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7/15/2024, 11:51:37 AM

「終わりにしよう」

彼の病室を掃除するようになって2週間、話しかけられても当たり障りのないことばかり返してきた。

「会いたかった」

ふたをしたはずなのに、その先の言葉を聞きたい、聞きたくないの間で迷っている。それを悟られないように淡々と仕事をこなした。そして弁当作りも続けている。毎朝、彼の病気が良くなるように祈りを込めて作る。ただの自己満足なのだけれど。

しばらく横になってることが多かったが、その日は久しぶりにベッドを起こしていた。私の仕事を見ている。掃除が終わったころ彼が口を開く。

「もう終わりにしよう」

どういうこと?何も始まっていないのに?

「このよそよそしい関係はもう終わりにしよう。今度ゆっくり話す機会を作ってほしい」

はっきりとした意志を感じる眼差し。

「明後日はお休みだから、面会に来るね」
「待てない。今日仕事終わったら会いたい」

仕事が終わったら来ると約束して部屋を出た。何も考えないようにひたすら掃除をした。期待するな。何度も言い聞かせる。でもこの2週間で膨らんだ気持ちの正体を自分でも気づいていた。

オレンジが基調のノースリーブのワンピースとカラフルなサンダル。すっかり流行遅れのアパレル時代の服をまだ着ている。病院の面会には派手かも知れないが仕方ない。夕食前の時間に彼の部屋を訪れた。

「奈美?すっかり見違えたよ。変わらないね」
「昔の服を捨てられないだけ」
「奈美は今一人?」
「ええ、一人よ」
「幸せ?」
「幸せよ」
「ならよかった」

彼は少しためらって、でもはっきりと言った。
「昔のように、とは言わない。せめて友人として付き合ってほしい」
「あなたは今一人なの?」
「一人だ」
「幸せ?」
「幸せだ、と言いたいところだけど…まあ、今は不安でいっぱいなんだ。だから奈美の力を貸してほしい」
「わかりました」

右手を差し出した。彼が握り返す。

「病気のこと教えてくれる?」
「もちろん」

それからたくさん話をした。夕食が運ばれ、食べながら話し、面会時間が終わるまで話し続けた。

帰る時間になって私は言った。

「結婚しよう」

7/15/2024, 9:08:37 AM

「手を取り合って」

目覚めた時間は午前5時。かろうじて熱帯夜ではなかったが、朝日が差し込む部屋は徐々に温度が上がる。開いている窓から外の気配を感じる。窓を開ける音、歩く人の足音、犬の声、新聞を取る音、いつもの朝の空気だ。

早く目が覚めたからお弁当でも作ろうか。卵焼き、人参のナムル、なすとピーマンのみそ炒め、たこさんウインナ、プチトマトを小さな弁当箱につめて、ご飯はゆかりのおにぎりに。

自分のためにお弁当を作るのは久しぶりだ。最近はコンビニご飯に頼ってしまっている。そういえば、よくコンビニで会う老夫婦は今日も来ているだろうか。いつも仲良く手を取り合っている。

でも、仲がいいだけではないのを知っている。奥さんは脳梗塞の後、歩行が不安定になった。ご主人は入院している間、毎日のように面会に来て奥さんを励まし続けた。長いリハビリを経て今のようになったのだ。

亭主関白で家のことも子どものことも奥さんに任せきりだったそうだ。それでも奥さんの病気を契機に変わった。今まで頑張ったからご褒美もらえたのかしらと笑っていたことを思い出す。

自分にはそんな相手はいない。今日も仕事を頑張るだけだ。制服に着替え持ち場につく。ざわめく心にふたをして淡々と丁寧に進めていく。4人部屋、2人部屋、個室と病室は並んでいる。

期待するな。もう一度自分に言い聞かせ、彼の部屋をノックし、部屋に入る。今日はベッドに横たわったままで点滴をしているせいか、目を閉じたままだ。何の病気なのだろう。つらいのだろうか、命に関わるのだろうか。何もわからない。知りたいと思うな。

昼休み、休憩室で弁当を食べる。誰とも手を取り合うことがなくても毎日は続く。明日も弁当を作ろう。私は私のできることをするだけだ。

7/14/2024, 12:18:03 PM

「優越感、劣等感」

誰も私のことなんて見ていない。いや、可哀想と蔑む視線なら感じることはある。だからといって劣等感を持つ?

美醜の基準なんて人それぞれと居直ったところで、誰からも美しいと思われる人は存在するわけで、その逆も然り。

逆の方に属する私が笑い者になるのは必然で、今さらそれをどうにかしようとは思わない。しかし、私を見て優越感を覚える人が一定数はいるわけだ。

末摘花が醜い人とは周知のことだが、それは当時の美醜の基準によるもので、今の基準では美人なのではという解釈があるそうだ。

英訳された源氏物語を現代の日本語に訳すという、何とも偉大なお仕事をされた方々がいらっしゃるそうで、いつかは読んでみたいと思っているが、末摘花の解釈はその過程で生まれたと。

末摘花のことはさておき、見た目の美に恵まれないと思春期に悟って以来、一人で生きて行くことを当然と思ってきた。それでも劣等感を持つことはなかった。

誰かに優越感を与えることはあっても、自身に劣等感は持たない。優越感は容易に劣等感に変わる。ころころ変わるものに価値を置かないこと。

1日の終わりに今日も1日無事に過ごせたことに感謝する。それだけでいい。

7/13/2024, 3:21:39 AM

「これまでずっと」

「会いたかった」
そう言ってあなたは私を見た。そんなふうに見ないで。もう昔の私と違う。

「仕事中だから」
それだけ言って彼の部屋を出た。次の個室をノックして掃除にかかる。もう2週間ほどここにいる。どんな病気なのかはわからないが、つらそうにベッドで横になっている姿しか見たことがない。

「失礼します」
声をかけて静かに作業を進める。目を閉じてはいるが眠ってはいないだろう。これまで病気らしい病気はしたことがない。どれほどつらいかわからないが、ここでの生活が少しでも快適になるように私は私の仕事をする。

会いたいとは思ってこなかった。むしろ忘れたかった。忘れたかったけど、なかなか出ていってくれない。

その日の仕事を終え私服に着替える。今までと同じ日のはずだった。でも今日を境に決定的に何かが違う。これまでずっと胸の奥にしまい込んできたものを取り出すべきだろうか。

「会いたかった」
もう一度彼の言葉を思い返す。仕事終わりに立ち寄るカフェでいつものようにコーヒーを飲む。じんわりと言葉が響いてくる。明日も仕事だ。彼に会うだろうか。

いや期待はするな。期待するから裏切られる。何も望まないように、傷つかないように慎重に生きてきた。だからこれまで何とか生きてこられた。すっかり冷めたコーヒーを飲み干し外に出る。午後の強い日差しがまぶしい。

期待するな。もう一度言い聞かせる。しまい込んだものはそのままでいい。

7/12/2024, 1:03:27 AM

「1件のLINE」

LINEの通知には気付いたがあいにく運転中ですぐに確認できなかった。取引先に到着し所用を済ませた後、はじめて画面を開いた。

「お父さまが危篤です。至急ご連絡ください」

見覚えのない連絡先だった。父とは絶縁状態だった。妻と別れる原因となった父だ。絶縁したなら何故離婚したのかって?聞かないでくれ。父のことはきっかけに過ぎない。私のいろいろな至らなさが一気に露呈し、妻に愛想をつかされたというだけのことだ。

すぐに電話をかけた。相手は父が入院している病院の看護師だった。今日の午前中に救急車で運ばれ、最早手の施しようがなかったそうだ。

すぐに会社に連絡を入れた。社用車のまま病院へ向かう。父の住む町までは2時間ほど。3年前に母が亡くなってからは一人暮らしだ。週末ごとに訪ねてサポートをしているつもりだった。すべてを母に任せきりだった父を放ってはおけなかったからだ。とはいえ、ほとんど妻が一人でやっていた。

父は今の言葉でいえばモラハラ気質な男だった。母はよく耐えたと思う。何もできない不甲斐ない息子だった。母が亡くなると父の矛先は妻に向かった。料理がまずい、洗濯物のたたみ方がなっとらん、など父の暴言はますます激しくなり妻は精神的に参ってしまった。

その妻が出ていったのは私のせいだ。今思えば妻の話を聞いて自分も積極的に関わるべきだった。後悔だけがつのる。

病院に着くとすぐに病室に通された。なんとそこには妻がいるではないか。

「えっ、どうして?」
「どうしたも何も、何であなたはお父さんを放っておいたの!」

言葉を失っていると妻はもう帰るという。

「私にはもう縁のない人だけど、あなたのお父さんなんだからこれから先はよろしく」

廊下まで追いかけたが妻は振り向きもしなかった。

「先ほどご連絡差し上げた者です」

そう言って看護師が入ってきた。妻と電話で話しているときに具合が悪くなって、妻が救急車を呼び、今まで付き添ってくれていたそうだ。妻から私のLINEを聞いて連絡をくれたと。

「妻は直接連絡してくれてもよさそうですが、どうしてしなかったんでしょう」
「こんなこと申し上げるべきかどうか迷いますが、新しい番号を知られたくないと」

そうか、もう私とは金輪際関わりたくないという強い意志だったのか。体中から力が抜ける。ふと、父の携帯が目に入った。二つ折りのガラケーだ。履歴には妻と定期的に通話していた記録が残っていた。

ほどなくして父は息を引き取った。父の携帯から妻の新しい番号に電話しようと思ったが辞めた。妻はもう去ったのだ。

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