空に手をかざす。
青とも赤とも白ともつかない、うっすらと焼けた儚い空が、透けて見える。
僕は両足で立っている。
立っているはずだ。
地面は遥かに広がって、入り混じっている。
前にも後ろにも右にも左にも。
ただただ広い空間が広がっている。
地平線はもうない。
空と陸と海は混じり合って、境界線は存在しない。
僕の、上にも下にも後ろにも。
あいまいな空が際限なく広がっている。
「名前なんて消えて終えばいい」
絶望に打ちひしがれた帰り道、僕の口からこぼれ出たヤケみたいな願い。
誰の目にも触れないような、奥まった土地に鎮座する、古ぼけた鳥居と荒れ果てた社の主は、そんな願いを聞き入れた。
全てのものから、名前は消えた。
名前は儚く霧散して、名前によって、自分と他人、外と内に、引かれていた境界線も消え失せた。
「空」は空という名前を失って、陸と同化した。
「陸」は陸いう名前を失って、空と混ざり合った。
「海」は海という名前を失って、空と陸に溶け込んだ。
全てが全てになった。
全てのものから名前が消えた。
「ビル」はビルではなくなって、全てに呑み込まれた。
「道」は道ではなくなって、全てに沈み込んだ。
「港」は港ではなくなって、全てに潜り込んだ。
全てが全てになった。
全てのものの境界線は消えた。
「鳩」は全ての染みになった。
「犬」は全ての影になった。
「魚」は全ての皺になった。
全てが全てになった。
僕も、君も、彼も、彼女もなく、僕たちは人間で、人間という線引きもなくなって、全ては全てに全てとなった。
…願い主に、願いが叶ったところを見せる決まりでもあるのだろうか、全てが歪んで、混じり合い、結合し、一言も発することなく、境界を超えて瓦解する中で、僕だけが、「僕」だった。
その時にやっと僕は気づいた。
言葉は全て名前だった。
あいまいな言葉も、あいまいな定義も、あいまいな区別も。
その現象や物を指し示す名前が言葉だった。
全てのものに境界線を引き、分かりやすく指し示す名前で、それが言葉で。
それが世界から無くなれば、全ては全てとしか有り得なくなり、全てに呑み込まれるということを。
それに気づくのが、あまりに遅すぎた。
僕の体はすでに溶け込み始めている。
僕の体は全てに滲んで、溶け込んで、体が軽い。透明にも思える。
僕も、全てになる時が来たのだ。
僕はかろうじてわかる自分の右手を伸ばす。
色彩の薄くなった右手の甲は、あいまいな空模様を透かして、瞳に映す。
あいまいな空だ。
僕の脳裏はそう告げる。
これは全てかもしれないが、僕にとってはあいまいな空だ。
最期の人類の僕が名付ける。
これは「あいまいな空」。
指先が、ゆっくりと、あいまいな空に溶け込んでゆく。
あいまいな空は、白くぼんやりと、どこまでも、どこまでも、どこまでも、広がっていた。
6/14/2024, 12:56:06 PM