薄墨

Open App

朝ごはんを食べる。
見た目を整え、寝床を掃除し、辺りを確認してから、外に出る。

奴を見守るために。

茂みの中を進む。
奥へ、奥へ。
奴の住む湖を目指して。

奴が守る、湖を目指して。

我は、その昔、湖を守る蛟だった。
湖と、空と、湖の街を守るのが、かつての私の仕事だった。

土地を見守るのが、我ら土地神の勤め。
土地にできた街を慈しむのが、我ら守神の勤め。
たとえその土地の水が枯れて、戦争に巻き込まれて、ほぼ滅びた同然だったとしても、そこに住む住人が一人でもいるならば、我はそれを慈しむ。

ここに住んでいた住人は、かつて街で育った若者によって、立ち退きを依頼された。
かつての街は、夢を追って街を出た若者によって、滅びた。
久しぶりに街へ現れたその人は、人の命を守ろうとする、清濁を飲み込んだ強い大人に成長していた。

気持ちは痛いほど分かった。
外敵に屠られるくらいなら、いっそ自分の手で。
住む人々を侵略の欲に晒すくらいなら、いっそ脱出を。

街の人々は、痛いほどのその気持ちを汲んで、この街を去ることを決めた。

我も、奴らにさよならを言う覚悟を決めた。

だから、奴らの行動は青天の霹靂だった。

奴らはさよならを言う前に、社を立て始めたのだ。
枯れた湖の望める山中の平地に、我の社を。

さよならを言う前に。
奴らはこう言った。
“私たちの街の蛟の神様、青空を孕んだイルカの蛟様、どうかこの土地を見守ってください。それから、私たちのために辛い選択を迫られたあの子を、どうか、どうか最後まで守ってやってください”

矮小な人間らしい、愚かな戯けごとだ。
貴様らに言われなくとも、この地脈で生きる私はここから離れられぬ。どうなろうと土地を見守るつもりであったわ。
…だが、奴らの行動に、我の内側からどうしようもなく熱いものが込み上げてきたのも、また事実だった。

我は今も、社に住んでいる。
我は今も、変わり果てた湖の街へ通っている。
我の偶像と共に、一人でこの地を見守る、奴の顔を見に。

人間とは、なんとも理解し難く、哀れな生き物なのだろう。
我の偶像を眺めながら、空を観る奴を見るたびに、我は言いようのない切なさと温かさに襲われる。

今日も奴は生きているだろうか。

空をヒレで打つ。
我は急いでいた。奴の顔を見るために。
今日の空は、濁って荒れていた。

8/20/2024, 2:23:23 PM