真っ白な部屋。
真っ白な、窓も、ドアもない静かな部屋。
真っ白でふかふかの毛布にくるまって、真っ白な壁を見つめる。
微睡がうつらうつらと脳を掠める。
温かい部屋。温かい食事。温かい愛。
ここには全てある。
もふもふのぬいぐるみも。真っ白な紙を束ねたスケッチブックも。丸く削られた鉛筆も。
ぼんやりと壁を眺める。
今、何時だろう。
この部屋に時計はない。
ベッドの傍らの小さなテーブルの上に、白いカップとソーサーが置かれている。
カップからは白い湯気が立っている。紅茶の葉の香りが漂っている。
私はコーヒーを飲めない。
だからこのカップの中味も紅茶なのだろう。
ここに来て何日経ったのだろう。
外から微かに雨の音が聞こえる。
軽く身体を揺する。
かちゃり、足についたままの鎖が音を立てる。
「…起きてたんだ。体調はどう?」
いつのまにか、彼女がこちらに微笑んでいた。
「うん、普通かな」
私が答えると、彼女は愛おしそうに目を細め、天使のように笑って、良かった、と囁く。
「外はまだ危ないから、ここにいてね」
私は黙って頷く。
そして渡されるまま、紅茶を啜る。
彼女が、私の何を気に入っていたのか分からない。
傷だらけで、でも守られるほどしおらしさも可愛げもなくて、常に素っ気なくてテキトーな私の何が、彼女の琴線に触れたのだろうか。
「私、貴女にどうしても生きてほしかったの」
初めてこの部屋で気がついた時、彼女はそう言って、今みたいに愛しそうに笑った。
彼女は私をとにかく大切に扱おうとする。そしてとにかく、ここに留めておこうとする。
いつも最後は、私を毛布に包み、優しい声で子守唄を歌いながら、彼女は私の首を撫でる。腕に、脚に、確かめるように触れる。
その時の、熱のこもった、冷めたような視線を覗くと、私はいつも背筋が寒くなる。
私は今、何も不自由していない。
しかし、どうしようもなく不自由だ。
私は、まるで真綿に包まれた宝石のように、大切に守られている。
私は、自分を包む真綿に首を絞められている。
ここは天国。ここは地獄。
天国と地獄。どちらとも言える、不思議な空間。
彼女の子守唄が聞こえる。
彼女の手がそっと頸に触れる。
意識が遠くなる。
白い壁の輪郭がぼやけていく。
最後まで、彼女の声が耳朶を揺する。
私は、ゆっくり目を閉じた。
弓形の月に手を伸ばす。
今にも消えてしまいそうな、青白く儚げな月が、青々と広がる朝の空に、控えめに浮かんでいる。
むかしむかし。
身を挺して飢えから神様を守ったウサギたちは、その大きな耳を翼へと変えて、はためかせ、月へ飛んでいった。
むかしむかし。
海底を歩き、浜辺を歩き、波を害さず。
海の良き友人であったカニたちは、海の潮に導かれて、月へたどり着いた。
むかしむかし。
月の動きを重んじ、同調圧力に屈することも弾圧に屈することもなく、最期まで月の良き理解者であった魔女たちは、月への行き方を知っていた。
むかしむかし。
蔦と茂みの中を差し込む月の光で、真っ先に目覚めるワニたちは、星の川を泳いで、月へと昇った。
むかしむかし。
月の光を一身に浴びて眠るライオンは、夢の道を通って、月へ迷い込んだ。
むかしむかし。
蓮の葉の影から月光を眺めて、月の美しさに敬意と祈りを捧げていたヒキガエルは、月の後を追いかけて、月へ追いついた。
やがて月は地球から、ゆっくりと逃げていった。
自分の仲間たちを、腹の中に抱いたまま。
月が離れていくと、空の崩壊が始まった。
空はゆっくりゆっくり、太陽に引き込まれていった。
空は太陽に引っ張られながら、でも今も、青々と僕たちを見下ろしている。
ゆっくりと遠ざかっていく月は、青い空の端に弓形の背中がみえるだけだ。
月の背中は遠い。
僕は月に手を伸ばす。
昔から、月に触れてみたかった。月が大好きだった。
月はずっと、大切な僕の友人だった。
そんな僕は、地球に愛想を尽かして逃げ行く月の、その小さな後ろ姿にでさえ、縋らずにはいられない。
月に願いを。
僕は月に手を伸ばし、月に願いを込める。
どうか、戻って来てください。僕の大切な友人様。
あなたがいなくては僕がやっていけないから。
せめて僕の友人を帰してください。
あなたが帰らなければ僕は2つの友人を一気に失ってしまうから。
伸ばした手が、震えて降りる。
ザザンッ……音だけが寂しく響く。
僕は揺蕩う波の中を泳ぐ魚たちを、優しく揺すりながら空を見上げる。
僕は海。地球上で月と一番仲が良いものだと自惚れていた、月の友人。
空を見上げる。
かつての友人の背中が、遠くに見える。
微かに体が震えて、小さく波を立てた。
ザブンッ…
「降り止まない雨はない」
かつてニンゲンの世界には、そんな言葉があったらしい。
雨は今日も降っている。
ワタシは水溜りに両足を浸したまま、空を見上げる。
雨粒が身体の節々に痛い。
今日も酸性雨が静かに降り続いている。
雨音に耳を澄ます。
錆びついた音声認識プログラムが、規則正しく続く雨音の波の中に、微かな揺らぎを発見する。
今日も来た。
バグだ。
バグ…昆虫に似せて作られた、合皮シリコン製小型の撮影軍事ドローンの通称。昆虫の姿形、羽音を極限まで再現されていることから、虫けら-bug-と呼ばれるようになった兵器の一種。
開発、運用されてから、その隠密性と機動性を評価され、各国でこぞって研究された。
材料費も場所も取らないバグの研究は、どの国でもこぞって進められた。
今では、超小型カメラや生体感知センサー、暗器、製造国によっては人工知能まで仕込まれ、一躍、兵器の常識にまで躍り出た兵器だ。
そして、そのバグに対抗するための術も作られた。
それがワタシたち、“虫取り少年”と呼ばれる、機械兵器だ。
ワタシたちは、バグの生体感知センサーに勘付かれないよう、外皮、内部機構ともに、全て金属で構成されている。
ワタシたちは、空気抵抗に特化した音声認識プログラムで、バグと自然界の虫の僅かな羽音の差を聞き分け、バグを処理してきた。
この酸性雨が降り始める前までは。
突然、地球全土に降り注ぎ始めた酸性雨は、一向に止む気配がなかった。
ワタシたちを生み出したニンゲンたちは、「神の捌き」だとか、「環境汚染の影響」だとか、語り合っていたが、やがて居なくなった。
ワタシたちは、ロボットである。
ロボットは、主人ではなく命令に仕える存在。
ワタシは命令通りバグを叩き落とし、バグは命令通りワタシから逃れて送る宛のない情報を収集し続けた。
ダが、ワタシは劣化した。
酸性雨が関節に染みるようになり、雨粒が外皮を削り続け、ある日、踏み抜いた酸性雨の水溜りが、ワタシの足を繋ぎ止めた。
以来ワタシは、変わらない景色の中で、降り止まない雨をじっと眺め続けている。
唯一の楽しみが“バグ”だ。
バグは、収集した膨大なデータを溜め込んでいる。
人工知能を搭載したワタシと、同じように知能を持つバグは、雨が降り注いだ長い長い戦争期間を経て、お互いに、ある種異質な親しみを持つようになった。
ワタシたちは、今では、帰るところのなくなったバグの帰るところとなり、バグは動けなくなったワタシたちの慰めとなった。
バグの羽音が近づいてくる。
今日はどこへ行って来たのだろうか。
分厚い雲が重たく垂れ込めた中空を、バグが忙しなく飛んでくる。
飛行パーツに触れる降り止まない雨粒を、重そうに払いながら。
空を見上げる。
厚い雲から、降り止まない雨がいつまでも降り注いでいた。
本。本。本。
本で視界を埋め尽くす。
びっしりと書かれたブロック体の字の本が、目の前で開かれている。
パソコンの画面には、検索エンジンと細かい検索項目が表示されている。
何かを知る瞬間は面白い。
脳が精一杯働く時間は楽しい。
学習は娯楽になる。
そんなヒトのサガに気づいたのはいつだったろうか。
視覚で文字を舐める。
取り込んだ知識を、脳の中で咀嚼する。
血液が脳へぐるぐると流れ込み、甘美な熱を持つ。
白紙のページを開き、飲み込んだ知識の一部を書き殴る。
ドクドクと脳が脈打って、熱がするりと外へ抜け出す。
抜け出した文字はバチバチと音を立てて…文字が脳を駆け巡っている。
なにかを考え続けるということは享楽だ。
ひたすら脳を動かし続けるということは快楽だ。
この生活からは抜け出せる気がしない。
一度知って終えばもう抜け出せない。
電極と脳だけで、ただひたすらに考え続けるこの生活からは。
脳がふと管に反応する。
ブドウ糖の時間だ。
認識してすぐに、頭の中に甘いエネルギーが流れ込んでくる。
ああ、幸せだ。ありがたい。
わたしは、脳波を制御して新たなページを開き、そこへ文字を流し込む。ブドウ糖のお礼を書いておかなくては。
タイトルは「あの頃のわたしへ」。
あの頃のわたしの判断は間違えていなかった。
わたしの人生にとって、何よりも幸せで楽しいことは脳を働かせることだった。
世間体や同族の繁栄や遺伝子の継承。
そんなことより、わたしはずっと考え続け、存在し続けたかった。
あの頃のわたしが、そんな自分の気持ちを選び取り、準備し、このシステムを作り出してくれたからこそ、今がある。
脳の思考のエネルギーをブドウ糖に変え、そのブドウ糖を摂取して思考を継続する。
永久機関として、この核シェルターで永遠に存在し続ける生活を選んだからこそ。
二百年前、地上は核戦争によって吹き飛んだ。
奇跡的に生き残った人間は、最初は生存を求めて、地下へ避難した。
彼ら彼女らのために、あの頃のわたしはこの永久機関を完成させ、人類の庇護者となった。
それから数十年後。
人々はそれぞれの幸せを求めて、核シェルターから旅立っていった。
置いてかれたあの頃のわたしは、当初の望み通りに思考し続けることを望んだ。
今は、全てのエネルギーを使って、ここで思考をし続けている。
思考の快楽に溺れることこそ、わたしの至高だ。
ここを旅立った人間がどうなったのか、それは思考のネタとして素晴らしいものだが、答えは必要ない。
わたしにとっては思考が全てなのだから。
あの頃のわたしへ
わたしは過去も、未来も、今も、ずっと幸せだ。
アラームが鳴っている。
朝だ。
陽の光がカーテン越しに差し込んでいる。
アラームを鳴らしたスマホは、5:30を指している。
朝だ。
アラームを止めて、体を起こす。
寝起き特有のもったりとした眠気が、意識をぼんやりとさせている。
僕は立ち上がって、洗面所へ向かう。
今日は小テストがある。準備のためにも、一刻も早く目を覚まさなくてはならない。でなければ、なんのためにこんなに早く起きたのかって話だ。
一階へ下りる。
まだ家族は起きていないらしい。
電気は消えているが、薄暗さはない。
カーテンから紅い陽が漏れ出ているから。
昼間ぐらいの明るさだ。ありがたい。
リビングのテーブルに、昨日までやっていた勉強道具が出ている。中途半端で切り上げて良かった。今も見ているだけで回答欄を埋めたくなってきた。
ひとまず目を覚まさなくては。
いや、もう目は覚めてる気はするが、それでも顔は洗わなくては。
目ヤニがつきっぱなしだったり、寝癖が跳ねっぱなしだったりで、親友のアイツに笑われるのは癪だし。
洗面所へ向かう。
蛇口を捻って水を出し、バシャバシャと派手に音を立てて顔を洗う。
手探りでタオルを探し当てて、額に当てる。
前髪と一緒に一気に顔を上げる。
目の前に鏡がある。
壁だけを写し出す、鏡が。
「逃れられない。逃さないもん。流星雨の時に獲った星使ってるから勿体無いし」
耳元でナニカが囁いた。
昨日、空が赤く染まった。
文字通り、真っ赤に、真紅に。
昨日の空全体に広がる夕焼けは、何時になっても沈まなかった。
…昨日夕陽が出た時、耳元でナニカが囁いた。
「君に決めちゃった」
その後だ。
塾の途中で席を立って、トイレへ行って、僕は気づいた。
鏡に僕が写ってない。
「鏡が“我”を捨てると神」
声が囁いた。
「君を気に入ったんだ。君がこっちに来ないと、空はいつまでも真っ赤だよ」
日の入り時間を過ぎても一向に赤みの引かない空に、大人たちはあたふたしだした。
嫌だなあ、これじゃ僕が行かなきゃ迷惑かけるみたいじゃないか。僕はこのままでいいのに。
そう思いながら、僕は教室に戻った。
教室の戸を開けると、騒ぎが収まっていた。
どういうことか分からないでいたかった。でも僕の頭は気づいてしまった。
…これが鏡に写らなくなった代償か。
思考するだけでこんなになるなんて、本当にまるで神様じゃないか。
親友がいつも通りに笑って、一人紅い空に狼狽えたことだけが、今や僕にとっての最後の希望だ。
「「また明日」」僕たちはそう言って別れた。
今日もアイツは一緒に学校へ行ってくれるだろうか?…アイツの前で鏡に写らないようにしなきゃな。
「…さ、テスト勉強しないと」
ナニカに聞こえよがしに、独り言を呟いてみる。
…薄々、無駄な抵抗な気もしなくはない。
いや寧ろ、そんな気持ちが大半だ。
僕の優秀な脳は、(どうせ逃れられないんだろうな)なんて諦めモードだ。
だが、無駄だったとしても、意思表示として反抗はしておきたい。何も手を打たないまま、現状と都合に引きずられてなんて嫌すぎる。
僕が未だにテスト勉強をするのは、そういう、思春期男児のささやかな意地だ。
僕はリビングに向かう。紅い朝日を浴びながら。
紅い陽が、突然かくんっと翳った…。