“犬”が駆けてくる。
ピンと立てた大きな耳を靡かせて、二つの舌をペロンと出して、金色の毛並みを煌めかせて。
八本の足をばたつかせて、二つの尻尾をぶんぶんと振り回しながらこちらにぶつかってくる。
可愛い奴だ。
それぞれの頭を一撫してやると、尻尾をくるくると回しながら、犬は足元に座り込んだ。
1年前。
この犬と出会ったのは1年前だった。
石炭と蒸気を纏ったこの土竜と呼ばれた町に、“猫”が初めて出たあの日。
全てを舐める炎のような赤々とした毛並みを持つ、巨大な怪物の“猫”は、錆びついた町を焼き尽くして、破壊尽くした。
石炭に引火した炎は次々と燃え移り、全てを灰にしてまわった。
猫の毛並みと炎が映し出す影だけが、崩れ去った廃虚の中で黒黒と存在していた。
消し炭になった町を、私たちは逃げ回った。
そんな時に見つけたのだ。
灰に埋もれて、黒焦げになりながら蹲り、息をする双子の幼いものを。
石炭層の中に埋もれた金色の鉱石の粒を。
私はそれを、持って逃げた。
燃えない素材と、未熟な脳を、持ち帰ったのだ。
生き残った私たちは、炭坑の奥で猫に怯えながら、石炭を取り、少しずつ復旧を進め…光を恐れ、見ることを拒否する、臆病な人類となった。
まさしく“土竜”だ。
私は炭坑の奥に籠って、研究を続けた。
黒焦げの生き物を存命させる方法を、
生き物の代謝機能と防衛機能を再現する方法を、
あの日灰の中で輝いていた、燃えない鉱石の特性を。
そして、私の拾った二つの黒焦げな生命は、最近になってついに身体を手に入れたのだ。
燃えない金鉱石に包まれ、石炭と水で生命を保つ、犬の身体を。
犬は嬉しそうに頭を擦り付けてくる。
私はその頭をゆっくり、優しく撫でてやる。
「長かったか?…動き回れるようになって良かったな」
私の言葉を理解しているのだろう、犬ははしゃぎながら大きく尻尾を振り回す。
爪が床をかしゃかしゃと滑る。
私たちは町を取り戻すのだ。
失われた光を、空を、技術を取り戻すのだ。
…そんな、私の生涯の目標が決まったのが1年前だったのだ。
耳を包み込むくらいに手をいっぱいに広げ、犬の頭を何度も撫でてやる。
「お前、これから忙しくなるぞ?お前が初号機で、リーダーなんだからな。…頼むぞ?」
目を合わせて問いかける。
犬は幼い子どものような、柔らかな茶色い瞳を煌めかせて、幼児の様に無邪気な笑顔を浮かべて、「わん!」と答えた。
「好きな本はなんですか?」
その質問を聞いて、私は笑顔のまま凍りついた。
途端に、気持ちが冷凍庫に放り込んだご飯のように、すうっと冷める。
同時に理解する。この男は読書家ではない。
初対面だぞ、私ら。
込み上げてきたその言葉を飲み下して、私は聞いた。
「貴方はどんな本を読まれるんですか?」
「僕はですね!…社会人になってからというもの、結構実用書を読むなあ…」
自慢げに男が挙げたタイトルは、どれも何十万冊も売り上げた話題の本ばかりだった。
うわ、つまらねえ。
口元まで湧き上がってきた言葉を飲み込む。
別に、話題の本はつまらなくない。
話題の本を読むのが悪いわけではない。
話題になったり、誰もが買ったりする人気本はやはり、それなりに傑作だし、傑作でなくとも、その時代に沿っていたり、時制のニーズを捉えていたりで、駄作だとしても十分楽しめる。
だが、その本質を楽しむわけでもなく、まるで自分に酔っ払ったようにただ流行を追いかけて、そのタイトルだけを自慢げに目の前の女に披露する、その鼻持ちならないインテリ気取りがつまらねえ。
私は黙って、手元の肉を切り分ける。
パートナー探しとはなんとつまらないものだろうか。
世間の人々は恋愛に夢中で、多数の人々はある程度の年齢になると、こぞって結婚報告を待ち望む。
そして、婚活だの、恋活だの、意気揚々と話し合う。
蚊帳の外に出た人間に対しては、もう良い年なんだから、と決まってそれらをせっつく。
そこまでのものとはいったいどんなに楽しいんだ、そう思ってマッチングアプリを始めてみたら、コレである。
つまらない。会う男、会う男つまらねえ。
趣味は読書とプロフィール欄に書いていれば、大抵の人間は判を押したように同じ質問をする。
「好きな本はなんですか?」
早いんだよ!と怒鳴りたくなる。
活字中毒バリの読書家にとって、好きな本とは何千何万冊の中のほんの一握り。
それに感じたものが、衝撃だろうと、心地よさだろうと、面白さだろうと、その本は、自分の心の奥深い、柔らかいところに刺し込んできた本だ。
つまり、自分の本質を形成している本なのだ。
そんなものを出会った数秒の、まだ敵とも味方とも、真面目とも下心を持っているとも分からない、目の前の奴に曝け出せるだろうか?
いや、できない。
そしてそういう人間に限って、自分の読書歴は声を張り上げて発表したがる。
そういうところも神経を逆撫でする。
お前が好きなのはその本ではなくて、その本が好きなお前だろ!
腹から迫り上がってくる言葉を押し込める。
勢い余った手がグラスに触れ、カチンと音が鳴る。
そそっかしいところあるんだね、目を細めて奴が言う。
私は曖昧に微笑んで、それを黙殺する。
心の内では、何度目かも分からない溜息が漏れている。
退屈な時間は恐ろしく長く感じた。
次のお誘いを丁重にお断りした帰り道、思わず、天を仰ぐ。
空には、雲に隠れた月の端が、小さな三角形に見えている。
家に向かって歩き出す。
「…プロフィール欄の趣味、もう別のにしようかな」
そんな私の、つまらない呟きを、黒く霞んだ雲だけが聴いていた。
空に手をかざす。
青とも赤とも白ともつかない、うっすらと焼けた儚い空が、透けて見える。
僕は両足で立っている。
立っているはずだ。
地面は遥かに広がって、入り混じっている。
前にも後ろにも右にも左にも。
ただただ広い空間が広がっている。
地平線はもうない。
空と陸と海は混じり合って、境界線は存在しない。
僕の、上にも下にも後ろにも。
あいまいな空が際限なく広がっている。
「名前なんて消えて終えばいい」
絶望に打ちひしがれた帰り道、僕の口からこぼれ出たヤケみたいな願い。
誰の目にも触れないような、奥まった土地に鎮座する、古ぼけた鳥居と荒れ果てた社の主は、そんな願いを聞き入れた。
全てのものから、名前は消えた。
名前は儚く霧散して、名前によって、自分と他人、外と内に、引かれていた境界線も消え失せた。
「空」は空という名前を失って、陸と同化した。
「陸」は陸いう名前を失って、空と混ざり合った。
「海」は海という名前を失って、空と陸に溶け込んだ。
全てが全てになった。
全てのものから名前が消えた。
「ビル」はビルではなくなって、全てに呑み込まれた。
「道」は道ではなくなって、全てに沈み込んだ。
「港」は港ではなくなって、全てに潜り込んだ。
全てが全てになった。
全てのものの境界線は消えた。
「鳩」は全ての染みになった。
「犬」は全ての影になった。
「魚」は全ての皺になった。
全てが全てになった。
僕も、君も、彼も、彼女もなく、僕たちは人間で、人間という線引きもなくなって、全ては全てに全てとなった。
…願い主に、願いが叶ったところを見せる決まりでもあるのだろうか、全てが歪んで、混じり合い、結合し、一言も発することなく、境界を超えて瓦解する中で、僕だけが、「僕」だった。
その時にやっと僕は気づいた。
言葉は全て名前だった。
あいまいな言葉も、あいまいな定義も、あいまいな区別も。
その現象や物を指し示す名前が言葉だった。
全てのものに境界線を引き、分かりやすく指し示す名前で、それが言葉で。
それが世界から無くなれば、全ては全てとしか有り得なくなり、全てに呑み込まれるということを。
それに気づくのが、あまりに遅すぎた。
僕の体はすでに溶け込み始めている。
僕の体は全てに滲んで、溶け込んで、体が軽い。透明にも思える。
僕も、全てになる時が来たのだ。
僕はかろうじてわかる自分の右手を伸ばす。
色彩の薄くなった右手の甲は、あいまいな空模様を透かして、瞳に映す。
あいまいな空だ。
僕の脳裏はそう告げる。
これは全てかもしれないが、僕にとってはあいまいな空だ。
最期の人類の僕が名付ける。
これは「あいまいな空」。
指先が、ゆっくりと、あいまいな空に溶け込んでゆく。
あいまいな空は、白くぼんやりと、どこまでも、どこまでも、どこまでも、広がっていた。
あじさいは幾何学的だ。
花弁ひとつひとつは、折り紙を思わせるきっちりとした菱形で、規則正しく並んでいる。
あじさいは科学的だ。
土のph濃度がアルカリ性寄りならピンク、酸性寄りなら青く咲く。
あじさいはモザイク壁画に似ている。
律儀な菱形の花弁は、規則正しく集まって並び、丸いあじさい独特の形を型作っている。
リトマス試験紙で作ったモザイク壁画みたいなものだ。
あじさいには雨が似合う。
道の端に植えられたあじさいは、雨を一身に浴びながら、その雨粒を生き生きと煌めかせて、柔らかく映えている。
雨に濡れると惨めでみすぼらしくなる私とは、全く正反対だと思う。
顔に張り付く髪を払いながら、私はゆっくりと道を歩く。
傘をさした同級生が横を通り過ぎてゆく。
私は不均等だ。
家族関係は歪だし、友人もあまりいない。
得意不得意が激しいし、なにより脚が均等じゃない。
私は非科学的だ。
非合理的なことを平気でする。
わざと雨に濡れるし、外部の変化に対して鈍い。
私はモザイク壁画に向いていない。
協調性がないんだと思う。
クラスにも学校にも家庭にも馴染めない。
私は良い子ではない。
でも、困ったことに、私はそのことをさして不幸だとは思ったことがない。
あじさいの葉脈の上を、飴色のカタツムリがゆっくりと這っている。
空を見上げる。
春雨のように細くて銀透明な、でも春雨よりは遥かに重量のある水が、灰色の空からパラパラと落ちてくる。
私は雨が好きだ。
雨は、不思議で、美しくて、優しくて、柔らかい。
雨粒に濡れて、体の恒常性の温みを感じていると、薄くて柔らかな潤いのあるバリアに守られている気がする。
そっと、雨に手をかざす。
続く悪天候にイライラしているのか、今日はいつもよりたくさんの、周りの人の視線が、バリアに突き刺さる。
梅雨の素敵さが分からないなんて、少し可哀想だ。
あの人たちは、あじさいの美しさも、雨粒を見上げた時の不思議さも、体温を戻そうとする指先の温さも、濡れたプラスチックの接合部から伝う冷たい優しさも、閉じた傘の柄を流れる雨粒の柔らかさも、知らないまま生きていくのだ。
あじさいは規則正しく咲いている。
あじさいの根元を、鮮やかな黄緑のアマガエルが跳ねている。
あじさいの葉は、雨粒の重みに垂れている。
盛り上がった葉脈を、カタツムリが這っている。
雨粒が温かい頬を伝う。
私は傘の柄を握りしめて、歩き出す。
プラスチックに変わった脚が、ギギィと軋む。
あじさいの花壇は、ずっと続いている。
雨はどんなものにも、優しく、平等に、降り注いでいた。
「私、それは嫌いだわ」
彼女は淡い鳶色の目を伏せながら、口を開いた。
「付き合いきれないわ」
風が雨戸をガタピシ言わせる。
吊り下げられたままの風鈴が、体を捩って、ちりりりと鳴いた。
僕は文机にあげた鮨を一つ取り上げて、口に放る。
左手元に置いたラムネ瓶を握り、傾ける。
噛み砕いた鮨をラムネでひと通り呑みこむと、ゆっくりと応える。
「鮨にラムネは嫌?」
「当たり前でしょ」
彼女はこちらに目線を投げつけて、言葉尻に掴み掛からんばかりに答える。
「ご飯には、味を邪魔しない、濃くない飲み物を合わせるのが相場というものよ。甘ったるい…ましてやラムネなんてもってのほか。せっかくのお鮨がもったいないわ」
雨が降っているというのに、やけに暑い。
蒸し風呂のような湿った空気が、じっとりとまとわりつく。
彼女は、汗ばんだ麦茶のグラスを持ち上げて、立ち上がる。
喉を鳴らして麦茶を飲み干しながら、居間の扇風機のスイッチを押す。
「クーラーはつけないのかい?」
「クーラーの風は冷たすぎて嫌い。今日はまだ扇風機で十分でしょう」
彼女は私の向かいに戻ってきて、鮨を一つ摘んだ。
雨音が遠く聞こえる。
雨音も風音もあるのに、快晴よりも沈黙が強い存在感を放つのは何故だろう。
「ねえ」僕はラムネから口を離して、言葉を放る。
ラムネの中のビー玉が、からり、と音を立てる。
「君は随分、好き嫌いが多いね」
「好き嫌いが多い人は嫌?」
彼女は、微笑みながら、でも瞳の奥に一抹の不安を過らせながら、こちらを見つめる。
僕は目を伏せて、軽く笑う。
「いや。好き嫌いが多い人間の方が僕は好きだよ」
「どういう理屈?」僕を見返した彼女の瞳の奥がそう聞いた。
「好き嫌いがあるってことは、嫌いなものの存在も認めてるってことだ。嫌いなものだから視界に入れない、嫌いだから知らない、そんなことをせずにきちんと、嫌いなものがあるって事実を認めてるってことだ。」
現に、君は僕の食い合わせに文句は言っても、無理にやめさせようとはしないだろ?
僕はそう継ぎ足してから、ラムネで口を湿らせる。
「だから、好き嫌いがある人って、強くて素敵な人間だと思うし、僕は好きだよ」
彼女が目を細める。
「変わった人」
「変わってるさ、自分で死にかけた人間なんだから」
僕は先日、自死をしかけた。
理由は、明確には言えない。ただ、あの時は無性に死にたくて、切なくて、堪らなかったのだ。
「…そうだった。私もあなたも、変わってる人間だったわね」
彼女はしみじみと、遠くを眺めた。
彼女は透明人間だった。
無視され、見えないような扱いを受けて、ずっと生き抜いてきた。
雨は静かに降り続いている。
僕はラムネを一口含む。
君は鮨をゆっくりと頬張る。
彼女の手元に置かれたグラスは、じっとりと汗ばんでいる。
扇風機の唸り声が聞こえる。
雨は、いつまでも静寂を抱きながら、ジトジトと降り続いていた。