薄墨

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「私、それは嫌いだわ」
彼女は淡い鳶色の目を伏せながら、口を開いた。
「付き合いきれないわ」

風が雨戸をガタピシ言わせる。
吊り下げられたままの風鈴が、体を捩って、ちりりりと鳴いた。

僕は文机にあげた鮨を一つ取り上げて、口に放る。
左手元に置いたラムネ瓶を握り、傾ける。
噛み砕いた鮨をラムネでひと通り呑みこむと、ゆっくりと応える。

「鮨にラムネは嫌?」
「当たり前でしょ」
彼女はこちらに目線を投げつけて、言葉尻に掴み掛からんばかりに答える。
「ご飯には、味を邪魔しない、濃くない飲み物を合わせるのが相場というものよ。甘ったるい…ましてやラムネなんてもってのほか。せっかくのお鮨がもったいないわ」

雨が降っているというのに、やけに暑い。
蒸し風呂のような湿った空気が、じっとりとまとわりつく。

彼女は、汗ばんだ麦茶のグラスを持ち上げて、立ち上がる。
喉を鳴らして麦茶を飲み干しながら、居間の扇風機のスイッチを押す。

「クーラーはつけないのかい?」
「クーラーの風は冷たすぎて嫌い。今日はまだ扇風機で十分でしょう」

彼女は私の向かいに戻ってきて、鮨を一つ摘んだ。

雨音が遠く聞こえる。
雨音も風音もあるのに、快晴よりも沈黙が強い存在感を放つのは何故だろう。

「ねえ」僕はラムネから口を離して、言葉を放る。
ラムネの中のビー玉が、からり、と音を立てる。

「君は随分、好き嫌いが多いね」
「好き嫌いが多い人は嫌?」
彼女は、微笑みながら、でも瞳の奥に一抹の不安を過らせながら、こちらを見つめる。

僕は目を伏せて、軽く笑う。
「いや。好き嫌いが多い人間の方が僕は好きだよ」
「どういう理屈?」僕を見返した彼女の瞳の奥がそう聞いた。

「好き嫌いがあるってことは、嫌いなものの存在も認めてるってことだ。嫌いなものだから視界に入れない、嫌いだから知らない、そんなことをせずにきちんと、嫌いなものがあるって事実を認めてるってことだ。」
現に、君は僕の食い合わせに文句は言っても、無理にやめさせようとはしないだろ?
僕はそう継ぎ足してから、ラムネで口を湿らせる。
「だから、好き嫌いがある人って、強くて素敵な人間だと思うし、僕は好きだよ」

彼女が目を細める。
「変わった人」
「変わってるさ、自分で死にかけた人間なんだから」

僕は先日、自死をしかけた。
理由は、明確には言えない。ただ、あの時は無性に死にたくて、切なくて、堪らなかったのだ。

「…そうだった。私もあなたも、変わってる人間だったわね」
彼女はしみじみと、遠くを眺めた。

彼女は透明人間だった。
無視され、見えないような扱いを受けて、ずっと生き抜いてきた。

雨は静かに降り続いている。
僕はラムネを一口含む。
君は鮨をゆっくりと頬張る。

彼女の手元に置かれたグラスは、じっとりと汗ばんでいる。
扇風機の唸り声が聞こえる。
雨は、いつまでも静寂を抱きながら、ジトジトと降り続いていた。

6/12/2024, 2:00:14 PM