【君と一緒に】
「きっと幸せになれないよ」
ひどく震える手を、自分の掌でそっと包み込んだ。冷たかった指先が、二人分の体温に染まっていく。
「なれるよ、一緒なら」
はく、と呼吸が止まる音がした。伏せられていた顔が、ゆっくりと上げられる。
「一緒に、いていいの?」
「いいよ」
「おれで、いいの?」
「…じゃなきゃ、嫌だよ」
見開かれた真っ黒な両目から、ぼろぼろと透明の雫が溢れては落ちていく。心の柔らかなところが剥がれていくのが、目に見えるようだった。
「おれも、いっしょが、いい」
初めて聞けた本音。胸にあたたかなものがこみ上げて、思わず目の前の体を引き寄せた。割れ物のように慎重に、壊してしまわないように抱きしめる。
世間体だとか、将来のことだとか、どうでもよかった。
今はただ、ただ、君と一緒に。
【幸せとは】
「幸せってなんだと思う?」
そうやって問いかけてきたあなたの表情を、今でもはっきり覚えている。少し意地悪げに笑いながら、僕の顔を覗き込むようにして、あなたは突然そんな質問を投げかけた。
あの日、僕はたしか、分からないとだけ答えた。あなたは一瞬だけまん丸な瞳で僕を見つめた後、そっか、となぜだかひどく面白そうに目を細めた。
幸せというものが何なのか、今でも答えは出ないまま。
でも一つ、ただ一つだけたしかなことは。
「少なくとも今の僕は、絶対に幸せじゃないよ」
ぽつり。啜り泣きの声と芳香だけが満ちる室内に、僕の呟きが小さく落ちて溶ける。眼前、無機質な色の花々に囲まれて目を閉じるあなたは、果たして最期まで幸せでいられたのだろうか。
「ねえ、しあわせって、なんだろうね」
答えは、返ってこないまま。
色のない頬に触れた指が、ゆっくりと凍えていった。
【日の出】
シャッ、とカーテンを素早く引く音が聞こえた。沈み込んでいた意識がゆっくりと引き上げられる。何度か瞬きを繰り返す。薄暗い室内。音の方向に顔を向けて目を凝らせば、掃き出し窓の前に立ち尽くす人影が見えた。衣擦れの音で気が付いたのだろうか。何か声をかけるよりも先に、窓の外を見つめていたらしい視線がくるりとこちらに向けられる。
「あ、起こしちゃったか。ごめん」
「いいよ別に。なに見てたの」
甘やかな声色に浮つきかける気持ちを抑えながら、ほんの少しそっけない態度で問いかけた。それに気が付いてか気が付かずか、彼はその質問には答えないまま、もう一度窓の方へ顔を向ける。
「ほら、ちょうど今見える」
その言葉に、横たえたままだった体を少しだけ持ち上げる。一緒になって目を向けた先、遠くの山の間からきらきらと輝く太陽が覗いているのが見えた。――日の出だ。
彼がこんな時間から起き出してまで見たかったのは、この景色だったのか。隣をちらりと見やれば、満足げな微笑みを返される。差し込み始めた陽光に照らされたその笑みがなんだかひどく眩しくて、思わず目を細めた。
【今年の抱負】
「今年の抱負かぁ…そんなん言われても、別にやりたいこともないんだよなあ」
「俺とずっと一緒にいる」
「え?」
「今年の抱負。俺とずっと一緒にいる、で良いじゃん」
「…え?」
「それなら絶対達成できるよ、俺は離れる気ないし」
「………なに?今プロポーズか何かされてる?」
「うん」
「うん!?」
【新年】
『いや〜明けましておめでとうございます。とうとう新年やねぇ』
なんとも間の抜けた声。両耳を覆うヘッドフォン越しにそれを聞きながら、指先に挟んだ煙草をくしゃりと灰皿に押し付ける。今喋っているのは、俺がここ数年ずっと推している配信者だ。顔は映しておらず、代わりに可愛らしい虎のキャラクターが画面上でゆらゆら揺れている。いつもなら彼の配信を見ているのが何にも代えがたい至福の時間だが、今は違う。俺は内心焦っていた。めちゃくちゃ焦っていた。なぜって?彼の口から語られるエピソードの全てに、聞き覚えしかなかったからだ。
『そうそう、初詣行ってきたんよ。そこでおみくじ引いてんけどさあ…』
(…「結果は大凶だった、今時そんなことある?せめて凶までやろ。」…だよな)
画面の中の彼が話すよりも先に、その続きを脳内で諳んじることができてしまう。知ってる。だってそれ、昼間に聞いたのと一言一句同じ。爆笑しながら話していた友人の声が、脳内でリフレインする。
『しかもさ、俺大凶引いてんのにさ、一緒に行った友達引いたの大吉やで?まじでやってられへん、俺の運全部吸われてるんちゃうかな』
机の上に投げ出した財布から、紙切れを一枚取り出して広げる。そこには、でかでかと書かれた「大吉」の文字。
それから、微かに震える指でスマホを操作する。今日の初詣で友人と撮った写真。大吉のおみくじを持った俺と、それから、大凶のおみくじを持って泣き真似をする友人が映っている。…いや、いやいやいや。まさか。まさか、ね。
『なになに、「初詣一緒に行ったの女?」…なわけないやん。男よ男。中学時代から仲いいヤツ』
点と点が線になって、繋がってしまった。画面の向こうで今喋っているのは、俺の最推しだ。そのはずなのに、なのに、目を閉じれば頭に浮かぶのは今日の昼間一緒に初詣に行ったばかりの親友の顔で。
(…………俺の推し、アイツだったの…?)
俺が数年前からずっと生きる糧にしていた推しが、中学時代からの親友だった。
ああ、新年早々、こんなことがあっていいのか。まだあと一年、あいつと同じ大学に通うんだぞ。毎朝一緒に通学してるんだぞ。どんな顔をして、あいつに会えば。
「神様…嘘だといってくれ…」
ピロン。配信終了とほぼ同時に通知が鳴る。今日はありがとう、今年もまた一年よろしくな!なんて呑気なメッセージに、俺は何も返せないまま項垂れた。