『ルール』
良い子になりたかった。良い子でいないと、怒られるから。嫌われるから。だから、ルールを決めた。これを守っていれば大丈夫。これを守っていれば、良い子でいられる。そうやっておまじないにもお守りにも似ていたはずのそれは、いつしか私を縛る呪いになっていた。
どうしたってルールを破ってしまう自分が嫌いで、憎くて、苦しくて、もう全部終わりにしようって、そう思ったのに。
「ルール、ルール、って何回も何回も言われるとさあ、破りたくなっちゃうんだよね」
私、悪い子だから。意地悪げな笑みを浮かべたまま、あなたは私の手を掴んでそう言った。
『踏み込まないこと』。それが、二人の間に唯一あったルールだったのに。
「……むちゃくちゃじゃん」
「そうだよ、私は悪い子だし、無茶苦茶なの。だから、諦めて?」
そのまま、ぐっと力強く引き寄せられる。勢いのまま彼女の胸に飛び込んで、二人一緒に灰色の地面に倒れ込んだ。
足元、見下ろしていた街並みが、一気に遠ざかった。
「お、やっと泣いてくれたね」
顔を上げるなり、彼女の手が頬を撫ぜる。指先に付いた雫を見て、私はやっと自分が涙を流していることに気が付いた。
泣かないこと。
「……しんどかった」
弱音を吐かないこと。
「そっか」
誰にも、迷惑をかけないこと。
ボロ、ボロ、と。自分で作り上げて今まで守り続けてきたルールが、彼女によって一つずつ崩されていく。呆気なく、容赦なく。いとも簡単に。
「…これじゃ、私、悪い子になっちゃうや」
ぽつりと零した呟きは、独り言のつもりだった。けれど、彼女はそれすら聞き漏らしてくれなかった。
「それじゃあ、共犯ってことで」
ニッと笑ったその顔が眩しくて、視界がまた滲んだ。
『大好きな君に』
「おめでとう」
その言葉は、大好きな君に上手く届いただろうか。
声は震えていなかっただろうか。顔は暗くなかっただろうか。涙は、ちゃんと堪えきれていたかな。
拍手。笑い声。誓いの言葉。耳から入ってくる何もかもがどこか遠く聞こえる。
私は、もうずっと、この世で一番美しい花嫁から目が離せないでいた。
真っ白なベールに包まれた幸せそうな笑顔が何より綺麗で眩しくて、痛くて痛くてたまらなかった。
「好きだったなあ」
ぽつりと呟いたその言葉が、いっそ大好きな君に届いてしまえばいいのに。
滲んだ視界の先で二つの唇がゆっくりと重なるのを、私はただぼんやりと眺めていた。
『欲望』
あ、殺さなきゃ。
目の前でたおやかに舞う彼女の肢体を見て、私はそう思った。どこまでも純粋で美しい彼女に、少しでも邪な感情を持ってしまった私を、ここで殺さなきゃ。と。
あの指を絡め取ってしまったら。あの髪に口づけを落としてしまったら。この世の何よりも真っ白なあの純白を、この手でズタズタに引き裂いて汚してしまえたら。
そんな欲望ごと、私は私を。
柵の向こう側、彼女の必死な叫び声が聞こえた。急速に遠のいていく視界に映った彼女の顔は、零れ落ちる透明な雫と悲痛の色で彩られていた。
…それが、私には、何よりも美しく見えて、
【三日月】
すうと細められたあなたの目が、色素のうすさも相まって三日月みたいに見えた。
なんて、そんなことを言えばあなたはきっと照れてしまうだろうから、口には出さなかった。そっぽを向かれるのは嫌だったから、ただじっと黙っていた。あなたが不思議そうに首を傾げるまで、大好きな三日月を堪能した。
【色とりどり】
穏やかな陽光に照らされて、露がきらきらと輝いている。昨朝に降った雪によって真っ白に染められた村は、一日経ってすっかりその様相を変化させていた。昨日まで雪に覆われていた色とりどりの花々が、陽の光を浴びながら緩やかに揺れている。
一面無機質な色だった山々も、今は点々と色付いている。幼かった頃はあの山を、野原を、日が暮れるまで駆け回ったものだ。そしてその隣では、気心知れた幼馴染が息を切らしながら無邪気に笑っている。それももう、今は遠い昔の記憶になってしまったけれど。
『雪、好きなんだね』
見渡す限り見事な雪景色になった野原を見て目を輝かせる俺に、いつだか幼馴染がそう言ってきたことがあった。その時は、迷うことなく頷いた。でも今は違う。雪は嫌いだ。はらはらと舞う白を見る度、思い出すのはもう見ることの叶わない横顔ばかりだから。遠く離れた街に越したっきり、会えなくなった彼女のことが、ひどく恋しくなってしまうから。だから、雪は、嫌いだ。
一つ、大きく息を吐く。宙にぼんやりと浮かんだ白から目を逸らして、代わりに色とりどりの花々を見下ろした。