「時を告げる」
一見、誰もいないように見える廃墟。しかし、ひとたび時が告げられると、たちまち熱気を帯びる街に変貌する。
時守りを失った街は眠ったまま長い年月を経て廃墟となる。そう、生命がある者は時守りが時を告げないと眠る。生命がない者は時が告げられなくても朽ちていく。この法則は誰にも変えられない。
最後の時守りが死んで数百年、廃墟の中に動くものがいる。子どもだ。朝目を覚ますと父も母も眠っている。街に出ても誰もいない。学校にも行った。昨日は日曜日だったから、今日は休みじゃないはずだ。でも誰もいない。
子どもは泣き叫ぶ。道端で眠っている酔っ払いを揺さぶる。だが起きない。街中を走り回って起きている人を探すが、自分以外は眠る人ばかり。
絶望した子どもは再び歩き出す。何もしないではいられなかった。なぜみんなは眠っているの?そうだ、わからないことは本で調べればいい。
町で唯一の図書館に来た。ドアは閉まっているが鍵はかかっていない。カウンターで、書架の間で、閲覧用の椅子で、人が眠っている。
コトリ、ドサッ。
急に音がしてびっくりする。急いで音のした方に行くと一冊の本が落ちていた。『眠る街』というタイトルの絵本。開くと絵ばかりで字は書かれていない。
『眠る街』
少年が一人で廃墟を歩いている。少年のほかは誰も眠ったまま。少年は街のいろんなところに行く。どこへ行っても人は眠っている。それだけじゃない。小鳥も猫も犬も動物の鳴き声も聞こえない。絶望した少年は空を見上げる。目に入ったのは街で唯一の高い建物、時計台だ。
少年は時計台に向かって走り始めた。時計台に着くと階段を駆け上がり、上がりきったところにあるドアを開ける。
「新しい時守りに託す」
そう書かれた紙の上に大きなねじ巻きがある。大きな文字盤の中央に向かう梯子がある。少年には大きすぎるねじ巻きを必死に抱えてはしごを登る。
ねじ巻きは梯子を登りきったところにある穴にぴったり収まる。恐る恐るねじを巻く。数百年の間動くことのなかったそれはとても硬い。少年の力では動きそうにない。しかし少年はあきらめない。何度も何度も力を込めてねじを回す。
いつの間にか少年の周りに時守りたちが集まってくる。かつてここで力尽き亡くなった者たちだ。彼らは梯子の周りに輪を描くように集まり少年の手元に光を投げかける。
ゴトッ。ねじが動いた。それからは皆の力でどんどんねじを巻く。振り子が動き、長い針が12を指したところで、カーンカーンと鐘がり、時を告げる。
街のみんなが目を覚ます。小鳥が猫が犬が騒ぎ出す。粉を挽く音、火を起こす音、人が話す声がする。
本を閉じた子どもは一目散に時計台に向かう。階段を駆け上り、ねじを拾い上げ、ねじ巻く。時守りたちとねじを巻く。振り子が揺れる。鐘が鳴る。新しい時守りの誕生だ。
「貝殻」
小さな瓶に入った薄いピンク色の貝殻。まだ小学生の頃、うちの家族と貴司の家族で海水浴に行ったときに拾ったものだ。波打ち際で砂のトンネルを作っていて見つけた。それから二人で夢中になって貝殻を探した。白い砂がきれいな海岸で、砂も少し持ち帰った。母が揃いの小さな瓶を二本見つけてくれて、白い砂と一緒に入れて貴司と分け合った。
あの頃のままでいられたら良かったのに。無邪気な子どものままで。高校3年のとき手をつかまれて、心臓がバクバクしてどうにかなりそうだった。貴司と手をつなぐなんて子どものときは当たり前だった。この貝殻を集めたときだってそうだ。貝殻と砂を入れた袋を大事に持って、反対の手を貴司とつないだ。
あのとき自覚した感情と欲望から逃げることで、俺はなんとか生きてこられた。それはこれからも変わらない。
真夜中の電話に起こされた。母からだった。
「もしもし、櫂?」
「何か急用?こっちは夜中だよ」
「そうなの?ごめんね。高校の同窓会の案内が来てるの。いい機会だから一度帰国したらどう?」
「欠席で出しといて。他になければ切るよ」
母さんはいつもこうだ。思いついたらこっちの都合なんて考えない。まあ、そんなところに救われてもいる。変に気をつかうことがない。だから急にアメリカの大学に行きたいなどというわがままも、それが本当にやりたいことならと応援してくれた。
母さんはまだ貴司の母親と仲がいいのだろうか。貴司が今どうしているか、母さんなら知っているだろうかか。
目が覚めてしまったのでベッドを出て水を飲んだ。本棚の隅に置いてある貝殻の入った瓶を手に取る。高校の同窓会か。貴司は出席するんだろうか。会いたい人は貴司だけ。同時に会いたくないと思うのも貴司だ。
気がつくと貝殻の入った瓶をきつく握りしめていた。見えないようにデスクの引き出しにしまう。隠しても気持ちは消えないのに。何度か捨てようとして出来なかった。貴司はまだ持っているだろうか。
「きらめき」
いつものように仕事をして一人の部屋に帰る。冷蔵庫からビールを取り出してデスクの前に座る。パソコンを開いてもう何度も見たネットニュースの画面をまた開く。
櫂、お前はずいぶん遠くに行ってしまったんだな。生まれたときから一緒にいるのが当たり前だった。でもお前はアメリカの大学に行って、そのまま帰ってこなかった。
なんで俺はお前の消息をニュースで知らなければならないんだ?親友だと思っていたのは俺だけなのか?そうなんだろうな。高校3年の途中から櫂は俺を避け始めた。アメリカの大学に行きたいから勉強が忙しいと。
卒業式の日、みんなと同じように挨拶をして、すぐにアメリカに行ってしまった。俺には何にも言うことなかったのかよ。
櫂と過ごす時間が好きだった。不器用でうまく人と話せなかったけど、俺だけが知っていればいいと思った。櫂のやさしさも温かさも、俺だけのものだ。櫂の前でだけ本当の笑顔になれた。なのに、お前は離れていくんだな。
二本目のビールを開けて櫂の写真を見つめる。ボサボサの髪に黒縁のメガネ、よれよれの白衣。新進気鋭の物理学者の割にひどい格好だな。アメリカの権威ある賞を受賞したとのニュース。プロフィール欄には母校の高校の名もある。
なあ、なんで嬉しそうじゃないんだ?誰に何を言われようと俺にはお前との時間が一番だった。あの頃の二人は確かにきらめいていた。こんな賞をとっておきながら、なんで今のお前にはきらめきがないんだ?
人のことは言えない。俺だって同じだ。一流大学を出て、名の知られた大企業で第一線で働いている。知り合う女は容姿と名刺だけで勝手に好きになる。俺のどこを知っていると言うんだ?
スマホに残った櫂の電話番号。
「おかけになった電話は現在使われておりません」
わかっているのに消せないんだ。
なあ、櫂。お前に見捨てられた俺はいつまでお前を思っていればいい?あのきらめきも忘れたほうがいいのか?教えてくれ。
「些細なことでも」
家に着いてから勇気を出してスマホを開く。
「あの時の百円、今返して」
覚えていてくれた!それだけで胸がいっぱいになる。
「はい、お返しします。あの時は本当にありがとうございました」
すぐに返事が返ってきた。
「明後日の土曜日は休み?」
「お休みです」
「一緒にランチでもどう?」
「はい、お願いします」
どうやって返す?ただ百円玉を渡すだけではつまんないよね。うーん…
思いつかないまま土曜日になってしまった。百円玉のことばかり考えていて、着ていくものまで考えていなかった!ああ、先輩とのデートなのに。デート?デートでいいのよね?
結局、何も思いつかない。デートにふさわしいようなかわいい服も持っていない。いつもの休日スタイルで出かける。ジーンズにTシャツ、スニーカー。
先輩がいる!先輩もラフな格好でよかった。そして行き先は、まさかのラーメン屋。和やかに、仕事の話が進む。同じ業界にいることで話は尽きない。
ラーメン屋を出て二人で街を歩く。青空に時々雲がかかる。さわやかな風が吹き抜けて気持ちいい。キッチンカーでアイスコーヒーを買ってベンチに並んだ。返すなら今だ。バッグから財布を取り出した。えっ。まさかの百円玉がない。
「ごめんなさい」
「どうしたの?」
「百円返そうと思ったんですけど、百円玉がなくて」
フフッと先輩が笑う。
「返してもらおうなんて思ってない」
「でも…」
「そう言えば会ってくれると思ったから」
「先輩から誘ってくれたのに断るなんて考えられません。あの時から先輩が好きでした」
言ってしまった。こうなったらちゃんと伝えよう。
「でも先輩の隣にはいつも副会長の東さんがいたから、何も言えずにいました」
「別れたんだ。つい最近。結婚も決まってる。へこんでたら、君に会った」
いつも自信にあふれていてみんなの中心にいた先輩。こんな先輩は初めてだ。弱々しく微笑む姿にキュンとする。
「ごめん、迷惑だよね。寂しかったんだ。そんなときに君を見かけて、つい誘ってしまった」
「迷惑じゃないです。覚えていてくれたの本当にうれしかったから」
「君さえよければ、これからも会ってくれない?」
「はい。少しでも先輩に近づきたいです」
「些細なことなんだけど、ふと寂しくなる瞬間があって」
「じゃあ、そんなときは連絡してください。話し相手にはなれますから」
「ありがとう」
先輩の寂しさにつけ込むことになるだろうか。それでもいい。先輩の中にあの時の私がいて、先輩が辛いときに出会ったのなら運命じゃない?
些細なことでもいい。先輩が寂しいとき、私を思い出してくれるなら。
「心の灯火」
似ているなと思い遠巻きに見ていた。確信してからはすぐに行動した。高校のとき1年だけ接点があった。3年の俺と1年の彼女。
ちょっとドジな子だった。自販機の前で百円玉を落として途方に暮れていたから百円玉をあげた。ただそれだけ。上履きの色を見なくても新入生だとわかる。初々しい。前髪が短くてくっきりとした少し太めの眉が印象に残った。
生徒会長だったから見られることには慣れていた。あの子もいつも俺を見ていた。だからかな、球技大会や文化祭であの子を見かけるとつい目で追ってしまう。ジャージの刺繍から「須藤」という苗字だけわかった。
学年が違うと校内で偶然に出会うことも少ない。行事以外では購買などでたまにすれ違うだけで、そのまま卒業し、会うこともなかった。でもなぜかあの眉が忘れられないでいる。
仕事で訪れた見本市会場でたまたま「須藤」という名札を下げた、眉に特徴のある彼女。ブースの外に出てパンフレットを配っているところをつかまえた。半ば強引に連絡先を交換した。
須藤よ、許してくれ。高校を卒業してからもずっと付き合っていた彼女に振られたばかりなんだ。結婚まで考えていたのに今さら他の男がいいだと!ふざけるな!俺の8年を返せ!と、怒りが湧いてどうしようもない。
そこに須藤が現れたんだ。俺と目が合うとびっくりして固まっていたが、ふっと表情がゆるんで笑顔になった。暗闇だった心にぽっと火が灯った。
メッセージを送ったがまだ既読にならない。仕事が終わらないのか?俺なんかが連絡して迷惑だったか?いや、内容がまずかったのか?小さい男と思われた?でも彼女なら必ず
返してくれる。
「あの時の百円、今返して」