薄墨

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「…なあ、傘のる?入ってかん?」
ポロッとこぼれてしまった。
素通りしようかと思ってたのに。

疲れて眠ってしまったような幼い子をおぶったあの子が振り返った。
大きな目をさらに大きく見開いて、ポカンと口を開けて、こちらを見る。
その表情はどうも、いつもに増して、間が抜けているようだった。

暫しの沈黙の後、
「…なんしとうの?こんな時間に」
あの子は、こちらの質問は黙殺して、眉を顰めながら聞いた。

「…御使いの帰りやけど」
思わず、僕の返答もつっけんどんになった。

「…さっと帰ったらええやん。なんで私に声かける必要があるん?」
あの子の返答は無愛想だった。
「哀れみやったらもう充分やし」
「…さよか、ならもうええわ」
雨に濡れていないのに冷や水をかけられた気がして、僕はそう答えて傘を構えた。

あの子は何も答えないで、背を向けた。
僕は、負け犬の遠吠えや、カッコ悪う、と内心思いながらも、その背に言葉を投げつけてやった。
「今日は晩ずっと雨や言うてるのに、いつ帰るつもりなんやろな!このあと濡れて帰るんか?可哀想気取りで?そっちの方が哀れやろ!」
だいたいな、と僕はまだ固まったようなあの子の背に投げつける。

「こんな雨ん中帰ったら、風邪ひくやろが!お前もおぶうてる子も!お前が学校休んだら面白ないやないか!」
勝手にしたらええわ!そう言い捨てて傘を開こうとした僕の腕を、あの子が掴んだ。

その手先のひんやりとした冷たさに怯んだ。
いったいいつからここで雨宿りしていたのだろう…?

「…ごめん、生意気言うた。……入れて」
蚊の鳴くような声で、俯いたその顔は言った。
僕は、戸惑いながら傘を広げた。

黙って二人並んで歩いた。
今日、間違えて父さんの傘を持って来てよかったと思った。
気まずそうに拳ひとつ分の間を開けて歩くあの子が濡れていなかったから。

傘に当たる雨音だけが、ボタボタと傘の中を響いた。

「…ごめん。今日悪いことばっかりやって、今もあそこに置いてかれてて、気が立ってて、ごめん」
不意に雨音にあの子の声が混ざった。

あの子は勉強ができないトロい方の生徒だった。
だから理論だってないその謝り方はいつも教室で見る素のあの子で、どうしようもなく切なかった。
「…僕もごめん。嫌なこと言うたよな」

だから、僕もポツンと、そう謝った。

「…家、まだあんまりなんやったら何処か寄ろ」
謝ってからの次の言葉は、思わず出た。
「……ええの?ありがと」
全く晴れやかな声とは言えなかったが、さっきよりは少し明るいような、弱さを孕んでいるような、そんな声だった。

「うん、あったかいとこ寄ろ」

傘がボタボタと音を立てる。
傘の骨の先から、雨粒がひっきりなしに落ちている。
雨が、僕らの頭の上をずっと降り続いていた。

6/19/2024, 12:49:15 PM