薄墨

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「ことなしぶ」
薄暗い闇の雲の中、吾は呟く。

眼下には、吾には眩しすぎる光が広がっている。
ヒトの夜も、吾がよく陸空へ降りていた頃に比べると、かなり明るくなった。ヒトが、吾の姿を捉えられる陸空へ降りなくとも、街の様子がよく見える。

「ことなしぶ」
吾は呟く。

あるヒトが、疲れた顔をして、手に持つ電子機器に目を落としながら、歩いている。ヒトの通る道の端、母猫に捨てられた子猫がうずくまっている。

「ことなしぶ」
吾は呟く。

あるヒトが、ヨレヨレの服を整えることもできず、寝たふりをしている。目の前に立つヒトもまた、何もいうこともできずにぼぅっと、席に座るヒトの後ろの窓を眺めている。

「ことなしぶ」
吾は呟く。

吠え声を上げ、荒事を楽しむヒトの群れ。
そのヒトの群れから、目を逸らして通り過ぎるヒトの群れ。

「ことなしぶ。ヒトの世は昔も今も変わらぬもの」
吾の両眼が見えたのだろうか、一匹のヒトの子が、吾の方を指差し、叫ぶ。

「ママ!あそこ光ったよ!UFOかな?飛行機かな?」
「…バカなこと言ってないで、さっさと帰るわよ。もう夜遅いんだから」
「でも、ほんとに光ったよ!ぼく見たもん!ママも見た?」
「はいはい、もういいから。ほら、もうお化けの出る時間よ」
「うしみつどき?」
「はいはい、さっさと帰るわよ…いい子はもうねんねの時間よ」

疲れ切った顔をしたヒトが、寂しそうな顔をしたヒトの子の手を引き、帰路に着く。

「ことなしぶ。何気ないふりのなんと愚かなことよ」
ヒトが素知らぬふりなどやめれば、吾の亡魂も少しは浮かばれようものよ。

「だが、しかし、ヒトの世とは、何気ないふりをせねば、生きていけぬものよ」
吾は呟く。
「ヒトは皆、くたびれておる。何気なく素知らぬふりでもせねば、全てに心を尽くしておれば、ヒトの心は疲れ切り、荒びてしまう。吾が浮かばれぬのも仕様のない宿命なのかも知れぬ。ことなしぶ、誠にことなしぶ世の常よ」

もうすぐ夜が明ける。
朝になれば、吾はまた、鵺塚に戻る。
吾の身体はバラバラに振り分けられ、いくつもある全ての鵺塚に戻るのだ。

だが、吾はもはや、吾が浮かばれることを望んではおらぬ。

「ヒトよ。ことなしび、闇の中で生きよ」
吾はゆっくり帰路に着き始めた。

3/30/2024, 11:01:16 AM