いぐあな

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9/12/2023, 11:59:15 AM

300字小説

秘恋

 画家の叔父には、これは自分の為だけに描いたのだと、とても大切にしている絵があった。
 うちの庭をアトリエの窓越しに描いたもので、薄い青の空の下、満開の淡い桜と東屋が配置された美しい風景絵だった。彼はその絵を時折、切ないような笑みを浮かべ眺めていた。

 叔父の死後、遺言で棺に入れ、共に燃やすよう言われていた絵を、僕は無理に頼み込んで引き取った。その絵を主のいなくなったアトリエのイーゼルに立てる。
「ここから描いたんだ」
 時は絵と同じ春。薄い青の空の下、満開の桜が咲いた東屋で母が日課の午後のお茶を楽しんでいる。
 その時、僕は叔父のサインの上、鉄筆で引っかいたように記された絵の題名に気付いた。
「……『本気の恋』」

お題「本気の恋」

9/11/2023, 11:16:17 AM

300字小説。不思議な文具店。

手帳

 ふと立ち寄った文具店。シックな棚にシンプルなペンや手帳が並んでいた。
「いらっしゃいませ」
 黒縁眼鏡を掛けた老年の店長に声を掛けられ焦る。
「すみません。特に買うものは……」
「そうですか? その手帳は貴女に新しい手帳を買って欲しいようですけど」
 店長が鞄を指す。
「自分に書かれた予定は捨てて、貴女に新しく踏み出して欲しいと」
 手帳を取り出す。そこには先日、別れた彼とのデート予定がカレンダー欄にいくつも書かれている。眺め、小さく息をつく。
「新しい手帳を下さい」

 家に帰り、買ったばかりの手帳にカバーをかける。古い手帳は……
「彼は私を捨てたけど、彼から貰った貴方は……」
 私を大切に思ってくれた。そっと棚にしまった。

お題「カレンダー」

6/5/2023, 8:25:28 PM

300字小説

貴方のお嫁さん

 初めて出会ったのは春の遠足。お弁当の良い匂いに釣られた私におかずを分けてくれたの。
 その後も住む山が無くなり、里に下りた私に、毎日学校帰りに給食のパンをくれた。
 交差点で車に囲まれて動けなくなっていたときは
『危ないだろ!』
と、抱きあげて助けてくれて。
 あのときから決めていたの。一生、誰にも言えない秘密を抱えることになっても、私はこの人のお嫁さんになるんだって。

 玄関のドアを開ける。
「ただいま」
 俺の声に
「おかえりなさい」
 満面の笑みを浮かべ、弾んだ足音と共に妻がキッチン駆けてくる。
 嬉しそうに顔を輝かせて、抱きついてくる妻。
 その尻からぴょこんと生えた焦げ茶色の尻尾には見えないふりをして、俺は妻を抱き締めた。

お題「誰にも言えない秘密」

6/4/2023, 12:49:23 PM

SF。VRTuber(未来のVTuber)。300字小説。

世界は広く

 暗く狭い換気抗を登っていく。
「宇宙放射線は基準値を下回ってますが、地上は未踏のジャングルに覆われています。人類が地下に潜って数百年、未知のウイルスがいる可能性も……」
 相棒のカメラロボの警告を無視して進む。
「未踏、未知、結構。それを撮って流してこそのVRTuberだぜ」
 俺の自己顕示欲と冒険心を満たす為に。そして狭い部屋のような地下都市の、更に狭い部屋のベッドの上で寝ている俺の大事なファンに『世界は広い』と見せてやる為に。

「『amatsukaze』の行ってみよう! さて、今日の配信は予告通り地上のジャングルだ!」
 タブレットから賑々しい音楽と映像が流れる。覗き込む少年の目が輝き、頬が薔薇色に染まった。

お題「狭い部屋」

6/3/2023, 12:01:33 PM

300字小説

君と僕の何度目かの失恋

『失恋したぁ!』
 もう何度目だろう。君からのメッセージにバッグに米とお茶の葉を入れ、アパートに向かう。
 案の定、君はテーブルの上にビールの空き缶をいくつも転がして、ひっくり返っていた。
「すきっ腹にアルコールはキツイよ」
 キッチンに一つだけ置かれている小さな土鍋で粥を炊く。

 高校生の頃から、君はクラスカーストの上位で僕は最下位。大企業に就職した君はキラキラした人を好きになっては敗れている。
「……ほっとする……」
 赤い顔でゆっくりと出来た粥を啜り上げる。そんな公私共に派手に活躍している君が弱ったとき唯一頼るのが僕で。
 もう、僕にしておきなよ。今夜も喉まで出かかった言葉を飲み込み、僕は温かなお茶をそっと渡した。

お題「失恋」

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