「鳥のように」
遮光カーテンから漏れ出る陽の光が天井から壁へと白い線となる。窓の外からは小鳥のチッチッという声が聞こえる。手探りでスマホを手繰り寄せると時刻は午前5時40分。日当たりいいのが気に入ったけどもう少し寝かしといてよね。誰に言うともなく口に出す。
もうこのまま一人で生きていく覚悟を決めてこのマンションを買った。70歳までのローンなんて気が遠いけど、やるしかない。思いっきりカーテンを開けたらバルコニーに集っていた小鳥たちが一斉に飛び立つ。
窓を開けて日差しと新鮮な空気を浴びる。さて、今日も一日頑張りますか。バスがカーブを曲がると、きらきらと輝く海が姿をあらわす。高い空をトンビが舞う様が羨ましい。
スマホで海の写真を撮った。毎日同じ時間に同じ場所を撮ることにしている。並べてみると、やはり毎日違うことがわかる。よく晴れた日は海が青い。曇った日は白っぽい。海は空の色を映しているんだな。
トンビの声が聞こえる。そこから何が見える?いつかあんなふうに飛べたらな。駅に着いたバスが乗客を降ろし、乗客は駅へと吸い込まれる。
今日も昨日と同じように会社に行くとしても、海に一日として同じ表情がないように、そこでの一日が昨日と同じではない。あのトンビだって毎日違う景色を見ている。
「さよならを言う前に」
2年間のこちらの支社での勤務も明日で終わり、明後日には東京に戻る。社宅の片付けはほとんど終わった。転勤が多いので荷物は増やさないようにしてきた。もうこれで4回目の引っ越しだ。
人間関係も同じ。仕事上の人脈は作りながらプライベートでは一定のラインを越えないように慎重に築き上げてきた。これからも同じ。そのはずだった。
翌日、勤務を終え送別会もこなし、社宅に帰ってきた。明日は引っ越し業者に荷物を預け、社で契約している清掃業者に来てもらえば全て終わり。夕方の飛行機に乗ればいい。本当にそれでいいのか?
誰にも気付かれてはいないと思う。一人だけ、たった一人だけ離れたくない奴がいる。さっきドアの前で別れたばかりだ。社宅の隣の部屋のあいつ。
言うべきだろうか?いや、やめておこう。いなくなる人間に何を言われても迷惑なだけだろう。子どもの時から慣れている。父親も転勤族だった。仲良くなった頃には別れが来る。別れはつらい。仲が良ければ良いだけつらい。それなら最初から仲良くなんかならなければいい。ずっとそうして生きてきたんだ。今度も同じ。
荷物を運び終えた部屋は嫌いだ。さっきまであった俺の気配が今はもうない。お前も同じだと思い知らされる。空っぽだ。ベランダに面した窓から見える景色が好きだった。これは持っては行けない。そう、最初はベランダ越しに話したんだ。花火大会の夜だった。
清掃業者は管理会社も兼ねているので、鍵を渡すと部屋を出た。本当にこれで終わりだ。階段を下りると奴が待っていた。
「空港まで送るよ」
「いや、いい。時間あるからバスで行く」
「いつまでそうやって生きいくつもり?こっちの気持ちは無視か」
スーツケースが奪われ、軽々と車のトランクに入れられた。立ちすくんでいる俺の腕を掴み車に乗せた。
「手荒な真似してごめんね。そうでもしないと何も言わずに行っちゃうでしょ」
空港までは1時間ほど。さらに飛行機が出るまでに少し時間がある。このままさよならなんてごめんだ。ようやく出会えたのに。あの花火の夜、見つけたんだ。
東京に帰る前に俺に言うことがあるだろう?さよならはその後でいい。
「空模様」
曇り時々雨、降水確率50%か。年1回の野球観戦の前夜、天気予報は微妙だ。明日行くのはスタジアム。合羽は一応用意しておこう。三塁側内野席は夕陽が眩しいが、曇りなら大丈夫か。すぱっと晴れてくれればいいが、中止だけは勘弁してくれ。
「ねえ、明日おにぎりでいい?」
「そうだな。足りなければ球場で買おう」
全部買ってもいいと思うが、そうすると出費か多すぎるからといつも用意してくれる。高校の時と同じだ。有能なマネージャーだった。昔も今も助けてもらってばかりだ。
こうして二人で過ごすのはとても幸せなことだ。でも、このごろ考えるんだ。そろそろ新しい家族を迎えないか?
本当は君が入部した時から好きだったのに、なかなか言えなかった。君はみんなのマネージャーで、誰に対しても同じ態度で接していた。
準決勝で負けて、悔しくてみんなで泣いた。決勝まで残ったらこのスタジアムで試合が出来たのに。
「また考えてる」
「何?」
「準決勝で負けたから、ここで戦えなかった」
「図星だ」
「ねえ、このスタジアムで新しい思い出作ろうよ」
「いつになるか何人かわからないけど、子どもと一緒にここに来る。そろそろ考えよう?新しい家族」
まただ。何でも先を越されてしまう。
「何で俺の考えてることわかるの?」
「だって、マネージャーですから」
そう言って笑う君の笑顔はあの時と同じだ。ぐずぐずとバットやグラブを片付けていたらバスに乗り込むのが最後になってしまった。君が呼びに来た。
「みんなのマネージャーは今日で終わり。明日からは君の専属マネージャーになる。ほら、急ぐよ」
手を取られて走り出す。あれから10年になるんだな。
「じゃあ、今夜から」
そう言って手を握る。
「帰ったらね。今は試合に集中!」
今にも雨が降りそうな空は試合中は何とか持ちこたえた。応援するチームは負けてしまったが、今日はまだ終わらない。ビールを我慢したから帰りも俺が運転する。
「あれ、どこ行くの?」
「家まで待てない。近くのホテルを予約した」
急に静かになった君の横顔。
「うん」
サーッと雨が降り始め、フロントガラスにみるみる雨粒がかかる。ワイパーの音だけが響く。
「鏡」
寝室の全身が入る大きな姿見の前に立つ。鏡の向こうからこちらを見つめる自分の瞳を見つめ返す。右手を鏡にぴたりとつけ、しばらくそのまま待つ。じっと待たなければならない。呼び戻すために。
今そこにいないのか?右手から感じる向こう側の気配は静かなままだ。しかし少しずつ近づいてくるのがわかる。やがて鏡に映る自分が笑う。鏡と右手の境界がだんだんと曖昧になる。すっと力を込めると右手が鏡の中に吸い込まれる。
やがて鏡全体がゆらぎ、全身が向こう側に飲み込まれていく。同時に向こう側から鏡に映った姿の自分がこちら側に押し出される。
さてと、こっちに来るのは久しぶりだな。あいつ、もっと入れ替わってくれてもいいのに、けちな奴だ。
「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴る。やられた。面倒なときだけ呼び出すなよ。
「ピンポーン」
はいはい。仕方なくドアを開ける。やっぱりな。あいつの彼女だ。
「お邪魔しま〜す」
なんか酒くせーぞ。酔ってんのか。
どさっとベッドに押し倒される。いきなりかよ。はいはい。
さて、事は済んだ。やれやれ。
「ねぇ、私のこと好き?」
あー、超絶面倒くせえ。ここは嘘でも言っとくか。
「好きだよ」
「私も好き」
首筋を吸われる。マーキングかよ。ん?これはやばいかも。やばいやばい。
彼女が眠ったのを確認して鏡のもとに向かう。右手をつけじっと待つ。やがて鏡の中の瞳が笑う。俺が首筋についたマークを指差すと笑いは消え顔色が変わる。そのまま右手の境界から鏡がゆらぐ。
全く彼女が来るたびに呼び出すんじゃねえよ。面倒くせえ。早いとこ別れろ。すれちがいざま言ってやった。
彼女を起こさないようにそっとベッドに潜り込む。別に嫌いじゃないんだ。ごめんよ。気がつく前に別れないと。
「あれ?」
彼女の声で目が覚めた。
「どうした?」
「こっちだっけ?」
「そうだよ。忘れたの?ずいぶん酔ってたからね」
「そっか」
うまくごまかせた。でも気をつけないとな。マークが見えないようにタートルネックを選んで着る。別れる理由を考えながらみそ汁を作る。
「あれっ?今日は左で持つんだね」
ん?左?てことは、鏡の中?確か夜中に鏡から出てきたよな?
外を確認しよう。確かベランダに出て右側が東だった。いまは朝だから太陽は右側に出ているはずだ。何てこった。太陽が左にあるぞ。
どこで間違った?
「おはよ」
彼女が微笑んでいる。昨日自分でつけたマークをなぞっている。夢、だったのか?どこからが?
「いつまでも捨てられないもの」
読みかけの本に栞を挟む。この栞は長いこと使っている。もう二十年も前のことだ。貸してあげると一方的に渡された本に、手紙と一緒に挟まれていた。
「電話番号教えてくれたら毎日電話する。住所教えてくれたら何度でも訪ねる」
手紙の最後にそう書かれていた。社員旅行のとき飛行機で席が隣になって親しくなった先輩からだ。旅行中二人で行動することが多く距離が縮まった。前から私が好きで、旅行のとき思い切って隣に座ったと手紙には書かれていた。
応えられるはずがない。私には結婚を考えている人がいたから。それでも先輩は手紙をくれた。その文面の激しさに私は戸惑った。すぐには返事を書けなくて、社内でも目を合われられなくて、それでも私の心は決まっていた。
どんな言葉で返事をしたのか忘れてしまった。ただ薄桃色の和紙の栞がとてもきれいで、それだけ残しておいた。代わりにモネの睡蓮をモチーフにした栞を挟んで返した。
その後結婚し妊娠を機に会社をやめた。元気でいるだろうか。あの栞が私を励ましているとは思ってもいないだろう。あの時あなたに愛された事実が今も私を支えていると。