、鬱陶しい。
まだかろうじて細々と縁が続いている彼氏や、学生時代あんなに一緒にいた同級生も鬱陶しい。
自分の今の生活がどうしようもなくダメな事は分かってる。
昼夜逆転、人間不信、不健康な生活、ネットびたりで区切りなしの虚の毎日…
それでも。
それでも私は、この世界を捨てられなかった。
同級生の半数が子持ちになったとSNSで気づいたあの夜も。
両親が連絡を取るたびに私を怒鳴るようになったあの夜も。
私は捨てられなかった。
布団から這い出して、パソコンの前に座る。
動画サイトを立ち上げる。
たくさんのコメント。たくさんの登録者。たくさんのいいね。
SNSを立ち上げる。
たくさんのコメント。たくさんのフォロワー。たくさんのファンアート。
だるい絡みがほとんどだけど、体にも心にも毒だけど、それでも。
それでも私はこの生活を、この世界を捨てられなかった。
スマホを横に置いて、夕飯を注文しながら、パソコンに届いているメールとコメントに目を通す。
薄暗く閉め切った部屋に、画面の光が目に眩しい。
ブルーライトを体に浴びる。
日光浴より毒々しく、でも私が一番欲している光。
これが私のいつまでも捨てられないもの。
今までもこれからも、いつまでも捨てられないもの。
正しさも、真っ当さも、幸せも、人間性すらも捨て去った私の人生の中で、ただ一つ捨てられないもの。
無機質な白い光が、顔を照らす。
カーテンの向こう側には、夜の帳が下りていた。