薄墨

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「…マスタァ、香水の瓶って捨てるの結構手間かかるんスね」
カウンター席の向こうに置かれたグラスと、“JIN”とラベルのある、透明な液体の入った瓶を引き寄せながら、俺は言った。

「…アルコールを分解するにはまだ早過ぎますよね。お子様は大人しく、ノンアルコール飲料をどうぞ」
マスターは、忌々しくも鮮やかな手つきで、俺の左手のグラスを器用に取り上げ、冷蔵庫から水蒸気の立ちのぼる、ほっそりとした瓶を取り出した。
流れるように栓抜きで口を開け、グラスに注ぐ。

俺の感情とは裏腹に、俺の口内は脊髄反射で唾を飲み、俺の右手は瓶をカウンターの向こうに差し出す。
差し出すついでに微かな抵抗を試みる。
「でもマスタァ、俺はもう酒分解できるくれえの生い立ちしてると思わねえの?」

「そんなことで未成年が飲酒できるなら、私に相談に来る知り合いの大半は、二十になる前に飲めるってことになっちまいますがぁね」
マスターはにやりと笑って、優美にグラスを差し出した。

受け取って、一口飲む。
弾けるような二酸化炭素の刺激と、ジンジャーの辛くて甘い抜けるような味が、口内に広がる。

「で、お姉さんの香水、まだ捨てられてないんですねえ。あんな啖呵切ってた割には」
白い布でグラスを磨きながら、マスターは言う。
「…そうっスねぇ。捨てれねぇの」
ジンジャーエールのぱちぱちの刺激に目を瞑りながら、俺はため息混じりにマスターに返す。

「…もういっそのこと、落として割ってしまったらどうです?」
マスターは何気ない風で付け足した。
「あの時、あなたが言ったことは正しいんですから。『過ごした時間が長いとか、ポリシーとか立場とか、そんな綺麗事でなんもしてくれない輩よりも、どんなに知り合った期間が短くても、何処の馬の骨か知らなくても、悪人だったとしても、建前だとしても、自分に対して親切にしてくれて、有益なことやものを渡してくれる奴の方が好きになるに決まってる!』…だったか。それは正しい、世の真理です。あの時は感心しましたよ。生後5年のホムンクルスが言ったとはとても思えませんでしたから」

俺は、返す言葉を探す間を埋めるために、またちびりとジンジャーエールを口に含んだ。

俺は一ヶ月前に、たまたま迷い込んだマスターと、たまたま居合わせた数人の人に助けてもらった。
俺たちは、俺たちの家_研究所の実験台からこの世界に連れ出してもらった。
それまでは、俺も姉さんも、実験漬けの毎日だった。
母さんに忠実だった姉さんは、家を家族の絆を守ることにずっと固執していた。
…だから縁を切ることにした。俺は、俺じゃない過去の誰かを見るような目で、俺と姉さんに苦痛を強いるこの家が、好きじゃなかったからだ。

姉さんと母さんは、不思議な香りをいつも仄かに纏っていた。
姉さんに言わせると、それは母さんに貰った信頼の証で、俺たちへの愛情らしかった。
母さんに言わせると、その香りはまじないで、バケモノに襲われないためのお守りらしかった。
そして、俺たちの家にはずっと香っていた匂いだった。

その香水は、紆余曲折を経て、俺の手元にあった。
_正確には、俺の部屋に、俺の新しい家のタンスの中にあった。

俺は、過去の象徴を未だに捨てられずにいた。
何故だかは分からないけど。
俺の脳は、感情は、捨てろと言うのに、俺の脊髄は、その意見をずっと否定していた。

いや、俺のそんな言葉は建前で、本当は、俺は捨てたくないのかもしれない。
香水も、母さんも、姉さんも、研究所であったことも。

「…落とした方がめんどくせぇじゃん。捨てんの」
今日だってそうだ。
今日だって俺は、自分でも苦しいと分かる言い訳を呟く。

「…まあ、それもそうですよねぇ」
そして、それを指摘しないマスターの優しさに、まだ甘えている。

…マスターの言う通り、俺はまだまだお子様なのかもしれない。
過去に縋り続ける、お子様。

ジンジャーエールを口に含む。
ジンジャーの爽やかな甘辛さが、鼻を刺して抜けていった。

8/30/2024, 1:55:26 PM