目を覚ます。
隣の布団はすっかり冷めている。
僕は半身を起こす。
ドアの隙間から、うっすら一本、隣の部屋の明かりが漏れている。明かりの筋の中を、埃が舞っている。
口の中で何度も名前を呼ぶ。
隣の部屋に聞こえないように。
目の端が、くすぐったい。目の縁まで、液体が溜まってゆっくりと滑り落ちる。くすぐったい。
明かりの向こうでは、静かに、冷静に、話す大人たちの声がする。二十二時には、隣で眠っていたはずのあの人の声もする。僕に話しかける時よりずっと、硬くて冷めた声。剣呑な声も、時折混じる。
何を言っているのか、内容は分からない。大人の用語が多すぎて、難しい。
でも、きっと僕の行き先のこと。
みんな、僕の人生の話を僕抜きでしている。
外からしっとりした雨の音が聞こえる。
あなたがいないだけで、僕の布団も、僕の横に敷かれた布団も、すっかり冷え切ってしまった。
僕の前で、両親が居なくなってしまってから、僕は腫れ物の子になった。
頼る者も頼られる者も甘える者も甘えられる者もいない、腫れ物の子。
そして、親族にすら満足に取り入れない捨てられたナニカ。
でも、あの人だけは違った。
他の…僕の親戚の目を盗んで、僕を家に連れてきたあなたは、僕を1人の人間として扱った。
正直、あの人はしっかりした人間じゃない。1人なら、早起きもままならない、ダメな大人だ。
でも、あの人は僕と一緒に生きようとした。
僕を生かすのではなく、僕に生かされようとするのではなく、僕と協力して生きたがった。
あなたと一緒にご飯を作る。
あなたと一緒にゴミをまとめる。
あなたと一緒にセールに並ぶ。
あなたと一緒に洗濯物を干す。
そんな日々が非日常だと思い知ったのは、つい最近だ。
帰国してきた僕の叔母が、僕を育てるために、僕の行方を探し出した。
そして、僕たちの生活は見つかった。
明かりの先で、みんなが話し合う声が聞こえる。
時々、強い言葉を吐くのは叔母。
バツの悪そうな弱気な声は他の親族。
硬い声で丁寧に話すのはあの人。
自分のいないところで、自分のことが決まるのをただ見るだけというのは、つらい。悔しい。
こういう時は…自分で決めたいのなら…ドアを壊すつもりで開けて、とびきり大きな声で声高に、自分の言葉を訴えなければ。
でも、僕にはそれはできない。
向こうで話している大人たち、誰に対しても僕は意見を言えない。
誰に対するの想いも、僕は言葉にできない。
叔母は僕のことを一番に考えてくれている。
叔母はきっと僕を大切にして、守ってくれる。
あの人は僕がなくした大切なものをずっと教えてくれた。
僕はあの人との生活が大切で、あの人を守りたい。
親戚たちは自分の生活で一生懸命で、僕を放っておいてくれた。
親戚たちは僕を死なさない程度にしっかり養育してくれるだろう。
…僕は、自分の意見を言葉にできない。
「ついていきたい!」と誰にも言えない。
僕に関わった大人たちとの関係を、僕は、言葉にできない。
だから、今日も頬を流れる涙がくすぐったいな、と思いながら、僕はなんとなく暗闇の中にいる。
枕元に置いた、強烈なデジタル目覚まし時計が、ほのかに青く、0:50を照らす。
隣の部屋に続くドアからは、声と光が漏れ出ている。
夜はまだ明けない。
桜の下には死体が埋まっている。
そう書いた文豪は誰だったか。
桜、菜の花、すみれ、白詰草、たんぽぽ、ホトケノザ。
色とりどりの花が満開に咲いている、春爛漫の川原道。
小さい頃に、友達とワイワイ作った花冠を思い出す。
僕は、百花繚乱の道の中、一人、川沿いを歩く。
人通りはない。ここは山の麓の、穴場スポットなのだ。
僕は、スーツケースを引きずりながら、ボストンバックを胸に抱える。
もうすぐね。
僕は鼻歌を歌いながら、どんどん進む。
もう少し。もう少ししたら、あの桜の木に着く。
それにしても、この辺りは花が特に綺麗。どの花も、生き生きと、美しく咲いている。
やはり、この地は土壌が良いのだろう。
僕が買ってきた花よりも、ここらの花の方がずっと美しい。
毎年、ここの景色は変わらない。
あいもかわらず、春爛漫で鮮やかだ。
僕はぐんぐん先へ進む。
彼女は気に入ってくれるかな。
僕は胸に抱えたボストンバックを、大切に抱きしめる。
たんぽぽと白詰草の花の中、細くくねった道を歩く。
彼女がいる場所まではあと少し。
樹々の開けた目的地が、もうすぐそこに見えている。
空気がグッと重くなる。
春爛漫の暖かい気温が、ここに足を踏み入れると、冷や水をかけられたようにひんやりと下がる。
彼女の近くに着いた証拠だ。僕は顔を上げる。
目の前には満開に咲き誇った桜の大木が立っている。
花弁がはらはらと散り、花をいっぱいにつけた枝が重たそうに揺れる。
その木の下に、桜色のワンピースを着た、美しく愛らしい少女が、立っている。
“彼女”だ。
「1年ぶり。元気にしてた?」
僕は彼女に話しかける。
彼女は微笑む。
「僕は、いつも通りって感じ。うん、進展はなし」
「やっぱり、貴女にしか話せないよ。恋バナは。うん、もう諦めてるんだ。きっとね、」
「生きているうちは、僕は誰とも結ばれない」
「…でも良いんだ。貴女が居てくれるから」
「……そして、貴女は、僕の好きな人をずっと取り込んで、美しくいつも一緒にいてくれるのから。」
僕の近況報告を兼ねた独白を、彼女は柔らかな笑みを浮かべながら聞いてくれる。
「だからね…ほら、今年も持ってきたんだ。…僕の好きだった人。きっと、取り込めば、君がもっと美しくなれるね」
「これで来年も会えるよね。今年も、一年よろしく。僕たちはずっと一緒。大好きよ」
僕はそう少女に笑いかけ、桜の木の根元の土に、シャベルを突き立てる。
穴を掘り、ボストンバックの中のもの…ついこの間まで人だった、女性の腕を入れる。
「…この腕が一番美しかったんだよ」
僕は少女に告げる。少女はいつもの柔らかい微笑を浮かべながらそれを見つめる。
僕は、その穴に土を被せる。
それから、スーツケースの中身を入れるための穴を掘る。
年に一度の、彼女とのデート。
今年も快晴の日を選べて良かった。
春爛漫の、長閑な桜の絨毯の上に、高いフランス料理のように、どきつい赤色とやわこい白い肌とが、のっかっている。
少女は、にこにこ笑いながら、僕のすることを見ている。かわいい。
今年も、素敵なお花見だ。
僕は、シャベルを動かしながら、春爛漫の空を仰いだ。
ザーーーっ
流し台の上、流れる水で頭を冷やす。
だらだらと水の伝う髪を持ち上げ、鏡の中の私と目を合わす。
そうだ、あの人に声をかけてみよう。
冷静に考えてみれば、私はここ最近、あの人のことを何より気にしていた。誰よりも、ずっと。
フェイスタオルを手に取って、顔を拭う。
大丈夫。このタイミングで、あの人に声をかければ、万事上手くいくはず。
内側で騒ぐ胸をそっと抑える。
緊張しすぎて、雑になってはいけない。はやる気持ちを抑えて、冷静に対処しなければ。
それさえできれば。
私の記憶が正確ならば、それで私は無事に平和な暮らしを手に入れることができるはずだ。
息を整えて、私はスマホに手を伸ばす。
トークアプリで、友人とのチャットページを立ち上げる。そこに素早くフリック入力で書き込む。
「ごめん!悪いんだけど、今日は無理そうだわ…ちょっと私もヒートアップしちゃって……樹液に閉じ込められた虫の気分よ、まったく」
この友人は、クラス内外どちらでも、私と一緒に行動している。なかなか信頼のおける種類の、単純な性格をした友人で、私と彼の事情も話してある。
だからこそ、あの人は、このトークチャットの内容を、吟味せずにはいられない。しかも、私に関する情報は、友人よりあの人の方が詳細に集めているだろう。
ここで。この場で。それとなく友人に伝えれば、あの人には確実に伝わる。私にはそんな確信があった。
こちらの処理はこんなもので良いだろう。あとは天命を待つだけだ。
…さて、次はこちらの処理だ。
私は目の前に、ぐったりと力なく倒れた彼を見つめる。誰でも抱えて連れて行けるような大きな体、人を心地よくしつこく絡めとる長い手足、罠か飴のような甘美に整った顔と、誰でも自在に手篭めにできる程度に優秀で寂しがりやの脳の入った頭。
血溜まりの中、その頭は今、首辺りから、かくん、と力なくうなだれ、瞳は白く濁って、虚に我が家の風呂場のタイルを眺めている。
…まあ、なんとかなるな。
私は右手に持ったものを握りしめて、そう思う。
魚やジビエを普段から捌いてきて本当に良かった。“捌く”という関節や体組織の分解行為は、こういう時に役立つものなのだ。家庭科もなかなか捨て難い学問だな、そう考えながら、私は彼に手をかける。
彼と一緒になってから、ずっとこんな感じだ。
最初は、誰よりも、ずっと、彼のことで頭がいっぱいで、それが愛というものだと思っていた。
でも、ここまで、彼のことしか考えられなくなるとは思わなかった。
彼は束縛癖で、過度な甘やかしで、私の脳をどんどん鈍らせていった。私は、誰よりも、ずっと、彼のことで頭がいっぱいで、彼以外のことは薄い膜が掛かったみたいに、ぼんやりとしか考えられなくなった。
今は頭はスッキリしている。いつも以上に、脳は冴え冴えとして、キレる。
彼から解放されて、流水で冷やした甲斐があったと思われる。膜は破れたみたいだ。
…あの人は、膜を捲るきっかけにくらいはなった人だ。だからこそ、今からでも助けてもらえる。
あの人が、私をストーカーしていたからこそ、私は誰よりも、ずっと、彼だけになっていた脳で、彼以外の人間について、初めて考えることが出来たのだから。
誰よりも、ずっと。
私はあの人を信用している。
誰よりも、ずっと。
私はこの時を待ち侘びていたのだ。
私はゆっくりと作業を進める。
窓を閉め切って、お湯を流しながら、お風呂場で作業するのは暑い。瞼に垂れてきた、汗をタオルで拭う。
携帯が震える。トークチャットの通知。どうやってこちらの連絡先を見つけたかは分からないが、あの人からだ。
ピンポーン、玄関のチャイムが鳴った。
私は微笑みながら、彼の右手に握られていたカミソリを手に取り、軍手を嵌めた手の中で握りしめた。
足元にぽつぽつと穴が空いている。
そんな干潟を、私は歩く。
でこぼこな波模様が描かれた砂沼は、ところどころに開いた大小様々な穴から、ぷくぷくと泡を吹いている。
この下に、貝がいるのだ。
おそらく、殆どはマテ貝だろうけど、中には…アサリや小蟹なんかの棲家もあるはずだ。
干潟は歩きにくい。
海水に浸り、水分を含んで濡れた細かい砂は、泥と大差なく、私の足を掬う。
子どもの頃、よくこの海に遊びに来た。
ちょうど、今くらいの時間だ。ここが干潟になる時間。
幼馴染を連れて、よくここに来て、蟹や貝を獲って遊んだ。
いつもは海面に隠れている、荒く削れたコンクリートや表面を占領されたテトラポットも、今は顔を出している。
側面にびっしりついているのは、カメノテだ。
あれもよく獲っては持ち帰っていた。厳つい見た目に反して、出汁がよく出て味が良いのだ、あれは。
あの頃は夢中で貝を獲って…そのうちこの獲物を誰が獲ったのか分からなくなって…どれを誰が持って帰るのか毎回、口喧嘩をした。結局、最後は勝負事で決めよう!となって、かけっこかジャンケンをすることになるのだ。
…これからも、ずっと、永遠に続けば良いのに
あの頃、微かに感じた切ない想いを、言語化するなら、きっとこうなる。
私は疑わなかった。これからも、ずっと、あの日が続かなくとも、私たちの関係は続くのだと。
これからも、ずっと。
私たちは、幼馴染で、友達で。一緒に過ごす時間は短くとも、これからも、ずっと、私たちはこの土地で、この海の見える町で、仲の続いた腐れ縁の友人であり続けるのだと。
これからも、ずっと、私はここに居たかった。
「おい、そろそろ時間切れだ。行くぞ、新造」
「お待ちくんなせえ、後生ですから。今日ここから出立するのはわっち一人。せかせかした男はモテぬわえ」
反射的に出た廊言葉に、密かに苦笑する。
「…少し待ってやる。だが、テメェの幼馴染がいったい何円無心してると思う?……あまり長くは取ってやれねえぞ」
そんな言葉を背後に聞きながら、私は手の中にあるガラス玉___遠い昔、あの幼馴染に最初に貰ったプレゼントのガラス玉___を海に向かって放り投げた。
「ようござんす。これでわっちがここに思い残すことはありんせん。行きましょう」
振り向いて、わっちは歩き出す。
遠い後ろの方で、ぽちゃん、と音がした。
目の前には、海が広がっている。
行き場もなく、歩いて歩いて歩き続けて、着いたのがこんな浜辺だ。流されて来たのだろう、藻屑や割れた瓶のかけらや砕けた貝殻が、打ち上げられている。
オレの住む地域に、海水浴場やプライベートビーチみたいな、洒落た浜辺はほとんどない。今日、オレがやって来たここも、そういう浜辺だ。
だからこんなにも汚らしく、打ち上げられたものが散乱している。
ため息をつく。オレは何をやっているのだろうか。
家に帰りたくないからって、こんなしょうもない浜辺に来るなんて。
素直に帰る気もせず、オレは砂浜に降りる。
少し歩いただけで、靴の中がじゃりじゃりと音を立てる。
砂浜の砂って、こんなに図々しくて鬱陶しいのか。オレは思う。
まるで、オレの周りの人みたいだ。どこからか現れて、図々しく間を詰めて、そのうち裏切ってどこかへ行く。人ってそんなもんだろう。
右の頬がジクジク痛む。
オレは黙って、砂浜を歩き続ける。
日が傾いているようだ。
ゴミにまみれた足元の砂が、うっすら橙に色付いて見える。
はあ…。本当にオレは何をしているんだろう。
八方美人だろうと、人を利用して、上手く世渡りしていってやると決意したのはオレ自身じゃないか。
砂浜は、取るに足らない、いらないもので散らかっている。海藻の切れ端が散らかり、流木が点在し、糸や紐が絡まって落ちている。
「あっ、日が沈むよ!めっちゃ良いタイミングじゃない?!」
いつの間にか、他にも浜辺を歩く人間がいたようだ。
高校生くらいだろう女子が、隣を歩く男子に話しかけている。
「この風景で今度、絵を描いてよ!彫刻じゃ、こういうのは再現できないからさ。私、君の…絵が好きだから、君の絵で見たいな!」
「…うん、描けそうならね。」
対して答えた男子の声はそっけない。
それを気にしていたのかいないのか、女子は海の方に目を向け、「わあ、綺麗だね…」と感嘆の声を上げる。
「ねー、この風景を描くなら、どんなタイトルにするの?ちなみにね、私なら『沈む夕日』かな?」
「…んー、そうだね……僕なら、『溺れる夕日』かな…」
はしゃいだ明るい女子に対して、哀しさを含んだような、淡々と陰気な声で答える男子。温度差のひどい会話になんとなく耳を傾けていると、沈む夕日が少し気になってきた。
オレも海の方に目をやった。
海が赤橙に染まって、ぽっかりとまん丸な赤い“夕日”がゆっくりと地平線に沈んでいく。
でも、オレには、“沈む”というよりは“溺れる”…いや、夕日が海に引き摺り込まれていくように見えた。
夕日が、ゆっくり、確実に、否応なく、海に引き摺り込まれていく…。…この景色は綺麗なんだろうか。
「…日の入りってゆっくりだね……そろそろ戻らない?良い気分転換になったし!」
「………え、あ、うん。そうだね。帰ろうか」
そんな会話が視覚の端で、聞こえた気がした。
早く帰らなきゃ。
そう告げる脳とは裏腹に、オレはじっと沈む夕日を見つめ続けた。
夕日が完全に引き摺り込まれるその瞬間まで。