君と初めて会ったあの日を覚えてる。
その日は、分厚い灰色の雲が立ち込めて、蒸したまとわりつくような空気が立ち込めていた。
降っているかも分からないポツポツとした雨粒が、波間に滴っていた。
君は、折れそうなほどに細い足を、ふんわり膨らむスカートから剥き出して、柔らかな素足を湿りつつある砂浜につけて、じっと水平線の方を眺めていた。
上品な帽子を押さえて、強くなる風に髪を靡かせて。
見た目よりもずっと高そうな小さいカバンが、傍に立っていた。
それで、声をかけたんだ。
君の手を握って、砂浜を後にして。
君が後部座席の真ん中で、傷だらけの足をぷらぷらと宙に浮かせた時、堰を切ったように、土砂降りの雨が降ってきた。
轟々と唸る風と、フロントに激しく叩きつける雨音を聞きながら、エンジンを軋ませた。
雨は、君と僕の邂逅を、周囲の目から洗い流したかのようだった。
辺鄙な僕の山小屋で、君の足を洗った。
それから、君の家へダイヤルを回そうとして、はたと手が止まった。
君の傷だらけの裸足と、折れそうな手足と、水に足をつけるたびに微かに歪む、昏い瞳が脳裏に焼き付いて。
君と過ごした日を覚えてる。
一緒に食卓について、粗末な食事を囲んだこと。
黴臭いクレヨンを使って、壁中に夢中で絵を描いたこと。
仕舞い込んでいた絵本の埃を払って、せーので開いたこと。
布団にくるんだ君が眠るまで、調子外れな子守唄を歌ったこと。
君と別れると決めた日を覚えてる。
もう使わないと封印していたスマホの電源を入れたあの瞬間を。
君を起こさないように声を顰めて、全てを打ち明けた時の微妙な気持ちも。
靴箱の隅に仕舞い込んでいた小さな靴を君に履かせて、君の手を握って、最初で最後のお出かけをした時の空を。
君は、埃臭くてくたびれたぬいぐるみを大切そうに抱いて、後部座席で靴をはめた足をぷらぷらと宙に浮かせた。
君と最後に会った日。
海は、同じ場所の筈なのに、澄んだ青空を写していた。
君が車から降りて。
まもなく、優しげな大人に手を引かれていった。
僕はどこかホッとした、肩の荷が下りた気分で君を見送った。
涙を流すことはなかった。
あの子と君は違うから。君は僕の子ではなかったから。
君にはまだ未来があるから。
君は何も知らずに僕に会って、何も知らずに別れて、君の人生を生きていく、それが僕の願いだったから。
肩に手を置かれて、頷いた。
君が離れていった方を眺めながら、僕は両手を差し出した。
君はこれから、輝かしくはないかもしれないけれど、大変だけど、それでも自由に生きられるところへ行くんだ。
僕に会う前の哀しくさもしい人生でも、僕と会ってからの不自由なぬるま湯のような人生でもない。
君の本当の人生を歩んでほしいのだ。
僕の子の分まで。
僕との生活は忘れてほしい。
我が子を亡くした海で、自暴自棄と中途半端な正義感に駆られて君を攫った、僕との生活なんて。
でも、もし願うことが許されるなら。
君がいつか気づいてくれたら嬉しい。
これが、僕が君と最後に会った日だったのだ、と。
もう二度と会うことはないのだから。
優しい風が吹いた。
警官が、僕の肩を優しく押した。
空も、海も、清々しく青かった。
6/26/2024, 12:13:48 PM