薄墨

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傅け。
跪け。
首を垂れろ。

目の前に御座すは、我らの敬愛すべき主だ。
我らに救いの手を差し伸べ、慈愛深きお人柄ながら、追われ追い立てられて、想い人を偲びながらひっそりと落ち延びる、我らの主だ。

今、目の前にお見えになるのは、我らが主の、我らが守るべき最期だ。

蝉時雨が降り注いでいる。
主を、木立の隙間から輝く日の光が、柔らかく照らしている。
主は、日の光に照らされて茶色くも見える長髪を、顔にかかるのをそのままに、白い瞳を細めて、あらぬ方を眺め、微笑を湛える。
ツィと日の下に差し出した御手が、空を切る。

まさに神々しきお姿だ。
一体誰がこの有様を見て、主が邪の妖と見えるというのだろうか。

我らの主は、都で目を病んだ。
たったそれだけで、世の人々は、主を邪の者と噂し、謗るようになった。
化けの皮剥がれたり!彼の邪の者は、天の使いの我らが皇君に目を焼かれたのだ!と。

主は都から退いた。
主は着の身着のまま、瑣末な家宅に移動した。

お上の下知にて、主の家財も家の者も取り上げるとの内示が下った。
しかし、それは叶わなかった。
我らを含め、これまでずっと主の従者であった者たちは、主以外の主人に仕える気などなく、主の病状は、予断を許さぬものであった。
お上の下知はすぐさま取り下げられた。
我らは主と共に、鄙びた、しかし平和な生活を続けた。

しかしそれも、いつからか途切れた。
無知なる臆病者たちは、主を恐れ、我らが皇は、天下に二君があるのを許さなかった。

我らはこうして、主が目を病んでからこれまでずっと、野犬のように追い立てられ、追い詰められて、ようやく、この終わりの地に辿り着いた。

主は、地の神に助けを求めた。
我らの都を守る皇の主、天の神ではない神に。
天の神に追い立てられ、地へ逃げ延びた神々に。

ここで我らは最期を迎える。
主も、我ら侍士も、侍女も、庭師も、料理師も。
皆、ここで最期を迎え、そしていつか天を穿つのだ。

茂みを踏み締める音が近づいてくる。
戦いになれていない従者の顔が、僅かに青くなる。
これまでずっと、慣れぬ逃げの手を打って来たのだ。
いよいよ来たのだ。ここが我らの懸命の機だ。

主を見やる。
主は、動揺など全く見られぬ顔で、空に手を翳している。
我らが主だ。

柄に手をかける。
ミシミシと小枝を踏み締める音が、蝉の声の合間に響く。
これまでずっと、追われて来たのだ。最期くらい牙を剥いても良かろう。

蝉時雨が降り注いでいる。
主の頬の横で、木の葉が日に揺れていた。

7/12/2024, 1:12:10 PM