「好きな本はなんですか?」
その質問を聞いて、私は笑顔のまま凍りついた。
途端に、気持ちが冷凍庫に放り込んだご飯のように、すうっと冷める。
同時に理解する。この男は読書家ではない。
初対面だぞ、私ら。
込み上げてきたその言葉を飲み下して、私は聞いた。
「貴方はどんな本を読まれるんですか?」
「僕はですね!…社会人になってからというもの、結構実用書を読むなあ…」
自慢げに男が挙げたタイトルは、どれも何十万冊も売り上げた話題の本ばかりだった。
うわ、つまらねえ。
口元まで湧き上がってきた言葉を飲み込む。
別に、話題の本はつまらなくない。
話題の本を読むのが悪いわけではない。
話題になったり、誰もが買ったりする人気本はやはり、それなりに傑作だし、傑作でなくとも、その時代に沿っていたり、時制のニーズを捉えていたりで、駄作だとしても十分楽しめる。
だが、その本質を楽しむわけでもなく、まるで自分に酔っ払ったようにただ流行を追いかけて、そのタイトルだけを自慢げに目の前の女に披露する、その鼻持ちならないインテリ気取りがつまらねえ。
私は黙って、手元の肉を切り分ける。
パートナー探しとはなんとつまらないものだろうか。
世間の人々は恋愛に夢中で、多数の人々はある程度の年齢になると、こぞって結婚報告を待ち望む。
そして、婚活だの、恋活だの、意気揚々と話し合う。
蚊帳の外に出た人間に対しては、もう良い年なんだから、と決まってそれらをせっつく。
そこまでのものとはいったいどんなに楽しいんだ、そう思ってマッチングアプリを始めてみたら、コレである。
つまらない。会う男、会う男つまらねえ。
趣味は読書とプロフィール欄に書いていれば、大抵の人間は判を押したように同じ質問をする。
「好きな本はなんですか?」
早いんだよ!と怒鳴りたくなる。
活字中毒バリの読書家にとって、好きな本とは何千何万冊の中のほんの一握り。
それに感じたものが、衝撃だろうと、心地よさだろうと、面白さだろうと、その本は、自分の心の奥深い、柔らかいところに刺し込んできた本だ。
つまり、自分の本質を形成している本なのだ。
そんなものを出会った数秒の、まだ敵とも味方とも、真面目とも下心を持っているとも分からない、目の前の奴に曝け出せるだろうか?
いや、できない。
そしてそういう人間に限って、自分の読書歴は声を張り上げて発表したがる。
そういうところも神経を逆撫でする。
お前が好きなのはその本ではなくて、その本が好きなお前だろ!
腹から迫り上がってくる言葉を押し込める。
勢い余った手がグラスに触れ、カチンと音が鳴る。
そそっかしいところあるんだね、目を細めて奴が言う。
私は曖昧に微笑んで、それを黙殺する。
心の内では、何度目かも分からない溜息が漏れている。
退屈な時間は恐ろしく長く感じた。
次のお誘いを丁重にお断りした帰り道、思わず、天を仰ぐ。
空には、雲に隠れた月の端が、小さな三角形に見えている。
家に向かって歩き出す。
「…プロフィール欄の趣味、もう別のにしようかな」
そんな私の、つまらない呟きを、黒く霞んだ雲だけが聴いていた。
6/15/2024, 2:14:23 PM