薄墨

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アラームが鳴っている。

朝だ。
陽の光がカーテン越しに差し込んでいる。
アラームを鳴らしたスマホは、5:30を指している。

朝だ。
アラームを止めて、体を起こす。
寝起き特有のもったりとした眠気が、意識をぼんやりとさせている。

僕は立ち上がって、洗面所へ向かう。
今日は小テストがある。準備のためにも、一刻も早く目を覚まさなくてはならない。でなければ、なんのためにこんなに早く起きたのかって話だ。

一階へ下りる。
まだ家族は起きていないらしい。
電気は消えているが、薄暗さはない。
カーテンから紅い陽が漏れ出ているから。
昼間ぐらいの明るさだ。ありがたい。

リビングのテーブルに、昨日までやっていた勉強道具が出ている。中途半端で切り上げて良かった。今も見ているだけで回答欄を埋めたくなってきた。

ひとまず目を覚まさなくては。
いや、もう目は覚めてる気はするが、それでも顔は洗わなくては。
目ヤニがつきっぱなしだったり、寝癖が跳ねっぱなしだったりで、親友のアイツに笑われるのは癪だし。

洗面所へ向かう。
蛇口を捻って水を出し、バシャバシャと派手に音を立てて顔を洗う。

手探りでタオルを探し当てて、額に当てる。
前髪と一緒に一気に顔を上げる。

目の前に鏡がある。
壁だけを写し出す、鏡が。
「逃れられない。逃さないもん。流星雨の時に獲った星使ってるから勿体無いし」
耳元でナニカが囁いた。

昨日、空が赤く染まった。
文字通り、真っ赤に、真紅に。
昨日の空全体に広がる夕焼けは、何時になっても沈まなかった。

…昨日夕陽が出た時、耳元でナニカが囁いた。
「君に決めちゃった」
その後だ。
塾の途中で席を立って、トイレへ行って、僕は気づいた。
鏡に僕が写ってない。
「鏡が“我”を捨てると神」
声が囁いた。
「君を気に入ったんだ。君がこっちに来ないと、空はいつまでも真っ赤だよ」

日の入り時間を過ぎても一向に赤みの引かない空に、大人たちはあたふたしだした。
嫌だなあ、これじゃ僕が行かなきゃ迷惑かけるみたいじゃないか。僕はこのままでいいのに。
そう思いながら、僕は教室に戻った。

教室の戸を開けると、騒ぎが収まっていた。
どういうことか分からないでいたかった。でも僕の頭は気づいてしまった。
…これが鏡に写らなくなった代償か。
思考するだけでこんなになるなんて、本当にまるで神様じゃないか。
親友がいつも通りに笑って、一人紅い空に狼狽えたことだけが、今や僕にとっての最後の希望だ。

「「また明日」」僕たちはそう言って別れた。
今日もアイツは一緒に学校へ行ってくれるだろうか?…アイツの前で鏡に写らないようにしなきゃな。

「…さ、テスト勉強しないと」
ナニカに聞こえよがしに、独り言を呟いてみる。
…薄々、無駄な抵抗な気もしなくはない。
いや寧ろ、そんな気持ちが大半だ。
僕の優秀な脳は、(どうせ逃れられないんだろうな)なんて諦めモードだ。
だが、無駄だったとしても、意思表示として反抗はしておきたい。何も手を打たないまま、現状と都合に引きずられてなんて嫌すぎる。
僕が未だにテスト勉強をするのは、そういう、思春期男児のささやかな意地だ。

僕はリビングに向かう。紅い朝日を浴びながら。
紅い陽が、突然かくんっと翳った…。

5/23/2024, 11:28:06 AM