「夢見る心は無限大!夢と無限の可能性で戦う無敵少女!」
私はいつものように、読み古した名乗りを、できるだけ可愛らしい声で、暗読する。
「その調子だッピ!さすがドリーム!!今日も絶好調ッピね!」
通学カバンについたストラップの先、耳の半分ちぎれた、薄汚れたピンクのうさぎのキーホルダーが、媚びたキャラ声で調子を取る。
私は、ひっそりため息を吐きながら、首から下げたコンパクトをそっと触る。
女児向け玩具を思わせる、ショッキングなパステルカラーに彩られ、執拗に丸みを帯びた、かわいいの押し売りみたいなコンパクトは、蓋の真ん中のコアを準備完了!とばかりに煌めかせる。
私はもう一度、胸の内で短く息を吐き、コアを押して、コンパクトを開く。
“お約束”の変身が始まる。
「さあ、ドリーム!やってやるッピ!地球を救うため、ハッピーとピースと戦うッピ!」
通学カバンから解放されたうさぎのキーホルダーが、手足をバタつかせる。
背中に背負った荷物が重くなった気分だ。
私は、変身後に手に現れた武器のスティックを地面に向かって逸らしてから、うさぎのキーホルダーに聞く。
「今回のミッションってどういうことなの、状況が飲み込めない」
「ミッションら地球のために2人を倒すことッピ。2人はみんなを裏切ったッピ。もう仲間ではないッピ」
「…つまり、目の前の2人を倒せと?」
「そういうことッピね」
目の前には、嗚咽を上げながらうずくまるハッピーと、それに満面の笑みで手を差し伸べるピースがいる。
2人の武器は、離れたところにうっちゃられたまんまだ。
「…こっちに気付いてないみたいだけど」
「そりゃそうッピ。ドリーム、変身したッピよね?…2人とも夢見る心は失ってなかったから、ドリームの夢見の魔法が働いて、夢見る心が強かったピースの、永い永い夢を見てるッピよ。だから反撃の心配はないッピ」
「…」
私は、かつて仲間だった2人を眺める。
私がソロ(1人+1匹)で、多勢に無勢で戦っていた時、あの時に、助太刀してくれたタッグがこの2人だった。
のんびり明るい天然のピースと、冷静でクールながら誰よりも優しいハッピー。
2人の笑顔が脳裏を掠める。
でも、私の表情は眉ひとつ動かない。
慣れてしまった。
私の動かない外見の裏で、私の内面は、じわじわと蝕まれていく気がする。
私はゆっくりとスティックを彼女らに向ける。
いつもの決まり文句を口にする。
スティックはみるみる光を生み出し、眩いぶっとい光線が、辺りを包む。
光が収まる。
目の前には、空間から抉り取られた、燻った、ただの黒い穴が広がっている。
ピースとハッピーはもういない。
あの2人は永遠に、夢見る心の虜だ。
「…ねえ、私はいつまでこれをすれば良いの?」
私は満足そうにバンザイをするうさぎに、話しかける。
「それは答えられないッピね。夢見る心は、あまねくみんなの原動力だッピ。ドリームと違って、みんなには夢見る心と、叶えたい夢があるんだッピ。だから、ドリームはまだ、必要だッピ」
私は、抉られ燻った空間を見つめる。
目の前の穴みたいな空間。この穴を作るたび、私の内側にも、抉られた空間が広がって行く。
「さあ、帰るッピ!」
その言葉に背を押されるように、私はゆっくりと踵を返す。
私の耳朶の中で、誰かが泣いている。
モニターの前、僕はじっと座り込んで、文を読む。
液晶の文章の上を、目が滑ってゆく。
なんて読みにくい話だろう。正直に言えば、そう思う。
人差し指だけが、マウスのホイールボタンを忙しなく送っている。
頭も心も目も働かない。
それほどにこの文章は、面白くない。
窓の外からは、子どもたちのはしゃいだ声が聞こえる。
「そういえば、隣に越してきた人がね…」
「うちの夫ったら、飽き性で…」
「いつもお世話になってるみたいで、ありがとね。うちの子ったら…」
道に立ち止まり、歓談する人々のたわいもない世間話。
…又聞きするこれらの話の方が、まだ、面白い。
左手が、機械的に傍のスナック菓子を取り、口へ運ぶ。
いつもよりしょっぱい。
外からは、僕くらいの歳の人の声は聞こえない。
それはそうだ。今はまだお昼といっても差し支えない時間なのだから。
どこかでキジバトが鳴く。
かちり、と秒針の動く音がする。
喉を刺激する二酸化炭素ごと、無理やり、炭酸飲料を飲み干す。
視界がうっすらとぼやける。
ぼやけたって、目の前の文章の魅力のなさは変わらない。
僕の書いた、この文章は。
僕には届けたい想いがたくさんある。
美しくて残酷なこの世界のこと、不思議な人間の感情、見えない絆、数奇な運命…
そんな想いを届けるため、僕は文芸部を経て、文学部を志し、いろいろなものを犠牲にしながら、ずっと努力を重ねて…
でもいざ書いてみれば、この有様。
本人にすら伝わらない駄作。届かぬ想い。
これで何回目だろう。
書いてないジャンルはまだ残っているだろうか。
目の前が霞む。
僕の想いは誰にも届かない。
僕は、僕いっぱいの、届かぬ想いを抱えたまま、ブルーライトを浴び続ける。
冷え切った部屋に、スマホの通知音がぽつんと響いた。
神様。なぜ私は生きているのでしょうか?
神様へ、私は問いかける。
薄暗い教会の、ひび割れたガラスが、淡い青色の光で神様の滑らかな毛並みを照らしだす。
煤けたコンクリートの床、神様に捧げられた、ナツメグの粉まで、涙が出るほど神秘的だ。
神様。
私は問いかける。
この息苦しい世界で、私は生きていくしかないのでしょうか。それが私に科された罰というのでしょうか
誰も答えない。
神様の瞳だけが、こちらを見つめ、鈍く光る。
いえ、不満なわけではありません。
実の息子同然に育てなくてはならない、可哀想なあの子を、どうしても好きになれないのは、ほかならぬ、私なのですから。
どうしてしまったというのでしょう、私は。
私はこんな人間ではなかったはずなのに。
私は…情け深く、優しい、善良な一般市民であるはずなのに…。
神は低く唸り声を上げる。
私は首を垂れる。
神様。私には生きている意義はあるのでしょうか?
最愛の妹が遺したあの子すら愛せず、傲慢で陰険に振る舞い、返ってあの子の幸せな人生を食い潰しているような、こんな私に。
…でもまあ、賤しくも気高く在られる獣神の貴方なら、このような状況がお好きかもしれませんが。
いっそのこと、私が死んで仕舞えば良い。
そして、残った寿命をあの子にあげられたら。
そう神様へ祈った時だった。
ガシャン!っと金属の檻が歪む音が響く。
神様が、雄々しく唸りながら、私の喉元目掛けて飛びかかって来る。
避ける間もなく、私は、神様に喉元に食いつかれ、声も上げられずに倒れ伏す。
喉から、どくどくと、赤黒い液体が流れ出すのを感じる。
ああ、神様、まさか、私に最初から、こんなことを祈らせるおつもりであったのでしょうか。
あの子の方が敬虔で生きるべき信徒だと仰るのでしょうか。
いずれにせよ、この結末は、私にとっても、あの子にとっても、最良のものでありましょう。
ああ、我が神様へ、ありがとうございました。
そうです。どうぞ、残りは自由にお隠れになってくださいませ。
私の、私たちだけの神様。
他の人間が信じる神よりも、慈悲深く、気高い、我らがスレドニ・ヴァシュター様…
薄れゆく意識の中、私は神様へ何度も何度もお礼を呟く
その度に、赤黒い液体が、粘性を持って床を湿らせてゆく。
神様が、半開きの扉から、外へゆっくりと去ってゆく。
あの子は、きっと家からそれを眺めているだろう。
あのお姿を見れば、あの子も希望を抱くに違いない。
ああ、本当にこの神様へ、命を捧げて良かった。
その考えを最期に、私の脳はブラックアウトした。
参考:サキ『スレドニ・ヴァシュター』
快晴とは、魚眼カメラで空を見た時に、空に雲が0〜1割くらいしかない、真っ青な空のことらしい。
確か、中学の頃の理科でやったはずだ。
つまり、快晴とは今日のことだ。
一年ぶりに開けたカーテンの、曇った窓から、快晴の空が見える。カーテンから立った埃が、眩しい太陽の光に照らされて目障りだ。
身じろぎをすると、ガサッと音を立てて、足元のお菓子の袋が、移動する。
小さめなテーブルの上に手を伸ばす。テーブルの上には
昨日の夕ごはんのラーメンのカップ、スープに突っ込まれたままの耐熱箸、底にうっすら水が溜まったコップ、開きっぱなしのファッション誌…ごちゃごちゃと置かれたものの中から、スマホを手に取る。
…電源がつかない。
どうやら、昨日充電をさし忘れたらしい。
溜め息をついて、でも、充電器を探すほどの気も起こらないまま、天を仰ぐ。
天井には、LED電球が、しょぼくれた灰色のままぶら下がっている。
このままじゃダメだ、分かってる。
でも、もう無理なのだ。仲良しで、仲間だと思っていた友人たちから言われた言葉が、胸の中に突き刺さって、抜けない。
なんであんなに容易く、見捨てられてしまったのだろう
頑張っていたのに…。
責任を取りなくないみんなの代わりにリーダーを買って出た。
なかなか出ないみんなの意見を引っ張り出して、聞いて、なんとかとりまとめた。
方向性を決め、手を尽くして、みんなが楽しく、真面目に活動できるように計画した。
みんなの愚痴も雑談も丁寧に聞いた。
なのに、たった一回。たった一回、「改善してほしい」「協力してほしい」と自分の気持ちを伝えただけで、みんなから見捨てられた。
残りの僅かに残った、仕上げみたいな仕事を、みんなが勝手にやり遂げて、終わった。
その日から、何もする気が起きなくなった。
外は清々しい程の快晴だ。
だけど、薄暗い部屋の中で、生命維持だけをしてきた一人暮らしの人間には、快すぎて、眩しすぎる。
真っ青な空を、鳩が飛んでいる。
快晴の、澄んだ空の中を、気持ち良さそうに。
あの鳩にはなれそうにない。
もう枯れたはずの涙が一筋伝っていった。
「アサダヨ、アサダヨー」
座敷の奥で、羽毛をむくむくと動かしながら、ヨウムが鳴く。
「おはよう」
私は、目覚めたばかりのヨウムの、くすんだ銀の鱗のような羽を撫で付けながら、笑いかける。
今や一人(一羽)きりの同居仲間のヨウムに、餌をやる。
「イタダキマス」
カタコトでお行儀よく答えるヨウムと共に、朝ごはんを食べて、私は立ち上がる。
朝日がゆっくりと、軒先に差し込んでいる。
私はいつも通り、縁側に座ると、庭を眺める。
今日は快晴。庭の木々は若い芽を出し、ところどころに美しい花が咲いている。
日向ぼっこには最適な、暖かい朝だ。
朝日を浴びながら、私は抱えていたものを膝に置き、撫でる。皺が寄って乾燥した私の手が、白い翼を撫でる。
空は真っ青に晴れきっている。
どこからか飛んできた飛行機が、白い線を描きながら飛んでゆく。
ねー、ママ!こっちこっち!
はやくー!早くあそぼ!
近くに住む子供たちの元気な声が聞こえる。
私は、膝上の紙飛行機に目を落とす。
真っ白な皺ひとつない翼。軽くて、紙にしては少し硬いその紙飛行機を、私の皺だらけの手が撫でる。
目を細める。
私が紙飛行機を好きになったのは、こんな晴れた日のことだった。
あの日。もう七十年前のあの日。
その日、私は家の都合で、どうしても幼い妹の面倒を見なくてはいけなくなった。私は、みんなと遠足に行けなかった。
妹の世話で疲れ切った私は、友達と今日を過ごせなかった失望で、すっかり荒んでいた。
その時だ。
その時に、家の土塀の向こうから、紙飛行機が飛んできたのだ。
その紙飛行機は羽を水平に広げ、悠々と、私の家の庭に着陸した。
その様子が、私にはまるで遠い空からの贈り物に見えた。
ドキドキしながら紙飛行機を広げてみると、手紙だった。きっと、私のクラスメイトからだろう、手紙。
正直に言うと、手紙の内容はお世辞にも巧くはなかった。
「私がいなくて残念だった」とか、「おつかれさま」とか、そんな気休め程度のお手紙。
でも、その筆跡は、馴染みのないものだった。
筆跡を憶えていないほどの関わりでも、私を気にかけてくれた、手紙の主がいた。
胸が熱くなった。
その日から、私は、紙飛行機を飛ばすようになった。
遠くの空へ、どこまでも、かつて私に届いた紙飛行機のように、悠々と飛ぶ紙飛行機を私も作りたかった。
そして、いざという時に誰かに届けられるようになりたかった。
紙飛行機を探求している間に、いつのまにか私はこんな歳になっていた。
紙飛行機にだけ異常に詳しい私を、近所の若い子たちは、“紙飛行機の魔女”と呼ぶようになった。
あの紙飛行機には宛名も記名もなかった。
だから、こういう日に、空を見上げながら思い出を漁っていると、時々こんな疑惑が胸を掠める。
あれは私宛のものではなかったのではないか
でも、そうであったとしても、そんなことはどうだっていい。紛れもなく、あの紙飛行機は私を良い方に変えたのだから。
だから、こんな晴れた、風も凪いだ、紙飛行機日和には、私も紙飛行機を飛ばすことにしている。
一番飛ぶ折り方の紙飛行機を、遠くの空へ。
どこか遠くの誰かの心に届くように、遠くの空へ。
「トベトベ、ヒコウキ!」
三十年連れ添った相棒の言葉と風に、私は紙飛行機をそっと乗せる。
紙飛行機は白い翼を水平に広げ、遠くの空へ、飛んでゆく。