薄墨

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鋭い、黒いあぎとが目の前に迫る。鋭い半月型の牙と、細かいびっしりとした牙が縁取られたその真ん中に、ザラザラとした真っ赤な、長い舌がのたうっている。

僕は素早く踵を返す。
バクンッッ。うなじのすぐ後ろで勢いよく顎の閉じる音が聞こえる。

逃げなきゃ。きみのために。
朝まであと何時間だろうか。

おどろおどろしい足音が、背後からドタバタと聞こえる。
僕はお世辞にも足が速いとはいえない。だから逃げるのには工夫が必要だ。

僕はうねうねと曲がりくねった道を駆け抜ける。
ギリギリまで引きつけて、いきなり走る方向を変え、急なカーブを混ぜ、振り切る。

幸い、この辺には土地勘がある。何度も通っているこの道だ。目的地に導くのは難しくない。
僕は力いっぱい走る。息を切らし、足を絡ませながら…

顔を上げる。目の前にはコンクリートの壁。

乱れた息を弾ませながら、僕は立ち止まる。膝に手をつき、ぜいぜいと息を整える。その間も後ろの足音は止まらない。
僕は壁を眺め、そして、足音に向き直る。

足音はゆっくりと近づいてくる。
足音の主は、ギョロリと剥いた眼をこちらに向ける。
長く垂れた鼻を揺らし、ゆっくり、ゆっくりと僕に近づき、顎を持ち上げ……

僕は、うっとりとその顎に触れる。
柔らかい毛がびっしりと生えたその顎は、まるでビロードのように柔らかい。

きみは困ったように口を閉じ、頭を下げてくれる。
ああ、なんて素敵な夢だろうか。

僕はその耳に口を近づけ、そっと囁く。
「こんばんは」

ビクッときみは身体をすくめ、耳を伏せる。

顎の後ろに生える、たてがみのような縮れ毛をとかしつつ、僕は話す。
「今日の気分はどう?元気だった?」
「でも、きみが、僕の友人で主人格のアイツのために、ここを荒らしにきていたとしても、僕を食べるために来てるんだったとしても、僕は構わない。きみにさえ会えればね」

きみ…もとい、獏は、小さく唸りながら、後退りする。
そんな獏の喉に手を回しながら、僕はねっとりと話す。
「きみは逃げられないよ。アイツが…僕たちの主人格が夢から醒める前はね」
…思えばここで、アイツの無意識と、きみに言い聞かせるためのこの言葉も、ずいぶん甘く話せるようになったものだ。

「夢が醒める前ならば、ずっと夢を見ていられる。現実でどんな辛いことがあったって、僕-僕たちが一緒にいてあげられる。友達でいれるんだ。」
「だから安心して…おやすみ」

獏-きみは観念したように、僕の腕の中で、その美しい、長い睫毛のついた瞼をゆっくり閉じる。

そう、僕たちはずっと一緒にいる。
僕たちが夢から醒めるまで。

3/20/2024, 11:45:57 AM