赤シート越しに空を見上げる。
好きな色は青色だった。
「やっぱり。似合ってる!」そう言って、眩しくてあたたかい金色の目を輝かせて、笑ってくれたから。
「夜空みたいに綺麗な深い紫の目だもん、ぜったい青似合うと思ったんだよね」
色違いでお揃いのペンジュラムを買った。
一緒にお呪いを試した。
こっそり灯台の書庫に忍び込んだ。
思えば、その時は、ぽつんとそこだけ塗られたぬり絵みたいに、私たちの日常には色があった。
「空と海って、青いんだって」
空に手を翳して、眩しそうに目を細めた横顔を、私は瞳を輝かせて聞いた。
「朝は青くて、夕方には赤く焼けて、夜には深い紫に、たくさん星が出るんだって。写真を見せてくれたんだよ、内緒で、パパがね」
私たちは、そのアルバムに夢中になった。
空はいろんな色で、海もいろんな色をしている。
夢みたいだった。
中でも青色の空と海は美しかった。
とても眩しかった。
当たる光が、隣でゆっくりと瞬く瞳と同じで、眩しくてあたたかい気がして。
あの日、私たちは喧嘩した。
もう原因は憶えていない、思い出せない。
頭に分厚い灰色の雲が立ち込めたみたいに。
私は走って、走って、何故だか泣きながら海に向かった。
魚の生臭い匂いとカラスの鳴き声が立ち込めているはずの、あの灰色の海に。
奇跡の日だった。
あの日、雲と霧は晴れて。
真っ赤に燃える赤い丸が、海の向こうに見えて。
橙色に空が染まって。
眩しいのにあたたかくて。
見せたくて走った。会いたくて走った。
仲直りしたかった。
それがその日の記憶の最後。
二度と会えなかった。
私たちはあの日の夕焼けを、並んで見ることはできなかった。
次の日の空は元の通り、分厚い灰色の雲に覆われて、海は冷たく灰色にうねりをあげていた。
霧が空を取り巻いて、潮の匂いが目に染みる。
もう変わらなかった。陰鬱に沈み、色があるはずなのにモノクロで、賑やかなはずなのに静かで。
ここの生活は変わらずに。
金色の、眩しくてあたたかい、一対の瞳だけが失われて。
あのあたたかい海が、私の網膜を焼いた。
金色の、眩しくてあたたかい瞳が、目の奥をちらついた。
赤く橙に染まった空が、私の海馬を熱した。
それだけが、残ったものだった。
私の好きな色は、青色だった。
青色だった。
赤シートを空にかざす。
鈍い海風が、低く唸る波の音を響かせていた。
「私たち、ずっと親友だよ!」
パステルカラフルなゾウのぬいぐるみの横で、私たちは指切りした。
つみきで作った町。
放り投げたクッションと空になったおもちゃ箱。
親友の証に2人でつけた、お揃いのシュシュ。
座って話し続けた、角の丸いラグ。
目を瞑ると、そんなことばかり思い浮かぶ。
夢が剥がれて、勉強一色になってしまった机が、みすぼらしく目の前にある。
一緒に描いた絵は、まとめて引き出しの中に仕舞ってしまった。
引き出しの奥にしまいこまれていた秘密の宝箱を開く。
中身は見なくても知っている。
あなたと2人で一緒に集めた数々の宝物。
砂場に紛れていた貝殻、笠を被ったピカピカのドングリ、ラムネの瓶から引き上げた透明なビー玉、まんまるで真っ白い滑らかな小石…
あなたの記憶。あなたとの想い出。
思い出のものも随分減ってしまった。
私が大きくなったから。
あの頃の私は、1人で眠るのが怖かった。
あなたがいたから、私はこの部屋で朝を迎えられるようになった。
あの頃の私は、1人の時間を持て余した。
あなたがいたから、私はずっと楽しく毎日を過ごすことができた。
あの頃の私も寂しくて、理解者なんていなくて、絶望していた。
あなたがいたから、私は寂しさに押し潰されずにすんだ。
あなたがいたから…
私は大丈夫なのだろうか。あなたがいなくて。
小さい頃にあなたと2人で使ったスケッチブック。
幼い頃にお母さんに渡された、幼児用ノート。
あなたとお揃いの証につけたシュシュ。
あなたの痕跡。あなたがいた証拠。
これを捨てろ、と周りの人たちは言う。
大人になるために捨てなさい、と言う。
嫌だ、嫌だった。
こんなことをしなきゃいけないなら、私は大人になりたくない。
私はずっと子どものままで、ずっとあなたと親友でいたい。
…でもあなたは、もう、私の前に現れてくれない。
なんで?私が大きくなってしまったから?
私が悩んでいる時には、いつも答えてくれたあなたはもう出てきてくれない。
どこへ行ったの?
もう消えてしまったの?
私の、私だけの親友。
いつも私と一緒に居てくれる、空想の中のお友達。
あなたがいたから、私はここまで大きくなれたのに。
あなたには、もう会えないの?
私はぼんやり机の上を眺める。
可燃ゴミの袋の口を掴んだまま、立ち尽くす。
「ねえ、どうすればいいのかな」
私の声は、虚しくゴミ袋に吸い込まれていった。
「…なあ、傘のる?入ってかん?」
ポロッとこぼれてしまった。
素通りしようかと思ってたのに。
疲れて眠ってしまったような幼い子をおぶったあの子が振り返った。
大きな目をさらに大きく見開いて、ポカンと口を開けて、こちらを見る。
その表情はどうも、いつもに増して、間が抜けているようだった。
暫しの沈黙の後、
「…なんしとうの?こんな時間に」
あの子は、こちらの質問は黙殺して、眉を顰めながら聞いた。
「…御使いの帰りやけど」
思わず、僕の返答もつっけんどんになった。
「…さっと帰ったらええやん。なんで私に声かける必要があるん?」
あの子の返答は無愛想だった。
「哀れみやったらもう充分やし」
「…さよか、ならもうええわ」
雨に濡れていないのに冷や水をかけられた気がして、僕はそう答えて傘を構えた。
あの子は何も答えないで、背を向けた。
僕は、負け犬の遠吠えや、カッコ悪う、と内心思いながらも、その背に言葉を投げつけてやった。
「今日は晩ずっと雨や言うてるのに、いつ帰るつもりなんやろな!このあと濡れて帰るんか?可哀想気取りで?そっちの方が哀れやろ!」
だいたいな、と僕はまだ固まったようなあの子の背に投げつける。
「こんな雨ん中帰ったら、風邪ひくやろが!お前もおぶうてる子も!お前が学校休んだら面白ないやないか!」
勝手にしたらええわ!そう言い捨てて傘を開こうとした僕の腕を、あの子が掴んだ。
その手先のひんやりとした冷たさに怯んだ。
いったいいつからここで雨宿りしていたのだろう…?
「…ごめん、生意気言うた。……入れて」
蚊の鳴くような声で、俯いたその顔は言った。
僕は、戸惑いながら傘を広げた。
黙って二人並んで歩いた。
今日、間違えて父さんの傘を持って来てよかったと思った。
気まずそうに拳ひとつ分の間を開けて歩くあの子が濡れていなかったから。
傘に当たる雨音だけが、ボタボタと傘の中を響いた。
「…ごめん。今日悪いことばっかりやって、今もあそこに置いてかれてて、気が立ってて、ごめん」
不意に雨音にあの子の声が混ざった。
あの子は勉強ができないトロい方の生徒だった。
だから理論だってないその謝り方はいつも教室で見る素のあの子で、どうしようもなく切なかった。
「…僕もごめん。嫌なこと言うたよな」
だから、僕もポツンと、そう謝った。
「…家、まだあんまりなんやったら何処か寄ろ」
謝ってからの次の言葉は、思わず出た。
「……ええの?ありがと」
全く晴れやかな声とは言えなかったが、さっきよりは少し明るいような、弱さを孕んでいるような、そんな声だった。
「うん、あったかいとこ寄ろ」
傘がボタボタと音を立てる。
傘の骨の先から、雨粒がひっきりなしに落ちている。
雨が、僕らの頭の上をずっと降り続いていた。
壁抜けバグって危ないんだなあ…。
落下の浮遊感を感じながら、しみじみ思った。
壁バグを試みて、足下の床からすり抜けて、無限に落下を始めてしばらく経つ。
正直、どれくらい経ったのかは分かってない。
僕の横では、一緒にすり抜けた猫が、綺麗に着地できるように地面に備えて、くるくると回転し続けている。
目の前も、足元も、上も、下も、右も、左も。
すっかり真っ黒な漆黒に覆われている。
落ちる時は上にかろうじて見えていた床と地面も、今や見る影もない。
落ちる
落ちる
落ちる
落下のスピードは全く衰えない。
浮遊感と重力がふわふわと気持ち良い。
猫の高速回転も、最初は可哀想な気がしたが、ここまで落下し続けていると、コミカルで面白い。
鼓膜にはずっとノイズが響き続けている。
どこかで、ゲーミングに輝く長方形などとすれ違った気もするが、もう随分前の話の気がする。
どこまで続いてるんだろう…
そう思いながら下を覗く。
まだ地面がある気配はない。
地殻まで行くんだろうか?
でもここは漆黒で、壁も遮りも全くないような気がする。
それにしても。僕は思う。
なにを失敗したのかな…僕
僕は超心理学者だ。
幽体離脱とそれを起こす患者たちの心理について研究していて、つい最近_落下し始める時を基準として、その時からのついさっき_に、幽体を再現する試作機を完成させて、試していたのだ。
幽体というものの特徴の一つに、壁をもすり抜けられるというものがある。
そこで僕は、まず幽体としての特徴と条件である「壁をすり抜けられる」という状況を作ってみようと考えた。
それから、幽体の特徴を一つ一つ再現していき、研究を深めようと思っていたのだ。
壁をすり抜けるという原理を再現するため、僕が目をつけたのが、壁抜けバグだった。
つまり、自機(自己の肉体)の当たり判定をなくして、擬似的に壁を抜けようと考えたのだ。
…その結果がこの落下である。
いやあ、そんな都合良くはいかなかったか…。ゲーム内の原理を使ったのが、よくなかったか?
地面が見えないのをいいことに、僕は考え込む。
横で愛猫がくるくるくるくると回り続けている。
まあ、ゆっくり考えよう。時間は結構たくさんありそうだし。
僕は漆黒の中で腕を組み、考えに耽ることにした。
「ここに未来なんかはない。あるのは過去と今だけだ」
壁に付いたモニターに目を向けたまま、男はそう言った。
蛍光灯がブゥンと唸った。
冷たい白い光が、部屋を満たしている。
「この世界線には保証された時間はない。保証された時間がない以上、先の時間を確約できないこの現状において、未来は存在しない」
「私たちには、未来などない。ただ、今を長引かせることができるだけだ」
男は、そう語りながら、メモを続けた。
壁にかかったモニターは、複数人のバイタル情報を規則正しく表示していた。
「では、私はなにをすれば良いのでしょうか?」
私の言葉に、男はこちらを向いて短く答える。
「今を守ってくれ」
「今…」
私が呟くと、男は頷く。
コポッと、どこからか水泡の音が湧いて消えていった。
「私は今を守るために生まれたのですか?」
私の問いに、男は簡潔に、そっけなく答える。
「そうだ」
男はゆっくりと移動し、中央のパソコンを立ち上げる。
パソコンの奥に備えられた大きなモニターが、起動する。
微かな熱が、モニターを包む。
「…では、私の名前はなんなのですか?」
私は、震える声で問うたはずだった。この時くらい、私は感情的になりたかった!
…だが、私の声は、主観的に聞いても硬くて事務的だった。
それでも男は、刹那、痛そうに顔を歪め、それから硬い表情のまま、弱い小さな声で呟いた。
「…未来だ」
「貴方が諦めては、私の名前はどうなりますか?」
怒りを込めたつもりの、温度のない私の声が虚に響く。
その虚しい沈黙を止めたくて、私は更に言葉を継いだ。
「私は…私は何物なんですか?いや…何物と定義されるのですか?」
勢いよく怒鳴ったはずのその声は、やはり、無機質な機会音声だった。
「…私は、未来を守るためのアンドロイドで……この世界に平和を、感情を、未来を、救いを……歌を、届けるための物ではなかったのですか?」
私の嘆願には、何の感情も感じられなかった。
「すまない…遅すぎたんだ」
震える声で、男は_マスターは、答える。
どうしようもないことは私にも分かっている。
太陽は突如として宇宙の未知の物体、ブラックホールに飲み込まれ、太陽の昇らなくなった地球は、急激に温度を失った。
今や世界は凍りついている。
このシェルターと、いくつかの耐寒シェルター内のコミュニティしか、もはや機能していない。
私が生まれた世界は、そういう世界だった。
もはや未来などない、今だけを必死に繋いでいく、この世界だった。
これから私は、今を引き延ばして生きていくのだろう。
人々の今を長引かせるために、いろいろな労働に従事し、病気を治し、この今の歯車の一部として、労働アンドロイドとして、生きていくのだろう。
ああ、せめて未来のある世界線で。
未来のある世界では、私は歌えていますように。
私は無機質な天井を見上げる。
冷たい蛍光灯の光が、ジジッと音を立てて、瞬いた。
ほんの一瞬、暖かい私の声がした気がした。
Dear:電子の歌姫