薄墨

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キジバトが翼を鳴らして飛んでゆく。

眼下の街並みは、朝の日差しと共に、忙しく、長閑に目覚め始めた。
穏やかな一抹の朝風が、ゆっくりと街の家々の隙間を吹き抜ける。

城壁のバルコニーの手すりに、朝露が光っている。
定刻を告げる教会の鐘の音が、穏やかな朝の中に響き渡る。
朝の祈念の刻を告げる音だ。
修道士たちの朝の祈念と一日の始まりを告げる音であり、そのまま労働民たちの一日の始まりの刻の音でもある。

私は朝の王国を眺めながら、小さく伸びをする。
先程の鐘の音で、宮廷人たちも目覚めたことだろう。
私たちにずっと貼り付いて世話を行う、侍女たちも、流石に今から準備があるだろう。

まだ一人で過ごす時間がある。

次の鐘で、侍女たちがやってくるだろう。
その後、貴族や官僚人が出仕して、朝の御前会議をして、今日は、今月付で城に上がる侍女の臣従儀礼があって…。
これからの予定を脳裏に描くだけで思わずため息が漏れる。

バルコニーのテーブルに置いておいたハンカチを取る。
一週間ほど前に、元騎士団長の戦大臣からお願いされてたハンカチの刺繍。
官司任命と出仕の記念品として、ぜひ私に刺繍をいただいて奥様にプレゼントしたい、と頼まれたのだ。
ほんのり桃色のリネンのハンカチは、すっきりと上品で、伯爵家出の奥様に、よくお似合いだ。

その薄桃色に映えるよう、赤い刺繍を入れていた。
完成間近まで縫い進めているので、この時間に仕上げてしまおう。

赤い糸を通して玉結ぶ。

この王国に嫁いで、もう一年が経つ。
暮らしぶりは、まあ、そこそこだ。
ご飯の美味しさや生活水準は、さして変わらない。

大変なのは業務だ。
貴族の娘と国王夫人では、仕事の量が桁違いだ。
宮廷人や城の雑務の指示、官司とその夫人家族との社交、外交相の労い、後継を成す準備に、出資や申立ての対応、労働民への労い…

さらに、夫_国王の歳が若くないせいもあり、新興の事業や法令改正の相談は、若く提案しやすいこちらの耳に入る。
国王は進んだ男女観の持ち主であり、私が官司や国民から、いろいろな相談事されることを黙認している。

そして、夜の寝室で、こっそりと御助言をなさる。
「気を引き締めよ。贔屓は権力の均衡崩壊に、権力の均衡の崩壊は我々支配者の死に繋がるでな」
「朕と其方は、平和を手にしたが、平和の光も影を写すでな、平和の維持とは難しきものよ」
「できれば朕は、其方と生涯を全うしたいのでな、くれぐれも頼むぞ」
そして、私と王は、疲れの滲む顔を見合わせるのだ。

赤い糸に導かれるように、戦の時勢の中で出会って、ここまで走ってきた。
先の大戦で、国王のさっぱりとした気質に惚れた私は、共に戦場を駆け、敵を退け、平和を掴んで、ここまでやってきた。
運命の針に導かれ、針に通る赤い糸に引かれるように、運良く、逞しく、なんとかこの地位を掴み取ったものだが……

世の女性たちは高貴な身に焦がれるという。
存外、楽でも気楽でもないわよ、と助言したいものである。

小さい頃読んでいたお伽話は、運良く王子様と婚約したところで皆話が閉じる。
その後の彼女たちは、いったい幸せだったのだろうか。
彼女らの何人が、平和な治世を末長く治められたのであろうか。

赤い糸に結ばれた相手と、このような刺激的で慌ただしい日々を、助け合いながら生きていくのは、なんだかんだ幸せなことであろう。
実際、心の内の裡から、私は幸せだ。

だが、その幸せは針の上の糸の如く、繊細で細やかな日常であり…
毎日続けば、朝がちと憂鬱にもなる。
今朝のように。

教会の鐘が鳴った。
そろそろ侍女が、今日の衣装と予定表を手に部屋へ来るだろう。
私は赤い刺繍糸を玉留めて、立ち上がる。
侍女を迎える準備をしなくては。

ガラガラと、荷車の音が賑やかだ。
街はすっかり目を覚ました。
これから、この国の、繊細な平和の一日が始まる。

私は朝の城下街に背を向け、城内へ向かう。
私たちの赤い糸の如き現実が待つ、華やかで儚い城の中へ。
キジバトの柔らかくこもった鳴き声が、私の背を押していた。

6/30/2024, 1:08:21 PM