ビルの間に、狭苦しそうに入道雲が肩をすくめている。
ただ汗が、淡々と私の首筋を流れていく。
ヒートアイランド現象か、この街は年々暑くなるような気がする。
蝉の声より、人の話し声の方がよく聞こえる。
こんな場所では、夏の熱帯気圧を積み重ねた、堂々たる夏の風物詩の入道雲も、肩身が狭いのだろう。
今日も退屈な一日だった。
眠い目を擦る。
昨夜も、世間一般から見れば、刺激的で破滅的なことをしたはずなのに。
いざ罪を犯そうと入った時に、ただ部屋が異常に蒸し暑かったことしか感じなかった。
室外機の熱風が鬱陶しい。
罪悪感を感じない自分の心と、纏わりつくしつこい湿った空気に、若干の苛立ちが募る。
捕まるかもしれないのよ。
私は、冷え切った自分の心と脳に語りかける。
捕まったら、今まで築いてきた地位も努力も、それこそ雲のように、霧散してあっという間に消えてしまうのよ。
しかし、私の脳は相変わらず、ドライアイスが当てられているかのように冷めきって、心は雪の中の氷像のように、1ミリも動かなかった。
私は罪悪感を感じたい。
自分が他の人とは違うと気づいたのは、小学校に入ってからのことだった。
カワイソウ
ゴメンナサイ
ヒドイ
モウシワケナイ
アワレミ
ゼンアク
コウカイ
カナシイ
喧嘩や揉め事があるたび、道徳の授業があるたび、先生がホームルームでお説教をするたび、飛び交うその言葉は、実感も意味も理解できず、ただの記号にしか聞こえなかった。
どうやら、それらを理解できないことは、異常なことらしい。
ぽかんとした私を先生も親も叱った。
相談したこともあった。
友達、カウンセラー、親戚…。
でもどんな人も、困ったように眉根を寄せて、「もっと人の立場に立ってみると良い」とか、「道徳を頑張ろう」とか、「けしからん!」とか、「いずれ分かるようになるよ、周りの人を大切に、愛を持ちなさい」とか、訳の分からないことを言った。
そして、それが分からないということは、どうやら人としておかしいらしい。
自分の知らぬ間に、この問題は急速に肥大化していった。いつの間にか現れて、下からむくむくと肥大化する入道雲のように。
これが理由で友達が減り、これが理由で同級生やその保護者らから嫌がらせを受け、これが理由で先生には目をつけられた。
いつしか、私は罪悪感を感じない自分の心を隠すようになった。
人というのは、他の人の思考を覗けない。
馬鹿正直に自分の感じていることを言わなければ、態度でどうとでも嘘がつける。
他の人が神妙な顔をしている時は、合わせて神妙な顔をしていれば、浮かずに済む。
道徳の教科書を予め読んでおき、この場合に先生ウケをする回答パターンを予測しておけば、成績は問題ない。
そうやって嘘をつき始めた私を見て、周りの人たちは安心したように、満足そうに頷いた。
「ほら、分かったろう?」
「こういうのは自然に分かるようになるものなんだ。」
私の心の中はなんにも変わっていないのに、現金な人たちだ。
そういうわけで、今でも私は罪悪感を掴めずにいる。
あの時、私は密かに自分に誓った。
大人になったら、いろんなことを試して、人なら誰でも持つというあの噂の、憐憫と罪悪感という感情を探すんだ。
そして、それを見つけて、立派な大人になってみんなの仲間入りをするんだ!と。
それを見つけるためならなんだってするんだ!と。
しかし、まだ分かりそうにない。
私の罪悪感は、まるで雲のように実態なく、私の手の中をすり抜けて行く。
ある人の大切な人を傷つけ、最悪の裏切り行為をしてみても。
仲が良かった友人を、ボロ切れのように扱ってみても。
何も知らない無垢な子どもを躓かせてみても。
誰かに憎まれてみても。
ハンドバックに、べったりと血の付いた手袋を押し込んで昼の街を歩いてみても。
入道雲のように、只々、分からないというモヤモヤが、蓄積していくだけ。
もし、似たような人間のいる世界_いや、いっそ獣として生まれたら、私もこんな風に自分の感情を肩をすくめて隠しながら、生きていかなくても良かったのだろうか。
私は目の前の入道雲に心底、同情する。
私たち、もう少し違うところに、違う形で生まれれば良かったのにね。
入道雲が肩をすくめている。
人工物の中で、狭苦しそうに。
山の空気が、肌に張り付く。
暑さの滲む星空の中を、ひたすら登る。
不揃いなブルーハワイのカキ氷のかけらを噛み砕く。
飛んでくる藪蚊を払う。
足元で落ち葉がかさりと音を立てる。
山道には、夏の盛りでも葉が散っているものらしい。
でこぼこの坂道を踏み締める。
黒い闇が目前に続いている。
藪蚊が羽音を立てる。
もうすぐだ。
もうすぐ山頂だ。
もうあとちょっと登れば、視界が開ける。
私は足を引き摺りながら、山道を登る。
道は細い。
人はいない。
暗い闇が沈黙している。
手に持った安物のカップがくしゃりと音を立てる。
溶けた氷が、毒々しいほど青々とした水色の液として、沈澱している。
夏は、生命力の塊だ。
瑞々しい夏野菜。勢い益々に鳴き続ける蝉。ブンブンと飛び回る羽虫。海へ山へと駆けてゆく人たち。
同時に、カラカラの死の季節だ。
暑さに項垂れる萎んだ葉。手のひらで潰れる蚊。アスファルトに干からびたミミズ…。
いつの間にか、星空が広がっている。
登りきった。
眼前に、麓の町。赤提灯にほんのり照らされた、祭り真っ最中の、私たちの町が見える。
足首がジクリと痛む。
もう治らない足首が。
足首に異変を感じたのは二週間前だった。
二週間後に、最後の大会が終わるはずだった。
今日は引退前最後の大会のはずだった。
私がスポーツをこんなに楽しめるのは、人生の後にも先にも今年で最後のはずだった。
だから華々しく最後を飾るつもりだった。
そのはずなのに、今私は、町の裏山にいる。
家に残してきた、いつまで経っても言葉が出ない弟は、今頃泣いているだろうか。
計画性も堪え性もない母は今頃、いつものように町の男を飛び歩いているのだろうか。
練習よりも、シューズを隠すことの方が上手だったチームメイトたちは、今頃あの明かりの中で笑っているのだろうか。
リーー
昼間の騒がしさとは似てもつかない、寂しげな虫の鳴き声が響いた。
私は足を引き摺りながら、切り立った地面の縁に寄る。
誰も覚えていないほどの大昔の落石の跡。
その落石は、旱の時にやってきて、それが古代の人々には神様が遣わしたものに見えたらしい。
石は祀られ、この町の神になった。
今日、夏祭りに出ている神様が宿ったという石。
それがここから落ちたのだ。
下を覗く。
暗い暗い闇が大きな口を開けていた。
私は持ってきた封筒を置く。
何度も使い古されて、ボロボロに角の擦り切れた銀行の封筒っていうのが、惨めさを加速させる。
重しにかき氷のカップを置く。
水色の液体がちゃぷんと揺れた。
足を引き摺って、地面の端に立つ。
空に散らばった無数の星が、瞬く。
ああ、弟も連れてきてやればよかった。
今更、そんなことを思った。
歓声が地響きのように轟く。
一陣の熱風が、乾いた軽い砂を攫ってゆく。
目の前の蛇頭が、シュウウ…と煙のような唸りをあげた。周りに放された鼠頭の小人たちが、聞くに耐えない叫び声のような威嚇音を吐き捨て、こちらへ飛びかかってくる。
むき身の剣を振り抜き、鼠頭を振り飛ばす。
連戦で毀れた刃は、ゴッと鈍い音を立てて小人の体を宙に放り投げた。
ギッ…と呻いた奴らしかし、背中を叩きつけざまに起き上がり、まだしゃかしゃかとこちらへ向かってくる。
轟くような人の声が、こちらに降ってくる。
異様な熱狂と歓声に造られた蜃気楼の奥、蛇頭の背の向こうに、目隠しをされた彼女が見えた。
華奢な手足に巻き付いた鎖が重たそうに垂れている。
その瞳は見えなくとも、力なく体を脱力させた彼女の細身の体に、絶望と疲れが滲んでいた。
彼女の髪の毛たちが鎌首をもたげ、不安そうにうねっている。
奴らがこちらの間合いまで踏み込んでくる。
足を引いて飛び摩り、こちらにいち早く反応して、頭一つ抜けて歯をかち鳴らした鼠頭の鼻先に剣を突き立て、素早く引き抜いた。
奴の尖った鼻先が、パッと鮮やかに裂ける。
剣先から赤い液が滴って、点々と間合いを染める。
半刻ほどの沈黙を、ギャッという断末魔が引き裂いた。
つんのめった二番手の首に、刃を差し込み、振り抜く。
またも赤い汁が鮮やかに飛び、乾いた砂が湿る。
三番手以降の鼠頭は、砂を掻きながら、後ずさる。
うおおお!
轟音のような歓声が降る。
渦巻く大嵐のような熱狂は、人為的に造られたこの戦場を取り囲む外部の傍観者たちのもので。
戦争の中核である俺たちの間には、ある種の霧雨のような冷たい緊張感が張り詰めていた。
蛇頭が歓声に向かって牙を剥く。
鼠頭たちは、五月蝿そうに頭を振り、赤く充血した目を忙しなく走らせる。
ああ
俺は、剣を握りしめた爪の痛みを感じながら、肩に走る古傷の痛みを感じながら、蛇頭の奥の少女に思いを馳せずにはいられなかった。
彼女はどれだけ不安で心細いだろうか。
君はここじゃないどこかで、死ぬべき生物なのに。
怯みながらも掛けてきた鼠頭の体躯を切り捨てて、奥を見据える。
蛇頭が、縦に細い瞳を血走らせ、シュウウッと唸りをあげた。
…あれはダメだろう。せめて、彼女だけは。
彼女だけは、ここではないどこかに。
ここではないどこかへ。
鎧が初めて重たく感じる。
剣先を滑らせて、背後に縋り付く鼠頭を放り捨てる。
俺はコロッセオの猛者だ。もう数えるのも面倒なほど死線を勝ち抜いて、闘うことにかけては無敵の誰もが羨む男だ。
だが、ここから逃げるとなると、話は別だ。
果たして、上手くいくだろうか。
だが、上手くやらなくては。昨晩、檻の中で火に照らされた、彼女の瞳と長い睫毛を見て決めたのだ。
ここではないどこかへ、行く時だ。
叫び声はまだ止まない。
鼠頭の怯えの断末魔と、蛇頭の混乱した悲鳴と、観客の熱狂した歓声が混じり合って、のしかかる。
温度差で揺らぐ視界の奥。
彼女の隠された瞳が、真っ直ぐこちらを見据えている気がする。
俺は今までのどんな時よりも大きく、確信した一歩を踏み出した。
君と初めて会ったあの日を覚えてる。
その日は、分厚い灰色の雲が立ち込めて、蒸したまとわりつくような空気が立ち込めていた。
降っているかも分からないポツポツとした雨粒が、波間に滴っていた。
君は、折れそうなほどに細い足を、ふんわり膨らむスカートから剥き出して、柔らかな素足を湿りつつある砂浜につけて、じっと水平線の方を眺めていた。
上品な帽子を押さえて、強くなる風に髪を靡かせて。
見た目よりもずっと高そうな小さいカバンが、傍に立っていた。
それで、声をかけたんだ。
君の手を握って、砂浜を後にして。
君が後部座席の真ん中で、傷だらけの足をぷらぷらと宙に浮かせた時、堰を切ったように、土砂降りの雨が降ってきた。
轟々と唸る風と、フロントに激しく叩きつける雨音を聞きながら、エンジンを軋ませた。
雨は、君と僕の邂逅を、周囲の目から洗い流したかのようだった。
辺鄙な僕の山小屋で、君の足を洗った。
それから、君の家へダイヤルを回そうとして、はたと手が止まった。
君の傷だらけの裸足と、折れそうな手足と、水に足をつけるたびに微かに歪む、昏い瞳が脳裏に焼き付いて。
君と過ごした日を覚えてる。
一緒に食卓について、粗末な食事を囲んだこと。
黴臭いクレヨンを使って、壁中に夢中で絵を描いたこと。
仕舞い込んでいた絵本の埃を払って、せーので開いたこと。
布団にくるんだ君が眠るまで、調子外れな子守唄を歌ったこと。
君と別れると決めた日を覚えてる。
もう使わないと封印していたスマホの電源を入れたあの瞬間を。
君を起こさないように声を顰めて、全てを打ち明けた時の微妙な気持ちも。
靴箱の隅に仕舞い込んでいた小さな靴を君に履かせて、君の手を握って、最初で最後のお出かけをした時の空を。
君は、埃臭くてくたびれたぬいぐるみを大切そうに抱いて、後部座席で靴をはめた足をぷらぷらと宙に浮かせた。
君と最後に会った日。
海は、同じ場所の筈なのに、澄んだ青空を写していた。
君が車から降りて。
まもなく、優しげな大人に手を引かれていった。
僕はどこかホッとした、肩の荷が下りた気分で君を見送った。
涙を流すことはなかった。
あの子と君は違うから。君は僕の子ではなかったから。
君にはまだ未来があるから。
君は何も知らずに僕に会って、何も知らずに別れて、君の人生を生きていく、それが僕の願いだったから。
肩に手を置かれて、頷いた。
君が離れていった方を眺めながら、僕は両手を差し出した。
君はこれから、輝かしくはないかもしれないけれど、大変だけど、それでも自由に生きられるところへ行くんだ。
僕に会う前の哀しくさもしい人生でも、僕と会ってからの不自由なぬるま湯のような人生でもない。
君の本当の人生を歩んでほしいのだ。
僕の子の分まで。
僕との生活は忘れてほしい。
我が子を亡くした海で、自暴自棄と中途半端な正義感に駆られて君を攫った、僕との生活なんて。
でも、もし願うことが許されるなら。
君がいつか気づいてくれたら嬉しい。
これが、僕が君と最後に会った日だったのだ、と。
もう二度と会うことはないのだから。
優しい風が吹いた。
警官が、僕の肩を優しく押した。
空も、海も、清々しく青かった。
繊細な花なんてないんだよ。
それが、うちの母さんと父さんの口癖だ。
僕は花屋の息子で、家にはたくさんの花が溢れていた。
確かに、どの花も逞しかった。
扱いが難しい花や、時期を逃すとすぐに散って枯れてしまう花も確かにある。
虫に弱い花も、環境の変化に弱い花も確かにあった。
でもそれは、僕たちが観賞用の視点で見ているからで。
僕たちがわざわざ観賞用に、生息地以外の環境に連れてきているからで。
どの花も生きるのに精一杯で、病気だろうと虫がつこうと命を繋ぐことを諦めなくて。
なるほど、確かにその様は、とても外部の変化にすぐに脆く崩れ去る“繊細”という言葉にはそぐわなかった。
繊細な花があるとしたら、そりゃ造花だろうなあ。
かつて庭師だった母方のじいちゃんは、よく呟いた。
僕もそう思った。
花も、花について駆除される前の虫も、庭先から拾い上げた子猫も、そして人間たちも。
おおかたは、生きることを諦めない逞しさを持っていて、葉をたたみながら、のたうちうねりながら、じっと蹲りながら、「死ぬ」とか「毒親め」とか吐きながら、そして本気でそう思いながらも、自分を助けて命を諦めないために、必死だった。
それを繊細だなんていうのは失礼だと思った。
繊細な花というものは、きっとアンデルセンの『うぐいす』に出てくるような陶器でできた花。
きっとミダス王が不用意に触ってしまった時の止まった金の花。
細いガラスの茎と薄いガラス片の花びらでできた花。
そんなものだと思った。
そんな繊細な花を見ることなんてない、と思っていた。
繊細な花のような人に会うことなんてない、と。
でもそれは違った。
今年初めてクラスメイトになった。
この学年一の美人だと、よく騒がれていて、名前は僕でも知っていた。
初めて顔を見たときに、僕は衝撃を受けた。
想像していた雰囲気と違ったから。
人としては初めて見る、繊細な花だった。
透き通るような白い肌。
すらっと伸びた体躯に、柔らかで滑らかな声。
穏やかに微笑み、端正な姿。
そのどれもが、繊細で脆くて造花だった。
話したのは、たった一度だった。
「ねえ」
僕に声をかけて笑った顔は、恐ろしく綺麗で、儚かった。
「明日からは、もうここには来ないような気がするんだ」
「…そうなんだ」
僕がかろうじて搾り出した返答に、満足そうに、今までで一番綺麗な顔で、微笑んだ。
「うん」
彼はそれ以上、言葉を紡ぐ必死さを持ち合わせていないようだった。
「…なんで、僕にそんなこと言ったの?」
僕は繊細さを壊す恐れより、この繊細な花に何もしないで帰してしまう方がよほど怖くて、そう聞いた。
「なんかさ、」
遠くを眺めて、それから弾けるように破顔して、僕に向かって言った。
「クラスの中で君だけは、俺のこと分かってくれてそうだったから」
「…そうなんだ」僕は呟いた。
「それじゃ」僕をおいて、時計を見上げて、立ち上がる。
その背中に僕は、声をかけたんだ。
「また明日ね」
振り向いたその顔は、悲しそうで、優しくて、どうしようもないくらい美しくて。
僕はただ、ああ、何を言っても、造花はもう割れるんだ、そう思った。
「…ん」
それだけ答えて、彼は夕焼けの中に消えていった。
あれから二度と、彼と話すことはなかった。
繊細な花が使っていたあの机には、水に生けられて生き生きとした白菊が陣取るようになった。
造花を囲んでいた花たちが、繊細な花の死を悼み、乗り越えて生きるために、啜り泣き、学校を休み、やるせなさを吐き捨てた。
僕は毎日学校に行った。
僕は、何もせず、今までと変わらない日常を生きながら、時々、繊細な花の最後の笑顔を思い出した。
あれが、繊細な造花の満開だったのかもしれない。
今はただ、ぼんやりとそう思う。