どこかで犬が遠吠えをあげる。
珍しく、今日は眩しいくらいの星月夜だ。
私は、満天の星空の下、長靴を履き、傘を持って、すっかり冷え切ったアスファルトの路を歩く。
凹凸のあるアスファルトには、ところどころ、水や氷が張っている。
鏡のように張った水面には、星空が映っている。
この街は、日中はいつも雨だ。
だから、私は雨の止んだ夜に、傘と長靴を準備して、うちを出る。
そして、孤独な夜を散歩する。
こんな風に。
雨は少しずつアスファルトの路を削る。
削れたアスファルトは少しずつ広がり、やがて、路にぽっかり穴が開く。
雨は尚も降り続く。
路の穴には水が溜まり、鏡のように張って、星空を映し出す。
そして、私の足元に、夜空が映る。
“満天の星空”。
2つの空が、私を挟み込む中を歩くこの散歩は、まさしく、“満天の星空の下”の散歩だ。
路の真ん中に、ひときわ大きな水たまりがある。
私はその真ん中に立ってみる。
風は吹かない。この地域はいつも、夜になると、大抵晴れるし、無風なのだ。
ぼうっと、星空に挟まれていると、そのうち、どっちが空か分からなくなる。
宇宙空間に放り出されたような変な浮遊感と、漠然とした不安感と、言いようのない心地良さ。
私は思わず目を瞑る。
…突然、足元からピシリッと音がした気がした。
……瞼が開かない。瞼の裏、漆黒が映る。
足の裏から、チリチリとした緊張感と恐怖が走る。
…冷や汗が吹き出す。
なんだこの感覚は。こんなの、、初めて…
息が詰まる。
なんの感覚だろう。
逃げなくては、目を開けろと、脳が訴える。
私は瞼をこじ開ける!
…
…?
何もない。私は星空の下、立っている。満天の星空の下。
目の前には星空と、足元には星空。頭上には星空が広がり、背後にも星空。
目を閉じてみる。瞼の裏にも星空。
私は、紛れもなく、満天の星空の下に立っている。
なんだ、私が星空の下で散歩しているだけじゃない。
私は傘をさすと、星空の下、星空の上を、星空に向かって、歩き出した。
「ああ、それでいい」
俺は鷹揚に頷く。
「構わない。犠牲?ああ、それは、確実にこっちの方が少ない。」
近年のシュレディンガーの猫理論を元にした世界線及び運命のパターンの解析、AIによる学習と未来予測の技術の発展により、俺たち人類は、“選択”による未来の複数パターンを予測できるようになった。
「だから…そうだ。たとえそれが発覚したとして、俺たちが頭を下げれば全て収まる。大のために小を選ぶか、小のために大を選ぶか、つまりはそういうことだ。」
高度に発展した未来予測は、民衆個人には秘匿され、国よって、人類の全体的な平和維持と文化推進のために、極めて中立的、公的に扱われることとなった。
「誰も俺たちを責めれやしないさ。つまり俺たちは合理的に、人類全体にとってより良い選択をした、実質的なヒーローとなんだから」
俺は今、未来予測によって得られた結果を元に、人類先行教化委員として、公務員として、人類にとってより“マシ”な選択を支持する仕事に就いている。
「だから…それでいいんだ。人が1人2人死のうが世界は滅びやしない。だが、この選択を間違えれば、何千人もの人たちを地獄に突き落とすことになる。」
現在、俺は今…“選択”を実行する部下たちに、電話で指示をしているところだ。
「ああ、だからそれでいいって。…しつこいなお前も。そうだよ。それで全て上手くいくんだ。」
尚も食い下がる部下を俺は宥めすかす。
「いや、それは今更だろう?…それでいい。…いいからやれ。それが人類にとって最善の選択だ。」
「…ほ、本当に、いいんですね?」
「ああ、やれ」
俺の目の前、震える手で電気銃を突きつける部下に、俺はそう言った。
「コイツと付き合って数年、やっと気づいたよ。…こんな機械を開発し、利用する国家なんてのは、別の国家にとっては脅威だ。ようやく気づいたんだ。この機械とそれに関する組織はいずれ、戦争を引き起こす。」
背後にある、未来予測AIを俺は指し示す。
「だから、俺が命令した通りだ。それでいい。この機械の管理者諸共、吹き飛ばしてくれ。」
「…」
俺は今にも泣きそうな部下にそう告げる。
「…これで、人類の平和は維持される。迷う余地はないさ。徹底的にここを破壊しろ」
「…はい。」
部下は震える声で、それでも、なんとか答えた。
「…お前は相変わらずだな。新人の時に返事は大切だと、教えたろう?今の返事じゃ、及第点すら出ないぞ」
「…っ」
俺の笑い声だけが、部屋の中に響く。
「まあ、今日くらいはそれでいい。さあ、頼むぞ」
「っ、はい」
部下の指が、電気銃の引き金を引く。
「それでいい。…最期の部下が、お前で良かったよ」
霞ゆく視界の中で、部下を見る。相変わらずの情けない顔をしているが、それでも、見違えるほどに良い職員となったものだ。
「…ありがとうございました。さようなら……」
情けない顔をした自慢の部下の、震える、か細い声が、最後に聞こえた。
木製のテーブルの上に、1つだけ、可愛らしいまんまるのものが転がっている。
白くて、手のひらに包めるくらいの可愛らしい大きさの。
私は紅茶のカップを手に取る。可愛らしいアンティークのティーカップ。白い陶器にちょこんと描かれた、1つだけのピンクのバラの絵が上品で、お気に入りだ。
向かいの席にはテディベアが座っている。
私の1つだけの同居人(?)だ。
この家は、私の好きなものの詰め合わせだ。頑張って、徹底的に好きなもの1つだけを詰めたこのお家を作った。
そして、ようやく完成したこの好きなものだらけの家で、好きなものと好きなことに囲まれて、私は暮らしている。
私の父親は、ほとんど家にいなかった。そしてある時、とうとう死んだ。
母はその心労で、私を異常なほどに可愛がり、保護したがった。私と母は、ずっと2人きりで生きてきた。
その母も、5年前に倒れて、今も意識は戻らない。
その日から私は“オンリーワン”に拘り続けた。誰かの“1つだけ”になりたくて、何かを“1つだけ”愛したかった。
3年前、私には家族も同然の仲間ができた。
愚直な僕くん、そんな僕くんを支える幼馴染くん、そして頼れるアドバイザーの彼。
みんなと過ごす時間は、私にとっては“1つだけ”の“大切なもの”だった。
でも、みんなにとって私は“1人だけ”じゃなかったらしい。僕くんは、1年前、私たち以外の“大切なもの”を守るため、戦いにいった。
私は自分が“1つだけ”になれなかったショックで、「大丈夫。」なんて心にもないことを口走った。
私は“1人だけ”になりたい。“1つだけ”になりたい。変えの効かない“1つだけ”に。
私は“1つだけ”。私が愛するものも“1つだけ”。私にとって、何もかも“1つだけ”、たった“1つだけ”でいい…
だってほら、1つだけならこんなに世界は綺麗だ。
見たくないものも、1つだけなら、見なくて済む。
私は窓の外を見て、そう思う。
だから私は、紅茶を一口飲んで…口ずさみながら…テーブルの上の白いまんまるを手に取る。
ぬらぬらガラス玉のように光るそれ。
私はそれをゆっくり潰す。
くちゃり、と柔らかな音を立てて、それは呆気なく潰れた。
これで、私の目は世界で“1つだけ”の目。
いいでしょ?
座るテディベアに向かって微笑んだ。
今日も他にないほど素敵な1日!
窓の外には、真っ暗な夜空が広がっている。ネオンや電灯で彩られた夜景と、暗く染まった大気。
外からは微かに、雨の降る音が聞こえる。
僕は、フローリングの床に転がるデジタル時計を眺める。
時刻は23:59:48。もうすぐ日付が変わる。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
僕は外を眺める。
遠くでゴロゴロ…と雷が鳴る。
「大丈夫。」
あの子の声が、頭の中にこだまする。
「大丈夫だよ。心配しないで。私、待てる。」
あの子がそう言ったのは、もう一年も前のことだ。
「お前の“大切なもの”はそれなんだろ?」
アイツの声が、耳小骨を震わせる。
「こっちのことは気にすんな。お前にとっての“大切なもの”を守れよ」
アイツがそう言って、僕の隣から外れたのは、一昨日のことだ。
「貴方にとってそれが大切なら、応援しますよ」
彼の声が、海馬を巡る。
「貴方は私たちにとっての希望で、“大切なもの”です。私はいつでも貴方の、“大切なもの”の味方でいたいのです」
彼がそう言って、僕の背を押してくれたのは、いつだったか。
「やあ、君っていつもそうだね」
ネオンの夜景の中、僕の目の前で、背の高い“ヤツ”は、その長い尾をしならせながら、カツカツと歩く。
「君はいつもそうだ。自分の信念しか見ていない。理想しか見ていない。前しか見ていない。だから足元を掬われるんです。」
ヤツは、僕を見るとニンマリと笑う。
「君の敗因はそこだ。残念です。」
「しかし、そのおかげで、君_いや、貴方は__私にとっての“大切なもの”になったのです。」
ヤツは_彼は僕の目を覗き込み、口の端を吊り上げる。
…悪魔だ。
「君は私にとって“大切なもの”。私が、穢れた口だけの“アドバイザー”から、純粋な行動を起こすための“悪役”になるための、初めての“犠牲”となるわけですから!」
彼はいつものような柔らかな笑みで、けたたましく、高らかに笑う。
「もちろん、殺しはしませんよ。貴方は私の悪行を語り、新たなる“英雄”を、“革命”を呼ぶ“語り手”となってもらうのですから!」
彼は銃を構え…ふと銃口を逸らし、ジッとこちらを見つめる。
「…ああ、そうだ。君を気絶させる、その前に一つ聞いておきましょうか。貴方の“大切なもの”。ここまでして守りたかったものはなんなのですか?」
僕は搾り出すような、蚊の鳴くような声で答える。
もう無理だろうと諦めながら、それでも、それが彼を引き戻すという一縷の希望を込めて。
「どれだけ無理だと言われても…僕は…僕は…君と、アイツと、あの子と…それからこの組織の……家族同然の…“絆”が大切で……守りたかったんだ…」
カチリ。彼の腕時計の針の音が聞こえた。
拝啓
春の日差しが煌めく今日この頃、先生の方は、お変わり在りませんでしょうか。
ご無沙汰しております。なかなか近況報告申し上げられなかった不義理をお許し下さい。
本日このように御手紙差し上げたのは、もちろん、普段の不義理をお詫びするという主旨もありますが、もう一つ、お詫び申し上げなくてはならないことがあるのです。
先生に打ち明けねばならぬことがあるのです。
私、実は、人間ではないので御座います。
この国では馴染みも発見もされていない、言うなれば未知の生物…それが私に御座います。
ですので、私、人間やこの国に生きる生物とは異なる点が幾つも存在します。生物学的性もその一つに御座います。
私は男でも女でも御座いません。
私は無性なので御座います。
先生には、私が年頃になった四月から、私に、男女の仲のこと、婚姻のこと、家庭を持つ重要さ…様々なことを折りにつけて、教わって参りました。
また、先生にはお手紙を通して、ことに触れては、お見合い、各団体の宴へのご紹介も賜ってまいりました。
しかし、その全てに、失礼ながらお断りさせていただいたのには、このような事情が在りましたことをご承知願いたいのです…。
長年、この様な大切なことを秘密にしていたこと、
事由も説明せず、先生とは疎遠になってしまったこと、
先生に付きましては、御立腹なさるのも、当然と存じます。申し訳御座いません。
私は、通常の、人間としての生活が気に入って居ります。ですので、研究や学問の対象になることが怖く、今の今まで、この事を誰かに申し上げるつもりは在りませんでした。
しかし、先生に付きましては、心から私の将来を思い、沢山の御配慮、御施策を下賜して下さいました。
ですので、先生へは打ち明けねばなるまいと、決心した次第で御座います。
仰天のことと存じます。気味が悪いと思われるかもしれません。
しかしこれが真実であり、従って、私から申せることは以上で御座います。
直ぐに受け入れて頂けるとは思って居りません。それでも、何時か、御理解頂けた時は是非、御返事頂ければと思います。
それではこれで御手紙を閉じようかと思います。
先生に於れましては、是非、本日が如何なる日か熟考して頂き、御返事頂けることを期待して居ります。
本日の午前中迄には届きます様に。
敬具
先生へ
四月一日 或る書生より