嫁ぐなら聡い人のところへ嫁ぎたい。
傾く日差しを尻目に、琴を爪弾く。
御簾の内にぞんざいに腰を下ろし、恋愛譚に花を咲かせる女房たちを眺めながら、そう思う。
私の家柄を鑑みるに、実際はそんなに色好みできるような立場ではないことは分かっている。
それでも、こう浮ついた話が出た時には、理想の相手というものがちらと脳裏を掠めるものである。
まったく、当たり前の生活というのは、窮屈なものだ。
だが、それほど捨てたものでもない。
知恵と教養とちょっとした演出で、零を一にも千にもできるのが、この社会の良いところだ。
私を取り巻く当たり前は、政の表舞台に女性が立つことは異例で、滅多にない。
だが、その政に立つ男を支えるのは女で、男の演出を企て取り計らうのも女。裏方の仕事をこなすのも、家を守り、細やかないろいろを取り計らうのも、子を産むのも女。
それはすなわち、裏を返せば、私たちは大人物の心を動かせれば、責任のない立場からひっそりと世を動かす事ができるのだ。
聡い者ほど、女はぞんざいに扱わないし扱えない。
それこそが私たちの当たり前なのだ。
琴を爪弾く。
わずかに素っ頓狂な、高い音が響く。
どうも琴は苦手だ。
物心ついた時から、私はこの当たり前の中にいた。
家のために自分を磨く使命があり、教養を身につける義務があり、この窮屈な当たり前に準じて生きていく普通の日常がある。
それが私の当たり前だ。
だが、一生付き合っていく“私の当たり前”を窮屈でつまらぬもののままにしておけば、その後に待ち受けるのは窮屈なつまらぬ毎日だ。
だから私は、私だけの当たり前を作ることにした。
取り巻く当たり前を武器に、譲れない当たり前を、私の当たり前に変えていけば良い。
私はむざむざ当たり前に喰い殺されるつもりはない。
おかれた当たり前に、時代が悪かったなどと遠吠えをあげながら犬死にするのは性に合わぬ。
それが、散々気が強いだの勝気だの言われ続けた、真の私の当たり前なのだ。
そうやって当たり前を変えるのを手伝ってもらう伴侶としては、当たり前を正しく理解し、強かに生きていける聡い者が望ましい。
だから聡い者が欲しいのだ。
それにそういう者と話すのは、楽しいし、飽きない。
やはり、家柄や容姿や性格よりも聡い者が良い。
私の結論は、結局そこへ帰結するのだ。
軽く琴をかき鳴らしてみる。
まあ、姫様、お上手になりましたわね。
そう語りかける女房に、ありがとう、と返し、私は空を仰ぐ。
御簾越しに美しい月が見えている。
もっと腕を磨かなくては、切実にそう思う。
夜はゆっくりと更けていく。
車が流れていく音がする。
エンジン音は絶え間なく続き、みんな忙しそうに国道を走り回っていることが、音だけでわかる。
歩道橋は暗い。
上と下に広がる街の明かりが眩しい。
ブルーライトが目に痛い。
日はとっぷりと暮れている。
まだ夏の初めだというのに、濃い夜の帳が下りている。
いつもこんな感じだ。
他の人よりちょっと長い、人生のモラトリアムを卒業してからというもの、帰路につく時間はもっぱら暗闇に包まれた夜になってしまった。
ぼんやりと考え込むことだけが趣味で、なるがままに流されてきた僕の今までを考えれば、今のこの生活は当たり前の帰結で、逃れようのない自業自得なのだが。
ふと足を止める。
くたびれた革靴と、ぞんざいに折られたジャケットの袖からほつれだした糸が目に入る。
そういえば僕は小さい頃、高いところから下の景色を覗き込むのが好きだった。
高いところから低いところを見下ろすと、下のアスファルトの地面が遠いような近いような、目の眩む感じがして、不思議で引き込まるようにいつも自然と覗いてしまう。
特に柵の向こうに見える下の景色は、近いようでずっと遠くて、でもすぐ手の届くところにありそうで…。
毎回下を覗き込むたびに、エレベーターやエスカレーターで降りるよりずっと、落下した方が早いのではないか、とぼんやり考えた。
そんなことを思い出して、僕は歩道橋の下を覗き込んだ。
歩道橋のど真ん中は、ちょうど車道のど真ん中。
大小様々なヘッドライトが、街の明かりを舐めながら、轟音を立てて通り過ぎていく。
歩道橋など見えていないかのように、みんなが街の明かりを照り返すアスファルトの上を通り過ぎる。
真っ暗な歩道橋は街の明かりにすっぽりと包まれた別世界だった。
昼とは遠近感がまるで違う。
街の明かりに照らされた下の光景は、小さい頃、大人の横で眺めていた時よりずっと、幻想的で、不思議で、近かった。
僕はゆっくりと身を乗り出した。
スマホが、からんっと滑り落ちた。
あの街の明かりの中に行きたいと思った。
僕はさらに身体を乗り出した。
ふわっと僅かに体が浮いて、それから重力が僕の背を一思いに押した。
僕の脳は、空を切りながらのんびりと思い出した。
遠い遠い、僕がまだ子どもだった時、下を覗き込む僕の手を無理やり引いて、歩くひっつめ髪の母を。
身を乗り出そうとする僕に声をかけ、こちらに引き戻すことを頑張っていた幼い姉を。
母も姉ももういない。
だからかな?
この後に及んでも、僕の脳はやはりぼんやりとそんなことを思った。
鈍い脳とは反対に、僕の体は、街の明かりを鋭く縦に切り裂いた。
頭に響く鈍い衝撃で閉じた瞼の裏には、街の明かりが逆さまに焼き付いていた。
幻想的に。遠くに。近くに。
やけに現実くさい喧騒が、遠くから聞こえていた。
夜露を織り交ぜる。
数日ぶりの朝日は、いつもよりずっと眩しい。
私は糸を繰り出して、機を織る。
つややかな夜露は、白い布の織り目にきらきらと輝いている。
カタカタと梶製の機が鳴る。
この衣は特別だ。
今日の夜までに織り上げてしまわなくてはならない。
さらさらと近くの川が流れている。
川の水は止まらない。
だから私は、川の歌うせせらぎに合わせて、糸を繰り出し、夜露を通し、機を動かす。
カタカタカタと機が鳴る。
棚機女は年々減っている。
今年の七夕も、過去最少を記録した。
生きとし生けるものはみな向上心豊かで、強欲だ。
生きる営みには、願いや不満は尽きない。
だからこそ棚機女は減っていくのだ。
神への感謝を伝えるはずの棚機は、いつの間にか、神に願いを託す七夕と姿を変えていった。
今やみな、七夕の星に、神に、短冊に…ありとあらゆる何かに祈りを捧げ、星空を見上げる。
もはや、この日に神のために機を織るのは、ちっぽけな2つの種族のみになってしまった。
蜘蛛と蚕。
遥か昔に糸を編むために足を裂いた八本足の種族と、糸を紡ぐために沈黙を貫いた口無しの種族。
私たち蜘蛛は、夜露を織り込んだ“夜霧の衣”を。
寡黙な蚕たちは、清らかで柔らかい“白雲の衣”を。
それぞれが神様に捧げるために、糸を紡ぎ、機を織る。
それにしても。
今年の七夕は良い天気だ。
今年のこの明るい太陽の下では、出来上がった衣がさそがし美しく映えるだろう。
きっと神様もお喜びになるはずだ。
川のせせらぎが聞こえる。
朝日がきらきらと、水面に反射して、星のように輝く。
きっと今頃、蚕族たちもこぞって絹の衣を織っていることだろう。
今日の天気なら、あちらが作った衣も真っ白に光り輝いて見えるに違いない。
今年も素敵な七夕を迎えられそうだ。
身を焦がすほどに輝く空を見上げる。
暖かな朝日が、織り上げられていく夜露を優しく輝かせていた。
そこはいつでも、パステルカラーの雨が降っていた。
雨と同じ色の水でくるぶしを浸して、私たちは立っていた。
カラン、コロン
柔らかい転がるようなベルの音が鳴って、いつも、そこで私はようやく、ここが夢の中であることに気づくのだった。
目が合うと貴女が笑って。
私たちは、パシャパシャと音を立てて、遊び回る。
何が楽しいのか、なぜ楽しいのかは分からない。
でも私たちは楽しくて仕方なくて、やがて弾けるように笑い転げながら、くるぶしまで溜まった水を跳ね上げる。
私たちの笑い声は、高くくぐもって夢の中にずうっと響き渡って、カラン、コロンとベルの音が柔らかく鳴る。
雨はしとしとと降り続けて、長雨のはずなのに、足元の水はずっと、くるぶしで揺れている。
お互いに笑い転げながら、やがて疲れてきて、2人で水の上に寝転ぶ。
ゆったりと互いに話しながら、空を眺める。
深い灰色の空から、パステルカラーの雨が落ちて、顔を濡らす。
背中を支えるゆるゆるとした水も、顔に落ちてくる水もなんだか本当に心地よくて、私たちはすっかり安心して、幸せな気分で笑いあう。
心地良い水の中で、手を繋ぎあって、やがてゆっくりと瞼が落ちてくる。
水位がゆっくりと上がってきて、私たちを飲み込んでいく。
息ができない
目が開けられない
体が重い
それでも脳は微睡の中で、私たちは心の底から穏やかで、心地良くて。
苦しさも恐怖もうっすらと靄がかかったようで。
貴女の手の温かさだけが、確かで、はっきりで。
私たちはゆっくりと水の底に沈んでいく、そんな思い出。
そしてその思い出だけを抱えて、私は目を覚ます。
その思い出は、はっきりと覚えていないのに、幸せで。
貴女のことを何一つ覚えていないのに、貴女はずっと私の友だちだという確信だけがある。
紛れもない貴女との、友だちの思い出。
アラームが鋭く鳴って、私は思い出から引き剥がされる。
もう夢の記憶はない。
ただ、友だちの思い出の、優しい柔らかな感情だけが、私の胸の裡にほんのりと残る。
カーテンを開けて、朝日に目を細める。
夢の中の、友だちの思い出をひっそりと、胸に抱いて。
立ち上がり、身支度をして、朝ごはんを腹に収めて、靴を履く。
私はいつもの現実へ、活動を始めるのだ。
星座早見盤を持って家を出た。
星空を眺めるのなんて、いつぶりなのだろう。
蒸し暑い、遥か遠い中空に張る黒い帳に、これでもかと星が散らばっている。
星と星を繋いでみる。
直線で出来た骨組みだけが現れる。
夏の大三角は、デネブが不憫だ。
逢瀬を控えて盛り上がる他の2人を傍目に、白鳥の尾羽は愚直に光っている。
星座早見盤と星空を見比べながら、指先で星を追う私の傍らで、目を細めてにこやかにこちらを見守る彼女が立っている。
目が覚めたとき、彼女は私の隣にいた。
私に声をかけて、食事や暮らしを計らってくれ、星空の見方を教えてくれた。
星空が好きなんだろう。
私はすぐに星空に夢中になった。
何も覚えていないのに。
何も分からない。
何も覚えていない。
何も知らない。
彼女のことも分からない。
星座への好奇心だけが、星空への執着だけが、ただ私の脳内に、ぽつんとあった。
七夕。
もうすぐ七夕だった。
何も分からない私の部屋にかけられたカレンダーには、七夕が赤く丸つけてあった。
…それは、気づいた彼女が慌てて剥がしたのだけど。
彼女は親切で、優しくて、でも口の利けない彼女は、私に星以外のことは教えてくれなかった。
ここは、人里からかなり離れた場所のようだった。
彼女も私も、この庭までしか出ずに、庭の家庭菜園と、定期的に届く瑣末な食料品で暮らし続けた。
時折、遠くの街の光が見えたり、海の向こうの岸が赤く燃えたりしていた。
でも大抵は対岸の火事で、この小さな私と彼女の世界は、すこぶる平和だった。
今日だって、星空の下に続く街の方でバラバラとなる騒音も、星空の先に浮かぶ岸の街にあがる煙も、私たちには関係ないものだった。
…だが、本当に関係ないものなのだろうか?
ないはずの左腕が密かに痛むのは、そういうものを見た時だった。
もしかしたら、私はあの穏やかではない向こう岸に、何かを置いてきたのではないか。そんな疑問が、ふいと脳の隅で頭をもたげたまま、固まっている。
彼女がふいに星空を指差した。
星が一つ流れ落ちた。
彼女はいつもより僅かに嬉しそうに笑って、こちらを見た。
その嬉々とした瞳に応えて、私も微笑んだ。
今の私にとっては、ないはずの腕の痛みよりも、彼女と寄り添っていること、それが一番大切なことのように思えた。
遠くで、星空を揺るがすような轟音が響いた。
星空がかすかに揺れた。
私たちの庭は相変わらず、静かだった。
星も、静かに瞬いていた。