薄墨

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「これが…私?!」
我ながら月並みで、捻りのない言葉が漏れた。

これで鏡を覗く場所が、学校の同級生の持つ手鏡か、おしゃれな三面鏡か、美容室の一角だったなら、素敵なワンシーンであったろう。
だが、私が居るのは水垢の香りが漂う、狭い洗面所の、曇った鏡の前である。
ところどころがひび割れた鏡は、それでも、ここの所の生活では、貴重な道具だ。

数週間前に、この建物は崩壊した。
私の職場であったこのエネルギー生成施設は、たった一つのヒューマンエラーによって、冷却機能を失い、一夜にして崩壊し、閉鎖された。

原料を覆う炉の金属は溶け、生物はじわじわと焼け腐り、植物は吸い上げた土から枯れていった…らしい。

この数日間で、施設の至る所を調査しまわった結果、そういう推測ができた。

そう、実は私はこの一部始終を全く知らなかったのだ。
もう何日目かも分からない連勤の果て、疲れを癒すためにちょっと睡眠をとったら、いつの間にか施設が変わり果てていたのだ。

…どうやら、自分が思った以上に、この身体と脳には疲れが溜まっていたらしい。

途方に暮れた私は、とりあえず自身の好奇心に則り、辺りを調査して把握し、この施設が清潔で安全な地獄から、汚染された危険な地獄へと変貌したということを理解した…ところで、ようやく自分の健康状態の異常に気づいた。

といっても、何か問題があるわけではない。
健康すぎるのだ。

私の記憶と計算が正しければ、こんな所に取り残されたなら、生きながらに細胞が死滅して、今頃死んだ方がマシなほどの苦痛を味わっているはずなのに。
気づけば、数日間水も食料も取らずに歩き回っておきながら、身体の汚染や不調はおろか、空腹や喉の渇きすら感じない。

遅ればせながら、私の身体は一体どうしてしまったのだろう、と鏡を探し当てて覗き込んだ結果が、あのベタベタな独り言である。

だが、この見た目は…
我が身体ながら見れたものではない。

鏡の中の私は、四肢の先ばかりが肥大化し、痩せばった腕脚に関節ばかりが球体のように目立つ。
おまけに、ボコボコと水膨れた腫瘍のような突起がズラリと並んでいた。

顔はもっと見られない。
落ち窪んだ目に鳥類のソレに似た、瞬膜のような厚ぼったい膜が張られており。
口や鼻は見当たらなかった。
耳だけが異様に大きく目立つ。

一体どうしたことだろう。
この施設の研究者一の美人(自称)と謳われたこの私の美貌が見る影もないではないか!

しかし、この変化は興味深い。
失った代償は大きいものの、この変異が私の命を守り、超耐性を授けてくれた秘訣であろうから。

これは研究課題ができた。

救助はもはや期待できまい。
この施設に人間や機械や生き物が侵入するのはもはや行きすぎた自殺行為だし、何よりヒトに会えたとて、この見た目では駆除されるのがオチだ。

つまり時間はたっぷりある。
ならば、やる事は決まりだ。
実験と研究を繰り返す!この変異を必ずや解き明かす!

肥大化した爪で床にメモを取る。
高音で表面が柔らかく変異したコンクリートは、難なく数式と文字を刻印してみせた。

素晴らしい!あとで推敲してから冷やし固めよう。
冷却システムを修正し、冷却水を供給すれば、書いた文字の保存も可能だ。

私は這いつくばって、メモを書き始めた。
鏡だけが、怪物となった私を映し出していた。

8/18/2024, 2:13:18 PM