「どうか、幸せに」
随分と無責任な書き置きだ。
俺はメモを拳の中で、ぐしゃりと潰す。
薄汚れた箱に入れられた赤ん坊が、手足を蠢かせている。この辺で生き抜くには、あまりに脆くて、柔らかすぎる生物だ。
俺はなるべく傷つけないように、それをそっと抱き上げる。どうするかは“上”次第だろう。俺が規定に沿って報告するなら。
最悪と不幸を煮詰めたその日限りの肥溜めに置き去りにされた赤ん坊の将来なんて、碌なものにはならない。この時代、ここで生かされている全ての“モノ”にとって、それは不文律大前提の常識であり、これを生かした当本人にも、それは充分、承知のことであったはずだ。
「なぜ、これを幸せのまま、死なせてやらなかった?」
俺は、目の前の、ブルスクを吐く端末の画面の前で、コンクリの壁に向かって、問いかける。
「…」
返事はもちろんない。
「俺に発見させれば、幸せにしてもらえるとでも思ったのか?」
「…」
「手前を処理しに来たのも俺だ。俺は手前のように忠実ではないが、仕事は真面目にやる。そんな俺にこれを押し付けるなんて、気が狂ったんじゃないか?」
「…」
「手前のために俺が動くとでも思ったのか?確かに俺たちは同期で、相棒で、いつも一緒に生き抜いてきたさ。底辺から抜け出して、幸せになるのも一緒だって話したもんだ。」
「…」
「手前は策があるって言ったな?俺には思いつかないような素晴らしい秘策が、なんて」
俺は息を吸う。
「それが、その10年あっためた秘策とやらが、この体たらくか?」
「…」
返事はない。
俺は深く息を吐く。
着ている戦闘服の、剥き出した導線を流れる火花が、パチッと音を立てる。
「…仕方ねえ。俺はこう見えて、情に篤いんだ。尻拭いはしてやる」
俺は、赤ん坊を抱える。
そして、安物のアタッシュケースに詰められた、装備の隅にスペースを空ける。
「狭いが、我慢してくれよ。生きたければ、大人しくしてるんだ。頼むぞ。お前だけが形見なんだから」
俺は赤ん坊に言い聞かせて、装備の隙間に押し込む。
廃棄袋を持ち上げる。中身は、かつての相棒の脳漿だ。
「はあ…最期まで面倒事を残しやがって…」俺は呟く。
「…まあ、せいぜい頑張ってやるよ。手前の分も幸せにするためにな」
俺は、真っ赤に染まるコンクリの壁に向かって言い捨てる。
部屋を出る。背後で、扉の閉まる音が、重く、盛大に、響いた。
「ことなしぶ」
薄暗い闇の雲の中、吾は呟く。
眼下には、吾には眩しすぎる光が広がっている。
ヒトの夜も、吾がよく陸空へ降りていた頃に比べると、かなり明るくなった。ヒトが、吾の姿を捉えられる陸空へ降りなくとも、街の様子がよく見える。
「ことなしぶ」
吾は呟く。
あるヒトが、疲れた顔をして、手に持つ電子機器に目を落としながら、歩いている。ヒトの通る道の端、母猫に捨てられた子猫がうずくまっている。
「ことなしぶ」
吾は呟く。
あるヒトが、ヨレヨレの服を整えることもできず、寝たふりをしている。目の前に立つヒトもまた、何もいうこともできずにぼぅっと、席に座るヒトの後ろの窓を眺めている。
「ことなしぶ」
吾は呟く。
吠え声を上げ、荒事を楽しむヒトの群れ。
そのヒトの群れから、目を逸らして通り過ぎるヒトの群れ。
「ことなしぶ。ヒトの世は昔も今も変わらぬもの」
吾の両眼が見えたのだろうか、一匹のヒトの子が、吾の方を指差し、叫ぶ。
「ママ!あそこ光ったよ!UFOかな?飛行機かな?」
「…バカなこと言ってないで、さっさと帰るわよ。もう夜遅いんだから」
「でも、ほんとに光ったよ!ぼく見たもん!ママも見た?」
「はいはい、もういいから。ほら、もうお化けの出る時間よ」
「うしみつどき?」
「はいはい、さっさと帰るわよ…いい子はもうねんねの時間よ」
疲れ切った顔をしたヒトが、寂しそうな顔をしたヒトの子の手を引き、帰路に着く。
「ことなしぶ。何気ないふりのなんと愚かなことよ」
ヒトが素知らぬふりなどやめれば、吾の亡魂も少しは浮かばれようものよ。
「だが、しかし、ヒトの世とは、何気ないふりをせねば、生きていけぬものよ」
吾は呟く。
「ヒトは皆、くたびれておる。何気なく素知らぬふりでもせねば、全てに心を尽くしておれば、ヒトの心は疲れ切り、荒びてしまう。吾が浮かばれぬのも仕様のない宿命なのかも知れぬ。ことなしぶ、誠にことなしぶ世の常よ」
もうすぐ夜が明ける。
朝になれば、吾はまた、鵺塚に戻る。
吾の身体はバラバラに振り分けられ、いくつもある全ての鵺塚に戻るのだ。
だが、吾はもはや、吾が浮かばれることを望んではおらぬ。
「ヒトよ。ことなしび、闇の中で生きよ」
吾はゆっくり帰路に着き始めた。
「…ようやく辿り着いた。ここがハッピーエンド…」
私は腕を下ろす。
目の前には、私が望んだ理想の景色が広がっている。
「よく頑張ったね」私は笑いかける。
…君からの返事はない。照れてるか、意地を張っているんだろう。我慢強くて、大人っぽくて、いつも冷静な君のことだ。感情を表に出すのは苦手な君だから…
大丈夫、いつものことだ。私は気にしない。
「もうこれも、いらなくなっちゃったね!」
君に笑いかけて、私は剣を放り投げる。重たかったはずの剣はカランッと思いがけないほど軽い音を立てて、焦げた硬い地面に転がった。
その音がしてようやく、君は浅く口を開く。
はぁ、はーぁ
君が息をする。
「私たち、もう戦う必要、ないんだよ。みんなの平和や正義を、自分を犠牲にして、守る必要はもうないんだ!」
私は君に語りかける。
はぁ、はーぁ、はぁ
君は浅く息をする。
「私、解放された気分!だって、もう、やりたいこと我慢して、命かけて、危ない思いして、あんな怪物とか、あんな悪いやつとか、戦う必要も、ないんだよ!」
はぁ、はーぁ、はぁ、はぁ
「私たち、もう、授業を抜け出さなくて、済むんだよ!放課後に、遊ぶの諦めて、パトロールもしなくて、済む!勉強も、運動も、他の人とか、社会なんか、気にせずに、好きなだけ、好きなだけ、できる!」
はぁ、はぁ、はぁ、はーぁ、はぁ
「学校も、部活も、趣味も、遊びも、私たちが、好きなように、できる!私、幸せ!」
はぁはぁはっ、げほっ、はぁ、はーぁ、げほっ
「だって、私たちが、守らなきゃいけない物も、救わなきゃいけない人も、建物も、生物も、何もない!私と、貴女、2人きり!」
げほげほっ…はぁ、はぁはぁはーぁ、…げほっ
「私たち、もう、ヒーローじゃなくていいの!普通の、ただの、学生に、戻れたんだよ!」
「ね、だからさ、一緒に楽しもう?私たちの、ほんとの、ハッピーエンドは、ここだったのよ!」
私は、うずくまってえずく君に手を差し出す。
君の浅い息と、泣き声と、私の声。
それ以外に音はない。
辺りは一面、どこまでも、黒く燻った地面が広がっている。私が、いつかのあの時から、ずっと待ち望んだ景色。なんて清々しい景色だろう。
もう、怪物と戦う私たちを応援する人間はいない。
もう、誰かを救えなかった私たちを責める人間はいない。
もう、全人類の正義と希望を私たちに背負わせる人間はいない。
もう、私たちの生活にヒーロー像を押し付ける人間はいない。
もう、全てを守れと私たちに命令する人間はいない。
もう、私たちに守ってほしいと縋る人間はいない。
もう、私たちを脅威として殺そうとする人間はいない。
面倒なものは何もない。完璧なハッピーエンド。
「幸せだね、私たち」
うぇっ…
満面の笑みの私に、答えてくれるのは君だけだ。
思わず手に取ってしまった。
人目がある手前、すぐに戻してしまうわけにもいかず、パック越しに見つめあう。
夕飯時のスーパーの鮮魚売り場。
お仕事帰りのお客様や、安く夕飯を調達しに来たお客様で、店内はまあまあ賑わっている。
私はふたたび手元に目線を落とす。
私の手の中の、パック越しの、無数の桜エビたちに見つめられる。
胡麻よりも小さい、針で刺したような目だ。
割引シールを貼りかけて、手を止める。
何をしているのだ、私。これは保存の効く商品。まだ割引シールを貼らなくても良いものだ。このシールは桜エビたちのためのものではない。
私はそれをそのまま商品棚に戻す。
こちらを見つめている鯵を手に取り、2割引のシールを貼り付ける。
後ろの方から、割引シールを貼られた商品を待つお客様に見つめられる。一昔前は、くたびれた普段着を召した主婦の方の視線が強かったが、今では、スーツに身を包んだサラリーマンのお客様もちらほら見える。
誰もがお得に買い物したいのだ。
「早く貼り終えてくれねぇかな…」という圧を感じてしまうのは、私の考えすぎだろうか。
私は鯵に2割引シールを貼り終えると、隣の鮭の切り身のパックを手に取る。こちらは目がついていないから、気が楽だ。
割引シールを貼る時、商品に見つめられるとなんだか居心地が悪い。この時間帯まで売れ残った商品の目は、「私は定価の価値すらないの?」と言っている気がする。
でも、割引シールを貼らないのに商品に見つめられるのもなかなか居心地が悪い。これは今日初めて気づいた。
…桜エビたちに見つめられた時の光景が、頭から離れない。あの子たちを商品棚に戻した時、「私たちには割引される価値すらないの?」と言われたような気がして。
見つめられるのは苦手だ。居心地が悪い…。
それでも、とりあえず私は、生きるために割引シールを貼り終えなければいけない。
私は静かに溜息をつくと、カートを押して、次のお惣菜売り場へ向かった。
オレは10歳の時、突然倒れた。
生まれつきの欠損が発覚したのは、その時だ。
肉体改造のため、ドナー提供用の家畜が飼われる昨今、そんな風潮に異議を唱える“昔カタギ”の人間である、オレの親父とお袋は、息子のそんな知らせを聞いて泣き崩れた。
肉体改造のために発達したバイオ技術を使った移植手術を受けない限り、オレは一生このままだと、医者は脅した。
頑固なことに定評のある姉貴は、「諦めなければ、何か手はあるはず」と、医者を探し回った。
そしてついに、その手を見つけて来た。
親父とお袋は、その手術をオレに受けさせるために、身を粉にして走り回った。
そして、今のオレがいる。
「バカな!こんな型落ちの肉体に私が負けるわけがっ…!」
真っ赤な床の上、目の前に倒れ伏したヒトが言う。
肉体改造を重ねたのだろう、不自然にしなやかで血管の盛り上がった肉体に、異常発達させた爪や武器のために突出した骨が、浮き出ている。
「このバイオ絶縁体を内臓部に合わせれば…右心房の…電気興奮が……阻害され、…心…臓は、動かなくなり、……動きを止めるはず…では…」
ピルケースを握りしめ、絞り出すようにうめく奴の脳天をオレは撃ち抜く。
パァンッと乾いた音が響く。
これだけ肉体改造しているのなら、どうせ脳も2つあるんだろう。
案の定、奴は血まみれの頭をもたげる。
オレはその頭を掴むと、奴の目を見つめる。
「なあ。お嬢さん、一つ教えておいてやろう」
「オレの心臓はここにはねえ。オレの心臓はな…」
驚いたような怯えたような奴の顔を眺めながら、オレは鎖骨のすぐ下を軽く親指で叩いてみせた。
「My heart is here。ここにあるのさ」
肌の上からでも、こつこつと硬い感触とほんのり持った熱が伝わる。
姉貴が見つけ、探し、買い取ったペースメーカー。'24年の年代物だ。
「…よし、連れてけ。お前たち、“家族”の分も、じっくりもてなしてやれ」
オレは顎をしゃくり、若い衆どもに伝える。
奴は引き摺られ、赤い筋を残しながら、消えた。
オレは葉巻の灰を落とし、革張りのソファに腰を沈める。
「時間がかかったが、やっと終わった。…苦労かけて、挙句にこんな待たせて…不甲斐ない弟ですまない、姉貴」
写真立ての中の姉貴は、あの時と変わらない顔で笑っていた。