羽根が突き出される。
鯖色が輝く、立派な風切り羽根だ。
「…ん、なんだ?これ。くれるのか?」
私が聞くと、その羽根は机の端に置かれる。
その方へ目線を落とすと、羽根を突き出した張本人ーまだ5歳にも満たない幼子は、ふんわりと笑い、頷く。
「…そうか。ありがとう」
机の上に目線を移しながら、私は言う。
物欲しげな、澄んだ瞳で見上げてくる。その頭を撫で、
「良いものを見つけたな。こんなものを見つけられるなんて、良い目をしてるな。ありがとう」
改めて、瞳を見つめて言うと、彼女は目を輝かせる。みるみる、幸せそうな笑みが広がってゆく。
思わずこちらの顔も綻んでしまう。
笑うのは苦手だ。だから、この子といる時の私の顔は見れたものではないだろう。
それでも、彼女は嬉しいらしく、輝く柔らかい瞳をさらに和らげ、片えくぼを深くして、にっこりと笑う。
切り裂かれるような傷みが、チリッと胸の奥に走る。
彼女は私に向かって、もっと遊んでくるね!というように手を大きく振って、中庭に駆け出して行く。
あの子は無口だ。そして、人見知りも激しかった。
母親が死んでから、…とにかく、今のところは彼女が言葉を発することは、ない。
口を貝のように閉ざしたまま、他の誰にも頑なに表情を見せないまま、それでも私には素直な笑顔を向ける。
その度に私は、胸の奥に、自分の心の裡に、小さく鋭い傷みを覚える。
かつて、私の特別な存在だった、あの人を守れなかったのに。
かつて、あの子の特別な存在だった、あの子の母親すら守れなかったのに。
かつて、私は他人の特別な存在を、少なからずも手に掛けたというのに。
そして、今もあの子を、世界から他人から隔絶して、色々な可能性を潰してきたというのに。
なぜ、私が特別な存在かのように笑ってくれるのだろう。
羽根は、春の日を受けてキラリと輝いていた。
いくら自分の罪悪感を駆り立てる存在だとしても、私にとって彼女がくれたこの羽根は、もう特別な存在だ。
…羽根ペンにでもするか
頬が緩むのを感じる。久しぶりに、心から笑えた気がした。
「バカみたいな幸せってさ」
二人で学校をバックれていく河川敷。なにもせずに空を眺めていたお前は、唐突に、言う。
「愚かな幸せなんだよな。いっぱい幸せなんじゃなくて、知らないから幸せでいるって感じでさ、manyじゃなくて foolなんだよ」
「なに言ってんだよ、勉強しすぎてバカになったか?」
俺がまぜっ返すと、お前は、そうそう、と息だけで笑う。
「今のお前みたいなのを、本当はバカみたいな幸せっていうんだぜ」
「なんだよお前、俺がバカだっていうのか?」
「ああ。お世辞にも学力があるとは言えないだろ、お前」
「うるせー。社会に出りゃ、勉強なんて役に立たねーんだし、勉強だけできてて飯が食えるかよ。留年しなきゃ学生としての役目は十分だろ」
はは、お前は口を開けて笑う。
「そこで、『勉強なんて役に立たねー』って断言できるところが、お前のバカたる所以だよ」
うるせー、俺は口だけで言う。
「やー、でも」お前は深く息を吸って、俺の方を向く。
「お前がバカでよかったよ」
「…何だよ急に」俺は背筋を伸ばして、お前をしげしげ眺めて
「バカにしてんのかよー」と、拳を振り上げてみせる。
「まあ、お前がバカなのは事実だし、バカにはしてるな」
「おまっお前っ、そんな、そんな、そんな………開き直りやがって!!!」
「どうした?ふてぶてしく開き直りやがって、とでも言いたかったか?」
「それだ!」
ははは、お前は本当に面白そうに笑う。
「開き直るが出てくるようになっただけでも成長だな」
そう言ったお前に、俺はなにか、居心地が悪くなってくる。
俺は、なにが引っ掛かってるのか分からないままに、居心地の悪さに倣い、微妙に目を逸らしながら言う。
「さすが、幼馴染。意思疎通バッチリじゃね」
「一方通行だけどね。お前→僕みたいな」
お前はさらっと、いつもの澄まし顔で言う。
…だから俺は、さっき感じた違和感に気づかないバカのふりをする。
「なんだよ!俺ばっかり言ってるみたいに言いやがってさ。もう俺たち、十…数年くらいの付き合いなんだぞ?お前の言いたいことを俺が読み取ったことだって、一度や二度くらいは…」
「いや、僕とお前は知り合ってからもう十三年と四ヶ月になるが、一度もそんなことはなかったな」
畳み掛けるように言って、お前はふと、静かに俺に向き直る。
「お前はずっと、そのままでいてくれよ」
「…え」
ハッキリ聞き返したはずの俺の声は、びっくりするほどうちにこもって、だからお前には聞こえなかった。
「…そろそろ帰るか!」お前の無駄に明るい声に俺は答える。
「えー、もう戻るのかよ!」
お前が好きな、バカな俺のままで。
「なんだよ、もう一時間潰してんだろ。遅すぎるくらいだ」
「はー、出たよ、マジメくん。授業は潰せば潰すほど良いんだろうが」
この時、俺がバカみたいに忘れてなければ。
俺が一生懸命、お前の“バカみたいな幸せ”について考えていれば。
こうはならなかったのかな…
テレビのニュースに映し出された、他人みたいなお前。
被害者欄に貼り出される、昔馴染みのおばさん。
病室でお前のことを語る、怪我したクラスメイトたち。
「…犯人は現在、凶器を持ったまま、逃走中です。犯行の動機は再婚による家庭内トラブルおよび陰湿なイジメに耐えかねてのものだと推測され…」
お前の言葉だけを真に受けて。
お前の表情も事情も分かろうとしないで。
なのに、捕まらずに殺されずになんとか無事に帰ってきてほしいなんて。
俺を恨んで、殺しにきたって良いと思うなんて。
バカみてえ、俺
バカみたいだな
裏口の戸の鍵が開いた気がした。
私とあの子は、毎日一緒にいる。
小学校に入っての初めての友達で、誰よりも付き合いの長い親友、だから。
学校でいつも一緒にいるのは当たり前。友達の中で一番、仲がいい。喧嘩なんて、一回もしたことがない。
それは高校に入った今でも続く関係。
私たちは当然のように同じ高校を受験して、同じ科目をとって、移動教室の時は、別グループで話していようと真っ先に集合して、二人になる。
磁石みたいだよねー、二人って。グループのみんなは言う。
どっちも絶対に裏切らないよね〜、まさに二人ぼっちってカンジ?って。
そう、私たちはいつも二人。二人ぼっち。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
あの子の家の前で、いつものように挨拶して、いつものように鍵の音を聞きながら、背を向ける。
一人で歩き出す。明日、あの子と一緒に行かなきゃいけない教科ってあったっけなーとか考えて…ふと、思う。
そういや、私今日、あの子と何喋ってたんだっけ?
…なに喋ったんだっけ?全然出てこない。……そもそも、最近あの子とどんな風に帰ってた?
なにも出てこない。当たり前だ。ここ最近、あの子と喋った記憶がない。
私たちはただなんとなく集まって、一緒に歩いただけ。
私、その時普通になに考えてた?あの子のこと、考えたっけ?
……思い出せない
グループのみんなと、私とあの子の話をしてた時の、会話の続きを思い出す。
「二人ぼっち!!なにそれ、ぴったりじゃん!」
「いいな!私も二人ぼっち欲し〜」
「…ん?ちょっと待って、それ、なんか言葉の使い方、おかしくない?」
「出たよ国語オタク」
「え、どっか引っ掛かるとこある?」
「ああ、うん、えっと…“ぼっち”ってさ、“ひとりぼっち”とかって使うじゃん?」
「うんうん」
「その時の“ぼっち”ってさ、寂しいひとりってのを強調するために使うじゃん?“ぼっち”単体もそういう意味だし?」
「まー確かに」
「なんとなく分かるわ」
「だからさ、“ぼっち”がそういう意味なんだったらさ」
「二人“ぼっち”って二人なのに寂しいって意味になんない?」
…あの時、みんなはなんて答えたんだっけ?
でも、今の、確かにさっきの“二人ぼっち”って感じじゃない?
二人でいたけど、私は何も考えてなかった。一人で帰るのと変わんない。二人だけど、一人。二人ぼっち。
胸の奥から、カルキ水みたいな切なさが込み上げる。
寂寥感、っていうんだよ。お節介な脳が囁く。
二人だけど、一人。二人だけど、寂しい。
…そっか、私たち、二人ぼっちだったんだ。
冷たい風が、私を追い越して行った。
鋭い、黒いあぎとが目の前に迫る。鋭い半月型の牙と、細かいびっしりとした牙が縁取られたその真ん中に、ザラザラとした真っ赤な、長い舌がのたうっている。
僕は素早く踵を返す。
バクンッッ。うなじのすぐ後ろで勢いよく顎の閉じる音が聞こえる。
逃げなきゃ。きみのために。
朝まであと何時間だろうか。
おどろおどろしい足音が、背後からドタバタと聞こえる。
僕はお世辞にも足が速いとはいえない。だから逃げるのには工夫が必要だ。
僕はうねうねと曲がりくねった道を駆け抜ける。
ギリギリまで引きつけて、いきなり走る方向を変え、急なカーブを混ぜ、振り切る。
幸い、この辺には土地勘がある。何度も通っているこの道だ。目的地に導くのは難しくない。
僕は力いっぱい走る。息を切らし、足を絡ませながら…
顔を上げる。目の前にはコンクリートの壁。
乱れた息を弾ませながら、僕は立ち止まる。膝に手をつき、ぜいぜいと息を整える。その間も後ろの足音は止まらない。
僕は壁を眺め、そして、足音に向き直る。
足音はゆっくりと近づいてくる。
足音の主は、ギョロリと剥いた眼をこちらに向ける。
長く垂れた鼻を揺らし、ゆっくり、ゆっくりと僕に近づき、顎を持ち上げ……
僕は、うっとりとその顎に触れる。
柔らかい毛がびっしりと生えたその顎は、まるでビロードのように柔らかい。
きみは困ったように口を閉じ、頭を下げてくれる。
ああ、なんて素敵な夢だろうか。
僕はその耳に口を近づけ、そっと囁く。
「こんばんは」
ビクッときみは身体をすくめ、耳を伏せる。
顎の後ろに生える、たてがみのような縮れ毛をとかしつつ、僕は話す。
「今日の気分はどう?元気だった?」
「でも、きみが、僕の友人で主人格のアイツのために、ここを荒らしにきていたとしても、僕を食べるために来てるんだったとしても、僕は構わない。きみにさえ会えればね」
きみ…もとい、獏は、小さく唸りながら、後退りする。
そんな獏の喉に手を回しながら、僕はねっとりと話す。
「きみは逃げられないよ。アイツが…僕たちの主人格が夢から醒める前はね」
…思えばここで、アイツの無意識と、きみに言い聞かせるためのこの言葉も、ずいぶん甘く話せるようになったものだ。
「夢が醒める前ならば、ずっと夢を見ていられる。現実でどんな辛いことがあったって、僕-僕たちが一緒にいてあげられる。友達でいれるんだ。」
「だから安心して…おやすみ」
獏-きみは観念したように、僕の腕の中で、その美しい、長い睫毛のついた瞼をゆっくり閉じる。
そう、僕たちはずっと一緒にいる。
僕たちが夢から醒めるまで。
横顔が見える。煌々と目を輝かせた笑顔の横顔が。
口角を吊り上げ、歯を剥き出す、まるで胸の高鳴りをそのまま人の顔に閉じ込めたみたいなその表情が、私は好きだ。
そのぎらぎらした貪るような目線の先には何があるのか、私は誰よりも知っている。
だから私は、その横顔の肩を叩く。
「次だからね、しっかりしてよ」
「分かってる。終わったら、お疲れ様とかよろしく」
彼女は、目線を外さずに声だけで答えた。
終わった後のことなんか、考えてないくせに。
私は口だけでそう言って、横顔をまた、見つめる。
「わ、笑ってるの?」
後ろからのおずおずとした声に、ああ、と私は答える。
「あなた、編入生だから…ウラのあいつ、今回初めてみるんだったね。ウチではいつものことなのよ。ほら」
私は身体をずらし、自慢の横顔を見せてやる。
「あいつ、楽しそうな顔するでしょ?だからつられてね。毎回恒例よ」
「あ、あの…楽しそうというよりはその……鬼気迫ってるっていうか、ケンカ前みたいな顔してるように見えるんだけど…?」
困ったような顔に、私は思わず笑ってしまう。
ムッとしたような、困惑したような声が、私の笑い声にかぶさる。
「…だって、あんな戦いの前みたいな顔…」
ふふっ。「とても合唱部とは思えない、でしょ?」
驚いたような顔で、彼女は黙り込んで…
「そう」絞り出すように言う。
「うん、みんな驚くよね。でもアレがあいつの最高に楽しい、気合い入ったー!って顔なのよ」
「そして、あんな顔してるのに、誰よりも実力があって、綺麗で、優しい声なのよ、あいつは」
そう答えると、彼女は少し俯いて、
「うん。それは知ってる」
「でしょ?」私は、後ろの部員たちに笑いかける。
「さあ!あのコーラスバカのスイッチも入ったことだし、あいつに全部持ってかれないように頑張るわよ!
あいつは確かに上手いかもしれないけど、ブレーキなんかないんだから!」
最高の笑顔を浮かべながら、私は続ける。
「私たち、ハンドルの強さを見せてやろうじゃないの。最高のエンジンを使ってね!」
部員たちの気合いの入った顔を一瞥し、私は“最高のエンジン”…それから、その先にあるステージに向き直る。
正直なところ、私はこの瞬間が一番、胸が高鳴る。
あの横顔をステージ裏で見る、そしてその横顔と共にステージに上がる、この瞬間が。
拍手が止む。
沈黙の降りる会場に、私たちは並んで、一歩を踏み出した。