薄墨

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7/4/2024, 1:25:07 PM

あの日は、蒸し暑い日だった。

太陽がごうごうと熱を上げていて、雲を全て消し飛ばしていた。
陽炎が先の先で揺らいでいた。
脳が煮えるような暑い夏の日だった。

そんな中を私は貴方と2人で歩いていた。
彷徨っていた。
出口も入口もハイキングコースも分からないまま、私は、ずっと歩き続けていた。

蝉が鳴いている。
梢が水色の色画用紙を貼ったような空を背景に、パラパラと散らばっていた。

がさり、と足元が音を立てる。
ずるり、貴方が音を立てる。

もう私たちは何処を目指しているのか分からなかった。
あの頃から、私たちの関係は冷え切っていて、私たちが目指したはずのゴールは、陽炎のように揺らいでいた。

もう私たちは何処を目指しているのか分からなかった。
ハイキングに来たこの山で、私たちは道を外れたのか…あったはずの道順は、強い日差しで陽炎になって揺らいでいた。

私は、自分が何をしたのか分からなかった。
気がついたら、貴方がぐったりと地面に落ちていた。

襟首を引き、山を登った。
貴方は、あれだけ熱を持っていた口を冷たく閉じて、燃えたぎるようだった目に霜を降ろしていた。
ぐったりとした貴方は重たくて、でも、素直だった。

私は、首にかけたロザリオを握りしめる。
太陽の熱を蓄えたロザリオは、強く暖かい。

私は今、何をしているのだろうか。
何処へ行こうとしているのだろうか。
私は神様に問いかける。
本人である私すら理解できない今の私の状況を、理解できるものがいたら、それはきっと神様だけだろう。

神様だけが知っている。
私の行く末も。
貴方の行く末も。
この暑い夏の日の結末も。

くらり、と脳が煮える。
私は何故ここに来たのだろうか。
私はどうして貴方を誘ったのだろうか。
何も分からない。でも大丈夫。

きっとそれも、神様だけが知っている。

蝉の慟哭が聞こえる。
ロザリオを握りしめた手のひらに、鈍い痛みが走る。
襟首を握りしめた拳の内に、汗が滲む。

真っ青の空の中、陽炎は何処までも揺らいでいた。

7/3/2024, 1:45:00 PM

ひんやりと空気が辺りを包む。
白い水気のある霧が、周囲に立ち込めている。

一歩を踏み出す。
道の先は白い濃霧に覆われて、見えない。
小川がせせらぎを歌う音がする。
足先が、何か小さなものを蹴飛ばす。

前も後ろも右も左も見通せない。
枝を抱え上げた草たちは、頭上からじっとこちらを見下ろしている。

先の見えないこの道の先。
一体何があるのだろうか。この道の先に。
…少なくとも、正しくはないこの道だ。
木の根が爪先に触れる。
道はまだ続いている。

傍に下げた剣の柄が、微かに揺れる。
並んで隣を歩く者はもういない。
先立って前を歩く者ももういない。
一人だけの道だ。

師匠が殺されてもう十年。
あの不義理な戦いで師匠が消えてから、師匠に育てられ教えられるという、唯一にして強大な共通点を持っていた僕たちは、それを失ったがために散り散りになって、日常を失った。

ほとんどの者が道を諦めて、違う道へ逸れていった。
一部のものは不義理の不幸を振り払って、新たに道を模索した。
僕以外にも、この道に固執した者もいた。
でもその者たちもいつの間にか、別の道へ逸れていった。

…今や、師匠の仇への復讐を目指して、この道を歩むのは僕一人となってしまった。

道を逸れていった兄弟子たちは、どんな道が見えているのだろうか。
濃い霧に覆われたこの道を絶えず歩きながら、時々僕は考える。

もう兄弟子たちに恨みを感じることも、怒りを感じることもない。
ただ、他の道がどんなものなのか、ふとした好奇心が胸の中に過ぎる。

この道の先に。一体何が待ち受けているのだろうか。
この道の先は。兄弟子たちの歩く道とどう違うのだろうか。

年々険しくなる道を踏み締めながら、僕はじっと考える。
孤独で過去に囚われた長い道。
でも、兄弟子たちの道先を思いながらも、僕はただ、この道の先につくまでは、前へ進めないだろう。

深い霧が立ち込めている。
爪先が、小さな石ころを蹴飛ばす。

道の先には、真っ白な霧だけが広がっていた。

7/2/2024, 1:02:32 PM

僕は急いでいた。
君に会わなきゃいけなかったから。

足の裏に感じる、大地を踏みしめながら走る。
自分の体を切る風が、耳の側を掠めていく。
暗闇の中、鼻がこちらだと告げている。

被害者がいつでも正しいとは限らない。
影の世界に追いやられた僕たちは、被害者であって、正義のヒーローではないのだ。

だから僕は君のところへ行かなくてはならないのだ。

昔、僕の種族と君たちは対立した。
革命者として侵略に現れた君たちは、すでに退廃と傲慢を極めていた僕たちの種族を、次々と正していった。
僕たちの種族が長らく忘れていた高潔さと、長い寿命を生み出す強い生への執着、強い団結力で、僕たちを次々と負かせていった。

戦いを忘れた僕たちは追われ、逃れて、暖かい日差しが当たる世界から、暗闇のみの影の世界へと追われていった。
そして影の中で、長らく目を瞑り、感覚を研ぎ澄ませ、牙だけを研ぐ存在として、細々と生きた。

君たちの種族は、平和を享受し、柔らかな日差しにゆっくりと軟化されていった。
かつての僕たちのように。

しかし、時代は変わる。
環境は変わる。
世界は不変で、だからこそ生きていく者たちには、停滞は許されない。

影に潜んでいた僕たちは気づいた。
この世界の終わりが近いことに。
かつて僕らを守り、君たちを助け、様々なものを恵んできたあの日差し。あの光が。
僕たちの世界をゆっくりと焼こうとしていることに。
あの日差しこそが、この世界の真の侵略者だということに。

きっと僕たちに勝ち目はないだろう。
侵略者に気づける僕たちは、あまりに光に当たらなすぎた。僕たちの種族は、侵略者に対する耐性を持たない。

きっと君たちに勝ち目はないだろう。
侵略者へ耐性を持つ君たちは、長年の平和ですっかり牙を捨ててしまった。君たちの種族は、もはや戦える者ではない。

きっと身を焦がして走ったところで、僕たちは滅びの一途を辿るに違いない。

それでも僕は走らなくてはならない。
だって、被害者がいつでも正しいことなんて、ないのだから。
僕たちの種族は、君たちと戦って得たこの教訓を忘れてはいけない。無駄にしてはいけない。

僕たちは、滅び方を考えなくてはならない。
最期まで、足掻かなくては。

光と影の境界を感じる。
鼻先に燻る匂いが漂う。

僕は足を踏み出す。
目が焦げる。
腕から煙が上がっている。

僕は、もはや灼熱にも感じる地面を踏み締め、走り出した。

7/1/2024, 12:09:12 PM

飛び起きる。
汗びっしょりで、貼り付いたシーツを押し除ける。
窓越しに、海の渦巻く音が響く。

バンッ!
窓の外から、掌を押し付ける音が聞こえる。

ぼんやりと壁のシミを眺める。
唸るような海の音が、窓越しに響く。

悪夢だ。
悪夢だった。
わけもなく苦しくて、息ができなくて、空が見えなくて
泡が上へ上へ消えていて…
底から、地響きのような何かが呼んでいた。
奥から、湿った白い腕が足首を掴んでいた。

悪夢だ。

汗は止まらない。
微かに体が震えている。
海の渦巻く音が、窓越しに響く。

バンッ!
バンッバンッ!
窓の外から、掌を押し付ける音が聞こえる。

枕元に置いた古本の、皮の表紙が擦り切れている。
ここで立ち往生することになって、何日が経っただろうか。
1日にも満たない気もするし、何十年も経った気もする。

バンッ!
窓の外から、掌を押し付ける音が聞こえる。
窓越しに、海の渦巻く音が響く。

悪夢だ。
海藻が足に張り付く感覚。
ずっしりと浮き上がらない身体。
水の重みに痛む肺。

そこにいる彼女も、そんな感覚だったのだろうか。

波が部屋を揺らす。
海が渦巻く音が聞こえる。
バンッ!
窓越しに掌を押し付ける音が響く。

彼女が海に落ちたのは、この海域に入ってからすぐのことだった。
トロール網を引き上げていた彼女は、風で大きく揺れた舟のデッキから投げ出された。
釣果や釣具もろとも彼女は振り落とされ、舟の中に響き渡るような叫び声をあげて、この部屋の窓の外へ落下していった。

どうしてこんなところへ迷い込んでしまったのだろう。
彼女が海へ落ちていくその時、私はそんなことを考えた。
私たちは、ただ、あの陰気で小さな港町に雇われた、しがない漁師だったのに。

そんな考えから気がついた時には、窓越しに見えるのは、渦巻く海と波だけになっていた。

私は、ぼんやりと壁のシミを数えて、ゆっくりと視線を滑らす。
錆びついたリールのように、鈍くのろのろと首を動かす。
窓の方に。

窓越しに見えるのは、彼女の顔。
恐怖と海藻の張り付いた青白い顔。

窓越しに見えるのは、幻覚の怪物。
苦しそうに喘ぐ、海の哺乳類の顔。
飛び出た目玉をぎょろぎょろと蠢かす、生気のない魚の顔。

海の渦巻く音が、窓越しに響く。
いつまでも。
いつまでも。

6/30/2024, 1:08:21 PM

キジバトが翼を鳴らして飛んでゆく。

眼下の街並みは、朝の日差しと共に、忙しく、長閑に目覚め始めた。
穏やかな一抹の朝風が、ゆっくりと街の家々の隙間を吹き抜ける。

城壁のバルコニーの手すりに、朝露が光っている。
定刻を告げる教会の鐘の音が、穏やかな朝の中に響き渡る。
朝の祈念の刻を告げる音だ。
修道士たちの朝の祈念と一日の始まりを告げる音であり、そのまま労働民たちの一日の始まりの刻の音でもある。

私は朝の王国を眺めながら、小さく伸びをする。
先程の鐘の音で、宮廷人たちも目覚めたことだろう。
私たちにずっと貼り付いて世話を行う、侍女たちも、流石に今から準備があるだろう。

まだ一人で過ごす時間がある。

次の鐘で、侍女たちがやってくるだろう。
その後、貴族や官僚人が出仕して、朝の御前会議をして、今日は、今月付で城に上がる侍女の臣従儀礼があって…。
これからの予定を脳裏に描くだけで思わずため息が漏れる。

バルコニーのテーブルに置いておいたハンカチを取る。
一週間ほど前に、元騎士団長の戦大臣からお願いされてたハンカチの刺繍。
官司任命と出仕の記念品として、ぜひ私に刺繍をいただいて奥様にプレゼントしたい、と頼まれたのだ。
ほんのり桃色のリネンのハンカチは、すっきりと上品で、伯爵家出の奥様に、よくお似合いだ。

その薄桃色に映えるよう、赤い刺繍を入れていた。
完成間近まで縫い進めているので、この時間に仕上げてしまおう。

赤い糸を通して玉結ぶ。

この王国に嫁いで、もう一年が経つ。
暮らしぶりは、まあ、そこそこだ。
ご飯の美味しさや生活水準は、さして変わらない。

大変なのは業務だ。
貴族の娘と国王夫人では、仕事の量が桁違いだ。
宮廷人や城の雑務の指示、官司とその夫人家族との社交、外交相の労い、後継を成す準備に、出資や申立ての対応、労働民への労い…

さらに、夫_国王の歳が若くないせいもあり、新興の事業や法令改正の相談は、若く提案しやすいこちらの耳に入る。
国王は進んだ男女観の持ち主であり、私が官司や国民から、いろいろな相談事されることを黙認している。

そして、夜の寝室で、こっそりと御助言をなさる。
「気を引き締めよ。贔屓は権力の均衡崩壊に、権力の均衡の崩壊は我々支配者の死に繋がるでな」
「朕と其方は、平和を手にしたが、平和の光も影を写すでな、平和の維持とは難しきものよ」
「できれば朕は、其方と生涯を全うしたいのでな、くれぐれも頼むぞ」
そして、私と王は、疲れの滲む顔を見合わせるのだ。

赤い糸に導かれるように、戦の時勢の中で出会って、ここまで走ってきた。
先の大戦で、国王のさっぱりとした気質に惚れた私は、共に戦場を駆け、敵を退け、平和を掴んで、ここまでやってきた。
運命の針に導かれ、針に通る赤い糸に引かれるように、運良く、逞しく、なんとかこの地位を掴み取ったものだが……

世の女性たちは高貴な身に焦がれるという。
存外、楽でも気楽でもないわよ、と助言したいものである。

小さい頃読んでいたお伽話は、運良く王子様と婚約したところで皆話が閉じる。
その後の彼女たちは、いったい幸せだったのだろうか。
彼女らの何人が、平和な治世を末長く治められたのであろうか。

赤い糸に結ばれた相手と、このような刺激的で慌ただしい日々を、助け合いながら生きていくのは、なんだかんだ幸せなことであろう。
実際、心の内の裡から、私は幸せだ。

だが、その幸せは針の上の糸の如く、繊細で細やかな日常であり…
毎日続けば、朝がちと憂鬱にもなる。
今朝のように。

教会の鐘が鳴った。
そろそろ侍女が、今日の衣装と予定表を手に部屋へ来るだろう。
私は赤い刺繍糸を玉留めて、立ち上がる。
侍女を迎える準備をしなくては。

ガラガラと、荷車の音が賑やかだ。
街はすっかり目を覚ました。
これから、この国の、繊細な平和の一日が始まる。

私は朝の城下街に背を向け、城内へ向かう。
私たちの赤い糸の如き現実が待つ、華やかで儚い城の中へ。
キジバトの柔らかくこもった鳴き声が、私の背を押していた。

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