手を握る。
人肌の、温かい脈が、掌の中に伝わる。
その温かみとは裏腹に、私の肝は冷ややかに冷えている。
油断するな。今から我々が手を取り合って戦うのは、生身の人間たちだ。
そう心に言い聞かせる。
我々は、生まれながらの生体兵器。
研究室で人の手で産み出された我々は、遠い昔の長い戦争の隙をついて人の支配下から逃げ出し、独自に生体兵器たちの住む世界を作り上げた。
平和を求めた昔の生物兵器たちは、自分たちの文化を立ち上げた。
独自に生殖機能を持つ兵器たちが生き残り、子孫を残し…こうして500年もの間、我々は人間とも、人工知能とも、獣とも、昆虫とも距離を取り、平和に暮らしてきた。
そして今、我々は500年ぶりに、生身の命の手を取ったのだ。
とはいえ、個体個体の能力と戦闘能力に力を割いたために短命な我々だ。500年も生きる個体は絶対にいない。
従って、正確には、我々は初めて人間と手を取り合ったのだが。
しかし、命の温みは、思ったよりずっと柔らかい。
温かく、柔らかく、脆い。
しかしこの手が私たちを創り上げ、何千年も何万年も、様々な生物や同類を滅ぼしながら、世界を支配し続けた、冷血残酷な人間たちの手なのだ。
表向きは手を取り合って、何れ手を斬り合って、生き延び、君臨し続けてきた、人間という種族の手なのだ。
だからこの手の温みを信用してはならない。
手を取り合うという行為は、何を保証するものでもないと、心に刻みつけねば。
我々と人間が手を取り合って生きるのは、脅威を増して迫り来る、侵略獣と昆虫たちを討ち倒すまでなのだから。
我々はもともと人間に産み出され、繁殖されていた身。
だから人間が生きられない環境では、我々も繁栄するのは難しいのだ。
我々は手を取り合って生きなくてはならない。
たとえどれほど人間を恨んでいても。たとえどれほど裏切りの可能性があろうとも。
この世界で、我々と奴らは一蓮托生なのだから。
温かい命の手を優しく握り返す。
彼らの手を握り潰さぬよう。
薄黒い雲が、薄く空を覆っていた。
アレと一緒にされたくない。
再び、この世界に戻って来たのは、その気持ちがあったからだった。
私は世界を救った。
自分の世界から弾き出された先で、その世界を救った。
危険な旅を続け、王の駒として過酷な戦いを勝ち抜き、世界の脅威を討ち倒して、伝説通りの英雄になった。
けれど、それだけで隠居すれば、それはアレ達と一緒だった。
自分の代で成績だけ残して、後は前触れもなく静かに去っていった私の同級生たち。
もう二度と現れず、会うことも叶わなかった先輩たち。
十代の部活の大会をピークだと思って怒鳴り焚き付けて、その先のことなど一切考えない指導者たち。
ここで、この大戦での英雄となって、歴史に残っただけで消えてしまうのは、ソレたちと同じ、短絡的な計画に見えた。
だから私は残ることにした。
ここが本当の平和な時代を手に入れるまで。
異世界の召喚者に頼らざるを得なかった、この世界の人類が、自分の力で、英雄を生み出せるように。
平和な世界に英雄はいらない。
きっと支配層の王族などからすれば、私はとても厄介な存在だろう。
それでも私は、何かを繋げたかった。
勝ち抜いただけで終わる、短絡的で自分勝手な幕引きを自分に対して許せなかった。
どんなに過酷な道でも、元の世界にいたアレたちとは違う道を歩んで、後続の誰かが少しでも生きやすい環境に繋げたかった。
分かっている。
これは私の優越感と劣等感のための、自己満足だってことを。
私をミソッカス扱いしていたアレたちへの、劣等感。
憧れで、でもどうしようもなく憎いアレたちより責任感を持っているという、優越感。
それらのバランスを取り、手綱を引くために私はこの世界にとどまって、茨の道を行くのだと。
でも、その優越感と劣等感だけが、私のモチベーションで、心の支えで、私の倫理観と理性の支柱だから。
学校でも部活でも家庭でも。
居場所がないと思い込んで、通学路をずっと歩き回っていて、トラックに跳ねられた、冴えない私の、最期の強い気持ちだったから。
だから私は、優越感と劣等感を胸に、今日も剣を握り、土を踏み締める。
一番鶏が鳴く。
もうすぐ剣兵たちの稽古の時間だ。
私は伸びをして、剣を掴む。
まだ私は何者でもない。
これから、何者かになるのだ。
剣を握る。
朝日が柔らかく、王都への道を照らし出していた。
傅け。
跪け。
首を垂れろ。
目の前に御座すは、我らの敬愛すべき主だ。
我らに救いの手を差し伸べ、慈愛深きお人柄ながら、追われ追い立てられて、想い人を偲びながらひっそりと落ち延びる、我らの主だ。
今、目の前にお見えになるのは、我らが主の、我らが守るべき最期だ。
蝉時雨が降り注いでいる。
主を、木立の隙間から輝く日の光が、柔らかく照らしている。
主は、日の光に照らされて茶色くも見える長髪を、顔にかかるのをそのままに、白い瞳を細めて、あらぬ方を眺め、微笑を湛える。
ツィと日の下に差し出した御手が、空を切る。
まさに神々しきお姿だ。
一体誰がこの有様を見て、主が邪の妖と見えるというのだろうか。
我らの主は、都で目を病んだ。
たったそれだけで、世の人々は、主を邪の者と噂し、謗るようになった。
化けの皮剥がれたり!彼の邪の者は、天の使いの我らが皇君に目を焼かれたのだ!と。
主は都から退いた。
主は着の身着のまま、瑣末な家宅に移動した。
お上の下知にて、主の家財も家の者も取り上げるとの内示が下った。
しかし、それは叶わなかった。
我らを含め、これまでずっと主の従者であった者たちは、主以外の主人に仕える気などなく、主の病状は、予断を許さぬものであった。
お上の下知はすぐさま取り下げられた。
我らは主と共に、鄙びた、しかし平和な生活を続けた。
しかしそれも、いつからか途切れた。
無知なる臆病者たちは、主を恐れ、我らが皇は、天下に二君があるのを許さなかった。
我らはこうして、主が目を病んでからこれまでずっと、野犬のように追い立てられ、追い詰められて、ようやく、この終わりの地に辿り着いた。
主は、地の神に助けを求めた。
我らの都を守る皇の主、天の神ではない神に。
天の神に追い立てられ、地へ逃げ延びた神々に。
ここで我らは最期を迎える。
主も、我ら侍士も、侍女も、庭師も、料理師も。
皆、ここで最期を迎え、そしていつか天を穿つのだ。
茂みを踏み締める音が近づいてくる。
戦いになれていない従者の顔が、僅かに青くなる。
これまでずっと、慣れぬ逃げの手を打って来たのだ。
いよいよ来たのだ。ここが我らの懸命の機だ。
主を見やる。
主は、動揺など全く見られぬ顔で、空に手を翳している。
我らが主だ。
柄に手をかける。
ミシミシと小枝を踏み締める音が、蝉の声の合間に響く。
これまでずっと、追われて来たのだ。最期くらい牙を剥いても良かろう。
蝉時雨が降り注いでいる。
主の頬の横で、木の葉が日に揺れていた。
スマホの電源を入れる。午前一時半。
通知はない。静かだ。
深夜独特の重たく澄んだ雰囲気が、静かに部屋を包んでいる。
LINEを開く。
一件のLINE。
一番上に表示されたトークの右に、控えめに緑の印が点灯している。
いつもだ。
いつものこと。
あの子は不安でいっぱいで眠れないから、毎日この時間に連絡が来る。
あの子は自責観念が強くてとても気にしいだから、いつもLINEのミュートメッセージで連絡が来る。
LINEのトークを開く。
いつもと大体変わらない、不安と苦しみと諦めが滲む文面。
私はそれに、出来るだけ気軽に見える、でも出来るだけ寄り添えるようなスタンプを慎重に選び、送信する。
スタンプにするのは、あの子のためだ。
文章にすればあの子は、私の労力を勝手に想像して、勝手に自分を責めるだろうから。
もう何年になるだろうか。
あの子がうつ病になってから。
私とあの子は親友だった。
小さい頃から仲が良くて、LINEも真っ先に交換した。
お揃いの着せ替えを買った。
スタンプを送り合った。もちろん、夕方に。
一度目に均衡が崩れたのは、受験で私たちが別々の道を歩み始めた頃だった。
あの子は新しい親友を作って、お揃いの着せ替えはお揃いでなくなった。
話す機会は年々少なくなり、私とあの子は別の世界を生き始めた。
それからしばらく、遠巻きながら細々と関係は続いた。
二度目に均衡が崩れたのが、あの子が忙しい毎日に疲れて、その中で新しい親友に裏切られて疲れ切って、眠れなくなったあの時だった。
長い長い連絡があったあの時。
それから毎日、あの子から連絡が来るようになった。
最初は長く堂々と、だんだんと短く申し訳なさそうに。
毎日午前一時半に来る、一件のLINE。
私はあの子が嫌いじゃない。
どんなに疎遠になっても、勉強ができて、綺麗で、強いのにどこか脆くて、自分に厳しくて、弱音が吐けないあの子が、私は好きだったから。
だから私はこれからも、一件のLINEを待つ。
あの子からのSOSを。
ブルーライトが目に染みる。
東の空が、微かに白んできたような気がした。
目が覚める。
寝台の上に寝ている。
身体を起こす。
寝台に腰掛ける。
足元で、もうだいぶ昔に見送ったはずの平面展開図の飼い犬が、こちらを見上げている。
寝台の横の机に、輪切りにされた、白い滑らかな食べ物が一切れ、皿の上に置かれている。
丸みのあるフォークが、皿に添えられている。
ベッドランプの白い傘の中で、灯りが仄かに光っている。
あらゆる角度を貼り付けた、ペラペラとした展開図みたいなモノが、部屋へ入ってくる。
キュイーン、と脳に音が響く。
私の妻だ。知っている。
平面の妻は、私に縋りつき、何かを叫んで、嘆く。
足元で、飼い犬が平面の尻尾を振り回す。
いつのまにか、平面展開図の医者がいる。
平面展開図の妻が、医者に食ってかかる。
医者は、ペラペラと妻に何かを説明して、後ろから入ってきた平面展開図の看護婦が、妻の肩と思しきところを支えて、医者から引き剥がす。
キュイーン、と脳に音が響く。
視界には靄が立ち込めている。
この部屋がどこまで広がっているか、どこにドアがあるのかは分からない。
靄だけが立体的で、私の現実に存在するものは、この靄だけではないのかとさえ思う。
医者がこちらに近づいて、私に触れる。
何やら見聞をして、何やらを呟き、何やらを指示し、説明する。
キュイーン、と脳に音が響く。
何も分からない私は、ぼんやりと窓の方を眺める。
窓の外には、塗り込めたような真っ黒が広がっている。
平面の飼い犬が、こちらを見上げて口を開く。
「目を瞑ろう」
「眠ってしまおう」
「眠ってしまえ」
「眠ってしまえば楽になる」
私はゆっくりと目を瞑る。
眠気がゆっくりと私を包み込む。
「眠ってしまえばいい。夢の中も現実も変わらない。眠って終えば楽になる」
歌うような飼い犬の声が、脳に響く。
眠気が私を包み込む……
目が覚める。
寝台の上に寝ている。
身体を起こす。
寝台に腰掛ける……