「誇らしさ」
誇れるものなんて何もねーな。仕事中だが平和すぎて警備員の出る幕なし。だからつまんねーことを考えちまう。監視カメラに映るどこも異状なし。
そもそもこんな仕事に意味があるんだろうか。城塞で守られた都市の中は安全だ。出入りは門で厳重に管理されている。許可証のない奴は入れない。城内の者はIDによって位置情報が逐一報告されているし、予定された場所以外に行こうとするとIDが検知して、ここ情報管理センターに通報される。
通報されるとまず駆けつけるのが我々の仕事だ。それ以外に繁華街での犯罪行為の監視、要観察者の動向の監視などが仕事だ。
「今日も相変わらずだな」
別の監視カメラを担当している者が目は画面から離さずに言ってくる。
「そうだな。つまんねー」
「何もない方がいい。ところで今日も頼むな」
「了解。うまくやっといてやるよ」
こいつは職権を乱用して恋人を見つけた。会いに行くためにIDの通報をなかったことにしてやっている。相手は要観察者だから、ばれれば懲戒間違いなしだ。
「そんなにいいのかよ」
「ああ、最高だ。従順で正しいことしか言わない人間にはうんざりなんだよ」
先に仕事を終えたそいつのIDが彼女の家に向かい始めると警告が表示される。警告は3回発せられ、3回無視すると通報だ。その警告を無効にしてやり残り2回もうまく回避した。警告を無効にできるのは俺たちだけだ。
奴は自宅に戻ったことにした。ここでの不正は外に出ることは決してない。なぜなら、この監視自体が違法であるからだ。違法な監視によって見つかった犯罪は秘密裏に処理され、平和は保たれる。
政府のやり方は、はっきり言って常軌を逸している。政権獲得すらそもそも違法だった。しかし中央から遠く離れ無法地帯だったこの地を首都にし、豊かにしたことによって住民は政府を歓迎した。監視社会は経済の豊かさと対になっているのだ。
翌朝仕事を終え帰宅した俺にIDが警告を発することはない。違法に政権を掌握した政府に雇われた、違法な監視をする仕事。誇らしさなど微塵もない。
一日休んで次に出勤すると奴に礼を言われる。
「ありがとな。これよかったら」
恋人が作ったというクッキーだった。
「なあ、怖くないのか?」
誰もいない所で聞いてみた。
「怖い?俺からしたら彼女を失う方が怖いわ。そのうち城外に出る」
城外に出る?
「そのときはよろしくな」
肩をぽんと叩き笑顔で持ち場に戻って行く。
彼には誇れるものがある。俺はどうだ?俺にも誇れるものができるなら。そう思い要観察者の映像を見る。あるモニターの前で足が止まる。まっすぐにこちらを見る瞳。ドクン。胸が高鳴る。
「ターゲット捉えました。アクション開始します」
モニターに表示された男の表情を見逃さない。この男を陥れる。城外に出るためなら手段を選んではいられない。もうすぐ実行できそうな先輩のアドバイスに従って、私も絶対に手に入れると決意した。
「夜の海」
車を走らせて夜の海岸に来た。昼間の喧騒はない。海辺のホテルの他には光を発するものはない。広々とした砂浜にゴザを敷いて横たわった。幸い月は出ていない。腕を枕に空を見上げた。背中に砂の奥に残る昼間の熱を感じるが、海風がやさしく体をなでる。
忘れられない夜空がある。校庭にテントを張ってキャンプをした夜のことだと。テントの中ではみんな寝静まっているが、一人だけ眠れなかった。固い地面の感触と狭いテントに閉じ込められた不快、みんなと眠ることに緊張もしていた。
ふと思いついてテントを持ち上げて顔だけ出した。風が頬を撫でる。涼しさにほっとする。と同時に迫ってくるような星空に思わず「わあ」と声が出た。大丈夫。誰も聞いちゃいない。
しばらくすると蚊が寄ってきた。手で払ったがしつこいので諦めてテントのなかに戻った。目を閉じるとさっきの星空が浮かんで、それを見ながらようやく眠りについた。
今日の星空はあのときの星空といい勝負かもしれない。潮の香りとざぶんと寄せる波の音。夏の大三角、地平線近くにさそり座。少し反るようにして北の空に目を移すとカシオペア座が見える。目が慣れてくると天の川がくっきりとしてくる。
今日はたっぷり虫除けスプレーをして、蚊取り線香も持ってきた。蚊が来たら追い払えるようにうちわを持参、刺されてもいいようにかゆみ止めの薬も用意し、準備万端整えた。蚊のせいで中断したくないから。
仰向けになってまだ数分だけど、すーっと夜空を横切るように、今日最初の流星が一瞬だけ浮かんで消える。それから十二個までは数えたが、それ以上は数えるのをやめた。すぐに消えてしまうのもあれば、願い事三回言えるんじゃないかというくらい長くとどまるものもある。
しばらく堪能して体を起こした。海と空の境は星でわかる。星のない漆黒が海。先程ここに寝転んだ時より波打ち際が遠い。そろそろ帰ろうか。立ち上がろうとするとまた星が流れた。
「自転車に乗って」
どこまでも行けそうな気がする。レンタサイクルを借りて湖を一周する。サークル仲間と訪れた河口湖。十人のメンバーのうち女子は二人。先輩も含めて男子は8人。現部員で女子は私たちだけ。だからとても待遇が良い。
「気持ちいいねー」
二人でのんびり景色を楽しむ。男子たちはとっくに進んでしまった。時折、部長が心配して待っていてくれる。やさしい人だ。
「二人とも大丈夫?」
「はい。とっても楽しいです!」
サークルのなかで誰が素敵?、〇〇先輩の彼女見ちゃったとか、他愛もないおしゃべりをしながら、自分たちのペースで進んで行く。
「もうちょっとスピード出しても平気じゃない?」と提案すると「行ける!」との返事。それから二人で呼吸を合わせながら進むと、二年生の先輩が二人休んでいる。
「お先に〜」と追い越した。まだまだ行ける。自転車に乗るのはいつ以来だろう。高三のとき海に行くのに乗ったのが最後かな。友だちは今でも駅まで毎朝乗っているそうで、全然平気な顔をしている。田舎育ちの体力を侮るな。絶対に負けるもんか。
変な対抗心も手伝って、二人は順調に男子たちを追い越していく。始めに飛ばし過ぎたのか、男子たちは道端に座り込んで肩で息をしている。
ゴールが近づくと二人はますますスピードを上げる。対抗心なんてどこかに飛んでいった。ただ純粋に楽しい!青空と湖と富士山が美しい。それを共有できる仲間。
二人で一番にゴールをして棒アイスをかじる。ザクッと音がして中のかき氷の冷たさにキーンとなる。
半分かじったところで二番目がゴール。最後のメンバーがゴールする頃にはとっくに食べ終わっていた。
「二人とも速いね!」
東京育ちのへなちょこどもよ、田舎育ちの体力なめんなよ。
「心の健康」
ため息が出るほど美しい。舞台写真ばかりのアルバムをめくるたび「ほう」とか「はあ」とか漏れてしまうのは許してほしい。
お嬢吉三の大川端での「こいつぁ春から縁起がいいいいわえ」の場面、櫓の上で太鼓を打ち鳴らす場面。
菅原伝授手習鑑の寺子屋、松王丸が菅秀才(実は我が子)の首を検める場面。我が子の最期の様子を聞いて泣き崩れる場面、妻のせき上げ。
義賢最期での戸板倒し、仏倒れの場面。
劇場で涙を流し、息を呑み、悲鳴をあげた場面たち。そっと閉じて胸に抱きしめる
「ただいま」
大学生の息子が帰ってきた。
「またそれ見てんの」
「何度見ても美しさは変わらないからね」
「ご飯は?」
「食べる」
「冷蔵庫に入ってるから適当に食べて」
「今度はいつ行くの?」
「しばらく歌舞伎座には出ないんだ。何ヶ月か先」
それまでどうやって心の健康を保とうか。この子がまだ小学生だった頃、心のバランスをくずした時期があった。気力がわかなくて何も出来なかった。同じようにはなりたくない。
スマホを取り出して美術館を調べる。いい展覧会ないかな…
家族以外で心を満たすこと。心の健康にはこれが一番。
「君の奏でる音楽」
出産祝いにもらったものの中で、使うまでに一番時間がかかったのが、おもちゃのピアノだった。おもちゃだけど、ちゃんとした楽器メーカー製の黒塗りのグランドピアノ。子どもの指に合わせた鍵盤がかわいい。
何でも叩き壊す時期を過ぎ、おもちゃの木琴をそっとたたくことができるようになって与えてみた。指で押すんだよとやって見せるとおずおずと人差し指で白い鍵盤を押した。小さな指が一つの音を奏でた。ぱっと顔が明るくなって次々と指を動かす。
強くたたくように押すと大きな音になる。そっと押すと小さな音になる。手のひら全体でたたくとたくさんの音。
ごめんね、ママはピアノ弾けないから教えてあげられない。だからなのか、本物のピアノを習いたいと誰も言わなかった。でも、楽器を奏でるのは楽しいことだと子どもたちの笑顔が証明している。
三人の子どもたちが卒業し役割を終えたピアノは、部屋の片隅で植木鉢の台となった。今は小さなサボテンが三つ。
そういえば、リビングのウッドデッキに面した窓からよく野良猫が中を覗いていることがある。決まってピアノの向こう側にいて、じっとピアノを見つめている。あるとき窓が開いているときにピアノを弾いてみた、正確には音を出してみたら、猫は一瞬びくっとして後退りした。
これを外に置いたら猫はピアノに触れるだろうか?どんな音楽を奏でる?そう思ったらすぐに実行したくなって外に出した。楽しみ
だなあ。早く来ないかなあ。