薄墨

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弓形の月に手を伸ばす。

今にも消えてしまいそうな、青白く儚げな月が、青々と広がる朝の空に、控えめに浮かんでいる。

むかしむかし。
身を挺して飢えから神様を守ったウサギたちは、その大きな耳を翼へと変えて、はためかせ、月へ飛んでいった。

むかしむかし。
海底を歩き、浜辺を歩き、波を害さず。
海の良き友人であったカニたちは、海の潮に導かれて、月へたどり着いた。

むかしむかし。
月の動きを重んじ、同調圧力に屈することも弾圧に屈することもなく、最期まで月の良き理解者であった魔女たちは、月への行き方を知っていた。

むかしむかし。
蔦と茂みの中を差し込む月の光で、真っ先に目覚めるワニたちは、星の川を泳いで、月へと昇った。

むかしむかし。
月の光を一身に浴びて眠るライオンは、夢の道を通って、月へ迷い込んだ。

むかしむかし。
蓮の葉の影から月光を眺めて、月の美しさに敬意と祈りを捧げていたヒキガエルは、月の後を追いかけて、月へ追いついた。

やがて月は地球から、ゆっくりと逃げていった。
自分の仲間たちを、腹の中に抱いたまま。

月が離れていくと、空の崩壊が始まった。
空はゆっくりゆっくり、太陽に引き込まれていった。

空は太陽に引っ張られながら、でも今も、青々と僕たちを見下ろしている。
ゆっくりと遠ざかっていく月は、青い空の端に弓形の背中がみえるだけだ。

月の背中は遠い。
僕は月に手を伸ばす。
昔から、月に触れてみたかった。月が大好きだった。
月はずっと、大切な僕の友人だった。
そんな僕は、地球に愛想を尽かして逃げ行く月の、その小さな後ろ姿にでさえ、縋らずにはいられない。

月に願いを。
僕は月に手を伸ばし、月に願いを込める。
どうか、戻って来てください。僕の大切な友人様。
あなたがいなくては僕がやっていけないから。

せめて僕の友人を帰してください。
あなたが帰らなければ僕は2つの友人を一気に失ってしまうから。

伸ばした手が、震えて降りる。
ザザンッ……音だけが寂しく響く。
僕は揺蕩う波の中を泳ぐ魚たちを、優しく揺すりながら空を見上げる。

僕は海。地球上で月と一番仲が良いものだと自惚れていた、月の友人。

空を見上げる。
かつての友人の背中が、遠くに見える。
微かに体が震えて、小さく波を立てた。
ザブンッ…

5/26/2024, 3:54:21 PM